監督・脚本 アレクサンドル・ソクーロフ 出演 ガリーナ・ビシネフスカヤ、ワリシー・シェフツォフ
不思議な映画である。老いた女性がロシア軍基地にいる孫を訪ねる。そういうことが可能なのかどうかわからないが、その女性が基地のなかを見て回る。軍のトラック(?)にも乗れば、宿舎の中も歩きまわる。孫は将校のはずだが、薄汚れた軍服である。まわりの軍人も、なんだかだらしがない。緊張感がないというと申し訳ないが、緊張感よりも疲労感が、とても濃い。
色調もセピア色に染まり、映像そのものもくたびれている。
一方、おばあさんの方は、とても堂々としている。
基地へ向かう列車に乗り込むところから映画が始まるが、そのとき軍人に案内されて歩くのだが、そのときから案内されて当然という感じで歩いている。異常な世界へ踏み込むのだという感覚がない。
基地へ着いてからが、さらに堂々としてくる。
戦場の近くを訪問しているのだが、日常と違った場所を訪問しているという緊張感がない。おびえがない。そこにあることを平然と眺める。軍のトラックに軍人と一緒に乗り込めもするし、銃の手入れも見る。
孫の将校に対し、軍人ではなく、孫、いや、若い男として向き合う。人生を経験してきた女性として向き合う。まるで年齢差を超えた恋愛のようでもある。ラスト近く、女性は恋愛について語り、誰の詩だろうか、朗読(暗唱)しながら眠り、夢の世界へ入っていく。
その夢を、戦場へ出発する孫が破る。「出発する」と言いに来るのだが、そのときの苦悩と官能が、戦場ではなく「日常」なのである。「異常」であることが「日常」なのである。
「異常」を追いつめてゆくと「日常」になり、「日常」を追いつめてゆくと「異常」になる。それは基地のゲートをくぐる「肉体」が、ゲートをくぐろうがくぐるまいが、おなじ一つの「肉体」であるのとつながっている。どこまでもどこまでも「肉体」の同一性が人間を追い掛けてくる。
ふと、私は「太陽」を思い出した。天皇が階段をのぼりおりする。魚の研究と、爆撃の飛行機がつながり、それが天皇の「肉体」でつながっていた。
ソクーロフの映画を私は「太陽」とこの映画しか見ていないが、人間の「肉体」、「肉体」の存在感を利用して、世界で起きていることの「さびしさ」を描いているのかもしれない。
「さびしさ」と思わず書いてしまったが、この映画から感じるのは、疲労感と、疲労感がもっている「さびしさ」なのである。セピア色のさびしさ。透明なさびしさではなく、薄汚れたさびしさ・・・。
そして、それを抱きしめる女性。支える女性。
「太陽」の最後で、桃井かおりがイッセー尾形を、赤ん坊をあやすように抱きしめた。おなじ年代の男と女が赤ん坊と母に変わった。この映画では、年の離れた男と女が「恋人」に変わった。この変化を支えるのも、生きていることの「さびしさ」なのだと、突然気がついた。
★4個で感想を書き始めたが、★5個の映画かもしれない。もっと違った書き方をすべきだったのかもしれない。(私はいつも「結論」を考えずに書き始める。書きなおしはしない。考え続けるだけだ。だから、書き出しと、最後はしばしば矛盾する。)
不思議な映画である。老いた女性がロシア軍基地にいる孫を訪ねる。そういうことが可能なのかどうかわからないが、その女性が基地のなかを見て回る。軍のトラック(?)にも乗れば、宿舎の中も歩きまわる。孫は将校のはずだが、薄汚れた軍服である。まわりの軍人も、なんだかだらしがない。緊張感がないというと申し訳ないが、緊張感よりも疲労感が、とても濃い。
色調もセピア色に染まり、映像そのものもくたびれている。
一方、おばあさんの方は、とても堂々としている。
基地へ向かう列車に乗り込むところから映画が始まるが、そのとき軍人に案内されて歩くのだが、そのときから案内されて当然という感じで歩いている。異常な世界へ踏み込むのだという感覚がない。
基地へ着いてからが、さらに堂々としてくる。
戦場の近くを訪問しているのだが、日常と違った場所を訪問しているという緊張感がない。おびえがない。そこにあることを平然と眺める。軍のトラックに軍人と一緒に乗り込めもするし、銃の手入れも見る。
孫の将校に対し、軍人ではなく、孫、いや、若い男として向き合う。人生を経験してきた女性として向き合う。まるで年齢差を超えた恋愛のようでもある。ラスト近く、女性は恋愛について語り、誰の詩だろうか、朗読(暗唱)しながら眠り、夢の世界へ入っていく。
その夢を、戦場へ出発する孫が破る。「出発する」と言いに来るのだが、そのときの苦悩と官能が、戦場ではなく「日常」なのである。「異常」であることが「日常」なのである。
「異常」を追いつめてゆくと「日常」になり、「日常」を追いつめてゆくと「異常」になる。それは基地のゲートをくぐる「肉体」が、ゲートをくぐろうがくぐるまいが、おなじ一つの「肉体」であるのとつながっている。どこまでもどこまでも「肉体」の同一性が人間を追い掛けてくる。
ふと、私は「太陽」を思い出した。天皇が階段をのぼりおりする。魚の研究と、爆撃の飛行機がつながり、それが天皇の「肉体」でつながっていた。
ソクーロフの映画を私は「太陽」とこの映画しか見ていないが、人間の「肉体」、「肉体」の存在感を利用して、世界で起きていることの「さびしさ」を描いているのかもしれない。
「さびしさ」と思わず書いてしまったが、この映画から感じるのは、疲労感と、疲労感がもっている「さびしさ」なのである。セピア色のさびしさ。透明なさびしさではなく、薄汚れたさびしさ・・・。
そして、それを抱きしめる女性。支える女性。
「太陽」の最後で、桃井かおりがイッセー尾形を、赤ん坊をあやすように抱きしめた。おなじ年代の男と女が赤ん坊と母に変わった。この映画では、年の離れた男と女が「恋人」に変わった。この変化を支えるのも、生きていることの「さびしさ」なのだと、突然気がついた。
★4個で感想を書き始めたが、★5個の映画かもしれない。もっと違った書き方をすべきだったのかもしれない。(私はいつも「結論」を考えずに書き始める。書きなおしはしない。考え続けるだけだ。だから、書き出しと、最後はしばしば矛盾する。)
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