詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アレクサンドル・ソクーロフ監督・脚本「チェチェンへ アレクサンドラの旅」(★★★★)

2009-06-20 22:19:56 | 映画
監督・脚本 アレクサンドル・ソクーロフ 出演 ガリーナ・ビシネフスカヤ、ワリシー・シェフツォフ

 不思議な映画である。老いた女性がロシア軍基地にいる孫を訪ねる。そういうことが可能なのかどうかわからないが、その女性が基地のなかを見て回る。軍のトラック(?)にも乗れば、宿舎の中も歩きまわる。孫は将校のはずだが、薄汚れた軍服である。まわりの軍人も、なんだかだらしがない。緊張感がないというと申し訳ないが、緊張感よりも疲労感が、とても濃い。
 色調もセピア色に染まり、映像そのものもくたびれている。
 一方、おばあさんの方は、とても堂々としている。
 基地へ向かう列車に乗り込むところから映画が始まるが、そのとき軍人に案内されて歩くのだが、そのときから案内されて当然という感じで歩いている。異常な世界へ踏み込むのだという感覚がない。
 基地へ着いてからが、さらに堂々としてくる。
戦場の近くを訪問しているのだが、日常と違った場所を訪問しているという緊張感がない。おびえがない。そこにあることを平然と眺める。軍のトラックに軍人と一緒に乗り込めもするし、銃の手入れも見る。
孫の将校に対し、軍人ではなく、孫、いや、若い男として向き合う。人生を経験してきた女性として向き合う。まるで年齢差を超えた恋愛のようでもある。ラスト近く、女性は恋愛について語り、誰の詩だろうか、朗読(暗唱)しながら眠り、夢の世界へ入っていく。
 その夢を、戦場へ出発する孫が破る。「出発する」と言いに来るのだが、そのときの苦悩と官能が、戦場ではなく「日常」なのである。「異常」であることが「日常」なのである。
 「異常」を追いつめてゆくと「日常」になり、「日常」を追いつめてゆくと「異常」になる。それは基地のゲートをくぐる「肉体」が、ゲートをくぐろうがくぐるまいが、おなじ一つの「肉体」であるのとつながっている。どこまでもどこまでも「肉体」の同一性が人間を追い掛けてくる。
 ふと、私は「太陽」を思い出した。天皇が階段をのぼりおりする。魚の研究と、爆撃の飛行機がつながり、それが天皇の「肉体」でつながっていた。
 ソクーロフの映画を私は「太陽」とこの映画しか見ていないが、人間の「肉体」、「肉体」の存在感を利用して、世界で起きていることの「さびしさ」を描いているのかもしれない。
 「さびしさ」と思わず書いてしまったが、この映画から感じるのは、疲労感と、疲労感がもっている「さびしさ」なのである。セピア色のさびしさ。透明なさびしさではなく、薄汚れたさびしさ・・・。
 そして、それを抱きしめる女性。支える女性。
 「太陽」の最後で、桃井かおりがイッセー尾形を、赤ん坊をあやすように抱きしめた。おなじ年代の男と女が赤ん坊と母に変わった。この映画では、年の離れた男と女が「恋人」に変わった。この変化を支えるのも、生きていることの「さびしさ」なのだと、突然気がついた。

 ★4個で感想を書き始めたが、★5個の映画かもしれない。もっと違った書き方をすべきだったのかもしれない。(私はいつも「結論」を考えずに書き始める。書きなおしはしない。考え続けるだけだ。だから、書き出しと、最後はしばしば矛盾する。)


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誰も書かなかった西脇順三郎(5)

2009-06-20 09:16:58 | 誰も書かなかった西脇順三郎

太陽

カルモヂインの田舎は大理石の産地で
其処で私は夏をすごしたことがあつた。
ヒバリもいないし、蛇も出ない。
ただ青いスモモの藪から太陽が出て
またスモモの藪へ沈む。
少年は小川でデルフィンを捉へて笑つた。

 「カルモヂイン」という場所を私は知らない。けれど、この音が好きである。「ヂ」という濁音が印象的だ。そして、それが「田舎」というゆったりしたことばと触れ合うとき、記憶のなかで、耳が濁音をもとめる。あるいは、喉が濁音をもとめる。それにこかえるようにして、「大理石の産地で」という音。「ヂ」「だ」「で」。みんな「だ行」の音だ。
 私は詩を音読することはないし、朗読を聞く機会もめったにない。しかし、私は、この行を読むと音を感じるのだ。そして、うれしくなるのだ。「大理石の産地だ」という音に触れているとき、私は大理石など思い出しもしない。ただ音を感じている。
 「カルモヂイン」もわからない。「大理石」もわからない。私にとって、そこにあるのは「音」だけなのだが、(だからなのかもしれないけれど)、2行目で「其処で私は夏をすごしたことがあつた。」と言われると、すべてが間接的になって、あ、具体的なことは知らなくていいんだという気持ちになる。「其処」という指示、その「指示」だけが純粋に存在する。「其処」という指示で、1行目が抽象化され、抽象化してしまうと、そこにあるものが「音」だけで何の不都合があるだろうという気持ちになる。
 そういう音だけになってしまった頭の中で「スモモ」という音が響く。
 「スモモ」もきれいな音だが「青いスモモ」はもっときれいだ。--この感覚を、堂説明していいかわからないけれど、実は、私は、この詩では「青いスモモ」という音がとてつもなく好きなのだ。ほんとうは「青いスモモ」の音の美しさについてだけ書きたいのだけれど、なんと書いていいかわからない。
 たぶん、「カルモヂイン」という音の対極にあるのだ。そのことを書きたくて、私は、「カルモヂイン」という音から書きはじめたのだ。--でも、どう書いていいのか、実際のところわからない。

