豊原清明「有磯海のシンとジン」(「映画布団」2、2009年05月発行)
豊原清明「有磯海のシンとジン」はシナリオである。「シンとジン」は重なり合うと「詩人」である。詩人を主役にした映画であり、登場人物は詩人と父と母と、詩人が出会う何人か。その日常(?)を描いているのだが、これがとてつもなくおもしろい。
ほとんど最後に近いシーン。詩人(英)が女(あかり)の家に行く。机の上に男の写真がある。
ことばなのに、映像がくっきり迫ってくる。傑作である。こんな書き方を、豊原は、いったいどこから学んだのだろうか。きっと「学んだ」ものではなく、生まれつき、こういう「文体」をもっているのだろう。天才としか言いようがない。
このシーンというか、文体のどこがすばらしいか。簡単に言ってしまえば、「映画」の文体になってしまっている点である。
映画というのは、あたりまえのことだが、そこには役者がいる。役者というのは、それぞれに「過去」をもっている。それは観客には具体的にはどんな「過去」かわからないけれど、役者の肉体が隠している「過去」というものが常にスクリーンにさらけだされつづける。具体的にはどんな「過去」なのかわからないにもかかわらず、観客は、「過去」を感じる。
豊原は、その「過去」をそこにあるものとして書いてしまう。何の説明もしない。人はだれでも「過去」をもっている。「いま」「ここ」にいる人は、すべて「過去」をもっていて、あらゆる行為、ことばは、「いま」と関係していると同時に「過去」とも関係している。そして、その「過去」というのは、観客にはわからなくても、映画のなかでは、登場人物たちはそれぞれに互いの「過去」を知っている。
映画ではなく、現実を考えてみれば、わかる。
男と女がいっしょにいる。同じ部屋にいてセックスをする。そういう間柄なら、ある程度の「過去」を互いに知り合っている。もしかしたら、隠している「過去」があるということさえ知っている。そして、互いに知っていることを、人間は、すべてことばにするのではなく、ほんのした仕種や何かで伝えあっている。感じあっている。
そして、そういう「過去」を叩き壊すようにして、「いま」を動かしている。「いま」にむかってあらわれてくる「過去」をたたきこわしながら、「未来」へ向かって動いている。「未来」へむかって動く、生きるということは、常に「いま」のなかにあらわれてくる「過去」を壊しながら進むことでもある。
あるいは、「いま」を生きるときに、必然的に「過去」が見えてしまう、と言い換える濃さもできるかもしれない。この、必然的にみえてしまう「過去」を、「存在感」と言い換えればわかりやすくなるかもしれない。
役者のいのちは「存在感」である。シナリオに書かれていない登場人物の「過去」(存在感)を「肉体」で具体化しながら、「過去」を説明せずに、ただ感じさせたまま、動いていく。「過去」を突き破って、「いま」「ここ」で動いていく。
そのとき、映画は、とてつもなくおもしろくなる。
豊原は、こういう映画のもっとも基本的なことを生まれつき知っている。体得している。
これは、そして、映画だけにかぎらない。あらゆる芸術は、「いま」のなかに噴出してくる「過去」をたたきこわしながら進んで行く。時間が動くとは、過去を叩き壊すこと、「いま」「ここ」に噴出してくる「過去」を叩き壊すこと。
豊原は「いま」が「いま」ではないことを生まれつき知っているのである。そして、その知っていることを、直接つかみとることができる。いっさいの説明を抜きにして、ただ、「いま」のなかに「過去」が噴出してきている。それを叩き壊すことで人間は生きている--その瞬間瞬間を、そのまま、ことばにできるのである。
人はときどき他人を非難するとき「何を言っているんだ」という。そして、そういうとき、人は他人が言っていることを理解できないのではない。きちんと理解できる。それがどういう「論理」(どういう過去)をくぐり抜けてきているか、全部理解して、その上で「何を言っているんだ」と非難する。それは、そんなことを言うな、そんな論理(過去)は認めないぞ、というのにひとしい。そのとき、「過去」が人と人とのあいだで、生々しくよみがえる。その過去の生々しさが「リアリティー」である。過去の生々しさが「存在感」の基本である。
