詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

豊原清明「有磯海のシンとジン」

2009-06-03 08:55:01 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「有磯海のシンとジン」(「映画布団」2、2009年05月発行)

 豊原清明「有磯海のシンとジン」はシナリオである。「シンとジン」は重なり合うと「詩人」である。詩人を主役にした映画であり、登場人物は詩人と父と母と、詩人が出会う何人か。その日常(?)を描いているのだが、これがとてつもなくおもしろい。
 ほとんど最後に近いシーン。詩人(英)が女(あかり)の家に行く。机の上に男の写真がある。

英「その人、もしかして、恋…。」
あかり「何でもないのよ。信じて。(声が割れている)」
   あかりと英が、ベートーベンをききながら、お寿司を食べている。
   食べ終わると、あかり、ごろんと横になる。
あかり「私と…」
英「い、いや、何を言おうとした、の…。」
   沈黙が三十分くらい経って。
   あかりが英を抱こうとして、英が悲鳴をあげ、
あかり「静かにして。」
   あかえ、すっぱだかになって英を抱こうとする。
英「もっと、優しくしてよ」
   英の服を脱がせるあかり。あえぎ声。
   ふたり、裸で仰向けになって天井を見ている。
   天井が、夜空に見える。
   「星が流れている」と言い合う。
あかり「これから赤ん坊産んでええ?」
英「まさか! 僕が父になる何て。」
あかり「毎日、抱きしめてヨ。」
英「う、(言葉が出ない。)」
あかり「もう(数分、間を開けて。)ねえ。シンとジンはいま、何処にいるのかしらね」   ウグイスの鳴き声が聞こえて、英、眠る。

 ことばなのに、映像がくっきり迫ってくる。傑作である。こんな書き方を、豊原は、いったいどこから学んだのだろうか。きっと「学んだ」ものではなく、生まれつき、こういう「文体」をもっているのだろう。天才としか言いようがない。
 このシーンというか、文体のどこがすばらしいか。簡単に言ってしまえば、「映画」の文体になってしまっている点である。
 映画というのは、あたりまえのことだが、そこには役者がいる。役者というのは、それぞれに「過去」をもっている。それは観客には具体的にはどんな「過去」かわからないけれど、役者の肉体が隠している「過去」というものが常にスクリーンにさらけだされつづける。具体的にはどんな「過去」なのかわからないにもかかわらず、観客は、「過去」を感じる。
 豊原は、その「過去」をそこにあるものとして書いてしまう。何の説明もしない。人はだれでも「過去」をもっている。「いま」「ここ」にいる人は、すべて「過去」をもっていて、あらゆる行為、ことばは、「いま」と関係していると同時に「過去」とも関係している。そして、その「過去」というのは、観客にはわからなくても、映画のなかでは、登場人物たちはそれぞれに互いの「過去」を知っている。
 映画ではなく、現実を考えてみれば、わかる。
 男と女がいっしょにいる。同じ部屋にいてセックスをする。そういう間柄なら、ある程度の「過去」を互いに知り合っている。もしかしたら、隠している「過去」があるということさえ知っている。そして、互いに知っていることを、人間は、すべてことばにするのではなく、ほんのした仕種や何かで伝えあっている。感じあっている。
 そして、そういう「過去」を叩き壊すようにして、「いま」を動かしている。「いま」にむかってあらわれてくる「過去」をたたきこわしながら、「未来」へ向かって動いている。「未来」へむかって動く、生きるということは、常に「いま」のなかにあらわれてくる「過去」を壊しながら進むことでもある。
 あるいは、「いま」を生きるときに、必然的に「過去」が見えてしまう、と言い換える濃さもできるかもしれない。この、必然的にみえてしまう「過去」を、「存在感」と言い換えればわかりやすくなるかもしれない。
 役者のいのちは「存在感」である。シナリオに書かれていない登場人物の「過去」(存在感)を「肉体」で具体化しながら、「過去」を説明せずに、ただ感じさせたまま、動いていく。「過去」を突き破って、「いま」「ここ」で動いていく。
 そのとき、映画は、とてつもなくおもしろくなる。
 豊原は、こういう映画のもっとも基本的なことを生まれつき知っている。体得している。
 これは、そして、映画だけにかぎらない。あらゆる芸術は、「いま」のなかに噴出してくる「過去」をたたきこわしながら進んで行く。時間が動くとは、過去を叩き壊すこと、「いま」「ここ」に噴出してくる「過去」を叩き壊すこと。
 豊原は「いま」が「いま」ではないことを生まれつき知っているのである。そして、その知っていることを、直接つかみとることができる。いっさいの説明を抜きにして、ただ、「いま」のなかに「過去」が噴出してきている。それを叩き壊すことで人間は生きている--その瞬間瞬間を、そのまま、ことばにできるのである。