 最終行の「ドルフィン」も好きだ。音が好きだ。「カルモヂイン」が「スモモ」をへることによって「ドルフィン」という音に変わった--というようなことは、誰も言わないだろう。
 でも、私が、この詩に感じるのは、それなのだ。
 「カルモヂイン」「ドルフィン」。「だ行」があり、「ら行(る)」があり、脚韻の「イン」がある。「カルモヂイン」の「モ」は「スモモ」という音をくぐり抜けることで不要になってしまった(?)かのようだ。「スモモ」の「モ」のなかで使い尽くされ(?)、「ドルフィン」へ持ち運ばれなかったのだ。



西脇順三郎コレクション (1) 詩集1
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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高橋順子『あさって歯医者さんに行こう』

2009-06-20 07:13:47 | 詩集
高橋順子『あさって歯医者さんに行こう』(デコ、2009年06月23日発行)

 高橋順子『あさって歯医者さんに行こう』。短い詩が多い。「わたしの水平線」という作品に惹かれた。ふいに、海を見に行きたくなった。全行。

水平線は時々
疲れて たるみたくなることがある
そういうときには もやのカーテンをひいて
心ゆくまでたるめばいい
わたしの水平線も
ぴんと張っていたり 木と木の間の
ハンモックの紐みたいだったりする
たるんでいるときには
風船葛の青い実がいっぱい風に
揺れる夢をみている
きっぱり引かれているときには
わたしは夢をさがしている

 水平線が「疲れて たるみたくなることがある」というのはとても魅力的なことばだ。水平線がそんなことを思うはずがない。そんなふうに思うのは、水平線をみているひとだけである。もっといえば、水平線が好きなひと、海が好きなひとだけである。
 そのひとは、疲れて、ときどき海へやってくる。そして、ぼーっと海をみている。なぜ、水平線はいつもまっすぐなのだろう。だらんと、たるみたいとは思わないのだろうか。水平線がたるんでしまいたいと思ったら愉快だろうなあ。どうなるのかな?
 ありえない空想のなかでこころを遊ばせる。そして、ひとり二役(?)になって、対話をする。それはほんとうは、「わたし」ひとりの思いなのだが、「二役」という「あそび」を経るので、なんとなく「わたし」そのものも「あそび」の愉快さが気分を洗う。ことばは、「あそぶ」ことができるのだ。

そういうときには もやのカーテンをひいて
心ゆくまでたるめばいい

 これは、「あそび」だから言えること。いいなあ、「もや」に隠れて、たるむことができるなんて。
 そうなだよなあ。「たるむ」ときは、やっぱり隠れて(人知れず)、たるまないと、たるんだ価値がない。たるんでいる、と指摘されるとたまらないからね。

 「あそび」というのは、こころをのびやかにする。「たるんだこころ」は何をしているだろう。何ができるだろう。

風船葛の青い実がいっぱい風に
揺れている夢をみている

 「夢をみる」と書かれているけれど、「わたし」自身がフウセンカズラになって揺れているような気持ちになってしまう。きっと、最初の「水平線」と同じだ。ことばを経て、対象と「わたし」が入れ代わってしまうのだ。

 ことばは、息を吐きながら発する。そのとき、こころは「ことば」の中に入って、どこかへ飛んで行く。「肉体」のなかは空っぽ。「無心」。あ、ふいに、「無心」と「あそび」が結びつく。「あそび」は「無心」でするもの。「無心」の「あそび」が、こころを軽くする。ことばで遊べば、ことばのなかへ心は出て行ってしまい、体が軽くなる。そして、その体の軽さに似合ったものが体に入ってきて、フウセンカズラそのものになる。そして、揺れる。
 いいなあ。
 海を見に行きたいと私は最初思ったけれど、いまは、フウセンカズラになってゆらゆら揺れたいなあ、と思っている。(なんて、いい加減な感想だろう。)

 最後の2行もいいなあ。
 「あそぶ」だけ遊んだあとは、ちょっとまじめになって見る。遊んだあとの新鮮な気持ちで自分を見つめなおしてみる。
 そうすると。

きっぱり引かれているときには
わたしは夢をさがしている

 あ、なかなかカッコいいじゃないか。「私って、けっこうカッコいい人間なんだ」と思えてくる。こんなカッコいいことばが見つけられるんだから。

 え? そのことばを見つけたのは高橋順子であって、私(谷内)ではない。まあ、そうなんだけれど、いいんじゃない? 「あそび」なんだから。「ひとり二役」ごっこなんだから、その「あそび」のなかで、ことばをとりかえっこしてしまえばいい。
 ねえ、ねえ、高橋さん、高橋さんの役は「海」、私は「海」を慰める方。だめ? 
 というのは冗談、軽口だけれど、そういうことをいいたくなる。それくらい、気分が軽くなる。

 読書は無心の遊びなんだなあ、とふと、けれど、真剣に思う。

 この詩集のあとがきで、高橋は「無防備」な作品と読んでいる。無防備なので「恥ずかしい」とも書いている。でも、無防備だからこそ、読者はどこまでも接近して行ける。そして、ねえ、役をとっかえても、なんて我が儘もいえる。
 我が儘を言ってみたくなる詩--というのは傑作の条件だと思う。詩は書いた人のものではなく、読んだ人のもの--そういう「我が儘」をいいたくなる詩が傑作というものである。


あさって歯医者さんに行こう
高橋 順子
デコ

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