そういう瞬間の、「いま」と「過去」の出会いのようなものを、あるいは、そういう出会いの瞬間だけを、豊原はことばにする。
もしかすると、豊原は、「いま」に「過去」が噴出してきて、「いま」が異様に生々しくなる瞬間だけをことばにできるかもしれない。そういう「本能」でできているのかもしれない。豊原という人間は。
だから、豊原の書く俳句もおもしろい。ことばのなかに、時間の遠心・求心がある。俳句という「いま」のなかに、過去が噴出してきて、その瞬間「いま」がブラックホールからビックバンにかわるのだ。ブラックホールとビッグバンは同じであることが、一瞬のなかで成立する。そういう瞬間を、豊原は「説明抜き」のことばで放り出すことができる。こういう人間は、天才と呼ぶしかない。
それにしても。
ほんとうに、ほんとうに、ほんとうに豊原の書くシナリオはおもしろい。どんな断片もおもしろい。常に「過去」が噴出してくる。その噴出のスピードが並大抵ではない。先に引用した部分には「沈黙が三十分ぐらい経って」「数分、間を開けて」というト書きがあったが、三十分も数分も1行というスピードが豊原の特徴である。この時間感覚の自在な伸び縮みは、「いま」に噴出してくる「過去」という存在のありかた(いのちのありかた)と関係しているのだが、あまりにも完璧すぎて、ただただ、すごいとしか言いようがない。
私は映画が大好きだ。豊原のシナリオを読んでいると、ビデオを買って、映画そのものを撮りたくなる。そういう衝動にもかられる。ビデオをもっていたら、きっと映画を撮っているだろうと思う。
豊原清明「有磯海のシンとジン」はシナリオである。「シンとジン」は重なり合うと「詩人」である。詩人を主役にした映画であり、登場人物は詩人と父と母と、詩人が出会う何人か。その日常(?)を描いているのだが、これがとてつもなくおもしろい。
ほとんど最後に近いシーン。詩人(英)が女(あかり)の家に行く。机の上に男の写真がある。
英「その人、もしかして、恋…。」
あかり「何でもないのよ。信じて。(声が割れている)」
あかりと英が、ベートーベンをききながら、お寿司を食べている。
食べ終わると、あかり、ごろんと横になる。
あかり「私と…」
英「い、いや、何を言おうとした、の…。」
沈黙が三十分くらい経って。
あかりが英を抱こうとして、英が悲鳴をあげ、
あかり「静かにして。」
あかえ、すっぱだかになって英を抱こうとする。
英「もっと、優しくしてよ」
英の服を脱がせるあかり。あえぎ声。
ふたり、裸で仰向けになって天井を見ている。
天井が、夜空に見える。
「星が流れている」と言い合う。
あかり「これから赤ん坊産んでええ?」
英「まさか! 僕が父になる何て。」
あかり「毎日、抱きしめてヨ。」
英「う、(言葉が出ない。)」
あかり「もう(数分、間を開けて。)ねえ。シンとジンはいま、何処にいるのかしらね」 ウグイスの鳴き声が聞こえて、英、眠る。
ことばなのに、映像がくっきり迫ってくる。傑作である。こんな書き方を、豊原は、いったいどこから学んだのだろうか。きっと「学んだ」ものではなく、生まれつき、こういう「文体」をもっているのだろう。天才としか言いようがない。
このシーンというか、文体のどこがすばらしいか。簡単に言ってしまえば、「映画」の文体になってしまっている点である。
映画というのは、あたりまえのことだが、そこには役者がいる。役者というのは、それぞれに「過去」をもっている。それは観客には具体的にはどんな「過去」かわからないけれど、役者の肉体が隠している「過去」というものが常にスクリーンにさらけだされつづける。具体的にはどんな「過去」なのかわからないにもかかわらず、観客は、「過去」を感じる。
豊原は、その「過去」をそこにあるものとして書いてしまう。何の説明もしない。人はだれでも「過去」をもっている。「いま」「ここ」にいる人は、すべて「過去」をもっていて、あらゆる行為、ことばは、「いま」と関係していると同時に「過去」とも関係している。そして、その「過去」というのは、観客にはわからなくても、映画のなかでは、登場人物たちはそれぞれに互いの「過去」を知っている。