 人はときどき他人を非難するとき「何を言っているんだ」という。そして、そういうとき、人は他人が言っていることを理解できないのではない。きちんと理解できる。それがどういう「論理」(どういう過去)をくぐり抜けてきているか、全部理解して、その上で「何を言っているんだ」と非難する。それは、そんなことを言うな、そんな論理(過去)は認めないぞ、というのにひとしい。そのとき、「過去」が人と人とのあいだで、生々しくよみがえる。その過去の生々しさが「リアリティー」である。過去の生々しさが「存在感」の基本である。
 そういう瞬間の、「いま」と「過去」の出会いのようなものを、あるいは、そういう出会いの瞬間だけを、豊原はことばにする。
 もしかすると、豊原は、「いま」に「過去」が噴出してきて、「いま」が異様に生々しくなる瞬間だけをことばにできるかもしれない。そういう「本能」でできているのかもしれない。豊原という人間は。
 だから、豊原の書く俳句もおもしろい。ことばのなかに、時間の遠心・求心がある。俳句という「いま」のなかに、過去が噴出してきて、その瞬間「いま」がブラックホールからビックバンにかわるのだ。ブラックホールとビッグバンは同じであることが、一瞬のなかで成立する。そういう瞬間を、豊原は「説明抜き」のことばで放り出すことができる。こういう人間は、天才と呼ぶしかない。

 それにしても。
 ほんとうに、ほんとうに、ほんとうに豊原の書くシナリオはおもしろい。どんな断片もおもしろい。常に「過去」が噴出してくる。その噴出のスピードが並大抵ではない。先に引用した部分には「沈黙が三十分ぐらい経って」「数分、間を開けて」というト書きがあったが、三十分も数分も1行というスピードが豊原の特徴である。この時間感覚の自在な伸び縮みは、「いま」に噴出してくる「過去」という存在のありかた(いのちのありかた)と関係しているのだが、あまりにも完璧すぎて、ただただ、すごいとしか言いようがない。

 私は映画が大好きだ。豊原のシナリオを読んでいると、ビデオを買って、映画そのものを撮りたくなる。そういう衝動にもかられる。ビデオをもっていたら、きっと映画を撮っているだろうと思う。



夜の人工の木
豊原 清明
青土社

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『田村隆一全詩集』を読む(104 )

2009-06-03 00:18:45 | 田村隆一

 「市民権」という詩は、「肉・体」と「心」の関係について書いている。さらに、「肉・体」「心」とロートレックについて書いている。

骨なし男のヴァランタンがリーダーで
女たちに肉だけになるように訓練する
心などという余計なものは捨ててしまえ
その捨てられた心を造形するのが
小男の貴族

 フレンチ・カンカンを踊る女たちは「肉・体」だけになる。「肉・体」だけになってしまうと、それが「心」なのだ。--この表現は「矛盾」しているが、矛盾しているからこそ、そこには田村の「思想」がある。そのことをよりいっそう明確にするのが、

捨てられた心を造形する

 の「造形する」である。
 「小男の貴族」とはロートレックのことだが、「捨てられた心」はそのままそこにあるわけではない。「肉・体」は、いつでもそこにあるわけではない。「心」を捨てて、「肉・体」になった女性たち。--それは、ロートレックが絵にすることによってはじめて19世紀の世紀末のパリに、芸術のなかに誕生したのだ。
 ロートレックが、「肉・体」=「心」というものを、絵として、造形したのである。
 「造形する」は、主語をロートレックから「女」にかえるとき、「誕生する」に変わる。「誕生する」とは「生まれ変わる」であり、「再生する」である。女たちはフレンチ・カンカンという踊りのなかで「肉・体」に生まれ変わる。「肉・体」に再生する。その運動をロートレックは絵に「造形する」。
 そして、田村隆一は、ロートレックが「造形」したものを、ことばによって「語り直す」。詩にする。
 そのとき、ロートレックと田村隆一は共犯者になる。

この世紀末には捨てられた心は数えきれない
女たちが心を捨てるのは芸だが
その刺戟的な芸によって
山高帽だけをかぶって肉欲のかたまりになったブルジョアは
やっと市民権を得る

肉欲にシルクハットをかぶった自然主義の子どもたち
白髪の老人だってミュージック・ホールにはいれば
性に目覚める小動物に変わる
自然という生きものの血液は
緑色にちがいない
その繁殖力 針の穴の中にだって忍びこんでくる生命力
その邪悪な力から
赤と黄と黒の原色で緑の血液にあらがうのだ

 「肉・体」を描くこと。それは「肉・体」となった「心」を、もう一度ひっくりかえすことだ。「肉・体」そのものが「心」なのだから、「肉・体」を描くことで、そこにもう一度「心」を誕生させることである。ロートレックは「肉・体」を描いているのではなく、「心」を描いている。つくりだしている。「造形」している。

 いつでも、芸術というものは、その運動の中に「矛盾」をかかえている。矛盾があるから芸術である。
 「肉体」は「心」を捨てることで「肉・体」になる。そして、「肉体」ではなく、「心」を捨てきった「肉・体」を描くことが「心」を描くこと、「心」を「造形する」ことである。
 --こんな回り道をしなくても、さっさと「心」を描けばいい、というのは、しかし不可能なのだ。
 回り道をする。矛盾を生きる。そうしなければ、何も「誕生」しない。「思想」はいつでも「矛盾」を生きる--つまり、「矛盾」そのものになる、そして、そのなかでいままでの「生」の形を叩き壊すときに、はじめて、「生まれ変わる」という形で「誕生」するのである。

 それは「邪悪」な「生命力」に生まれ変わるということでもある。「邪悪」な「生命力」。それだけが「純粋」なのものである。




もっと詩的に生きてみないか―きみと話がしたいのだ (1981年)
田村 隆一
PHP研究所

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