映画ではなく、現実を考えてみれば、わかる。
男と女がいっしょにいる。同じ部屋にいてセックスをする。そういう間柄なら、ある程度の「過去」を互いに知り合っている。もしかしたら、隠している「過去」があるということさえ知っている。そして、互いに知っていることを、人間は、すべてことばにするのではなく、ほんのした仕種や何かで伝えあっている。感じあっている。
そして、そういう「過去」を叩き壊すようにして、「いま」を動かしている。「いま」にむかってあらわれてくる「過去」をたたきこわしながら、「未来」へ向かって動いている。「未来」へむかって動く、生きるということは、常に「いま」のなかにあらわれてくる「過去」を壊しながら進むことでもある。
あるいは、「いま」を生きるときに、必然的に「過去」が見えてしまう、と言い換える濃さもできるかもしれない。この、必然的にみえてしまう「過去」を、「存在感」と言い換えればわかりやすくなるかもしれない。
役者のいのちは「存在感」である。シナリオに書かれていない登場人物の「過去」(存在感)を「肉体」で具体化しながら、「過去」を説明せずに、ただ感じさせたまま、動いていく。「過去」を突き破って、「いま」「ここ」で動いていく。
そのとき、映画は、とてつもなくおもしろくなる。
豊原は、こういう映画のもっとも基本的なことを生まれつき知っている。体得している。
これは、そして、映画だけにかぎらない。あらゆる芸術は、「いま」のなかに噴出してくる「過去」をたたきこわしながら進んで行く。時間が動くとは、過去を叩き壊すこと、「いま」「ここ」に噴出してくる「過去」を叩き壊すこと。
豊原は「いま」が「いま」ではないことを生まれつき知っているのである。そして、その知っていることを、直接つかみとることができる。いっさいの説明を抜きにして、ただ、「いま」のなかに「過去」が噴出してきている。それを叩き壊すことで人間は生きている--その瞬間瞬間を、そのまま、ことばにできるのである。
人はときどき他人を非難するとき「何を言っているんだ」という。そして、そういうとき、人は他人が言っていることを理解できないのではない。きちんと理解できる。それがどういう「論理」(どういう過去)をくぐり抜けてきているか、全部理解して、その上で「何を言っているんだ」と非難する。それは、そんなことを言うな、そんな論理(過去)は認めないぞ、というのにひとしい。そのとき、「過去」が人と人とのあいだで、生々しくよみがえる。その過去の生々しさが「リアリティー」である。過去の生々しさが「存在感」の基本である。
そういう瞬間の、「いま」と「過去」の出会いのようなものを、あるいは、そういう出会いの瞬間だけを、豊原はことばにする。
もしかすると、豊原は、「いま」に「過去」が噴出してきて、「いま」が異様に生々しくなる瞬間だけをことばにできるかもしれない。そういう「本能」でできているのかもしれない。豊原という人間は。
だから、豊原の書く俳句もおもしろい。ことばのなかに、時間の遠心・求心がある。俳句という「いま」のなかに、過去が噴出してきて、その瞬間「いま」がブラックホールからビックバンにかわるのだ。ブラックホールとビッグバンは同じであることが、一瞬のなかで成立する。そういう瞬間を、豊原は「説明抜き」のことばで放り出すことができる。こういう人間は、天才と呼ぶしかない。
それにしても。
ほんとうに、ほんとうに、ほんとうに豊原の書くシナリオはおもしろい。どんな断片もおもしろい。常に「過去」が噴出してくる。その噴出のスピードが並大抵ではない。先に引用した部分には「沈黙が三十分ぐらい経って」「数分、間を開けて」というト書きがあったが、三十分も数分も1行というスピードが豊原の特徴である。この時間感覚の自在な伸び縮みは、「いま」に噴出してくる「過去」という存在のありかた(いのちのありかた)と関係しているのだが、あまりにも完璧すぎて、ただただ、すごいとしか言いようがない。
私は映画が大好きだ。豊原のシナリオを読んでいると、ビデオを買って、映画そのものを撮りたくなる。そういう衝動にもかられる。ビデオをもっていたら、きっと映画を撮っているだろうと思う。
夜の人工の木豊原 清明青土社このアイテムの詳細を見る |