詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山田亮太『ジャイアントフィールド』

2009-06-01 11:32:57 | 詩集
山田亮太『ジャイアントフィールド』(思潮社、2009年05月25日発行)

 「双子の誕生」という作品がある。

一九八二年の秋、一組の双子が誕生した。
父は、兄を太郎、弟を次郎と名づけることに決めていた。
母は、生まれたばかりの二人の赤ん坊でお手玉をした。
母の両の手の上で兄と弟が回る。
そのすさまじい速度が、兄と弟を見分けられなくした。

 この作品に山田の思考の特徴がよくあらわれている。「双子」。複数でひとつ。そして、それが取り違えられる。もちろん、現実には「双子」があふれているわけではなく、それぞれが個別の存在である。たとえ双子であっても、それぞれ別個の存在である。けれども、山田はそれを「取り違えて」愉しむ。愉しむというと語弊があるかもしれないが、「取り違え」が引き起こす混乱(混沌)のなかへ突き進んでいく。

 現実に一番多く存在する「双子」とは何だろうか。「存在」と「思考」である。たとえば、私はいま山田の詩集を読んでいるのだが、そのとき「山田の詩集」という存在と、その「山田の詩集に対する私の思考」というものがある。このふたつは「双子」である。
 この考えは、「我思う、ゆえに我あり」という西洋の「二元論」そのものである。
 山田の詩が「二元論」であることは、冒頭の「エコシステム」を読むと、とてもよくわかる。

ここから見えるものすべてが知らない形をしている。
これは二〇〇一年の恐怖だ。まただ。
またウサギ降ってくる。死体。
街灯だけになった街を歩く。
人のいない場所に人がいる。それを誰かが見ている。
もう何年も誰も座っていない。
そのベンチの上で踊りつづけている人がいる。
歌を歌いつづけているひとがいる。箱を運びつづけている人もいる。
もうにぢと運ばれることがない。それを誰かが見ている。
ある認知システムがサークルとしてイメージされる。
街灯の二つに一つが点滅し、三つに一つが落下する。
うねるように並ぶ自転車が奥の方から順に倒れる。
塀と塀の隙間から黒い影のようなものが飛び出す。飛び出すウサギ。
あらゆる歩行システムがマシーンとしてイメージされる。
雨には傘。
傘の音が聞こえる。傘の音が聞こえるたびに、傘の音が聞こえる、と思う。

 「思う」は、このあとも何回かこの作品に登場する。この「思う」が山田の思想である。「我思う、ゆえに我あり」の世界を山田は生きている。
 たまたま、「傘の音が聞こえる。傘の音が聞こえるたびに、傘の音が聞こえる、と思う。」という行には「思う」が書かれているのだが、他のすべてに「思う」を補って読むことができる。それが山田の詩である。山田は「存在」を書いているのではない。「思う」ことを書いている。思ったことというより、「思う」という「こと」そのものを書いている。「思う」ということはどういうことかを考えるために、ことばを動かしている。「思う」ということはどういう「こと」なのかを、思い、その「思い」を客観的(?)にしようとしている。
 私の書いていることは「思う」ばかりが繰り返されて、何が何だかわからないかもしれないけれど、そういう同じことの反復が「思う」の特徴であり、それを山田は実践している。

「ここから見えるものすべてが知らない形をしている。」という行には「思う」がないが、それを補って山田の思考を追ってみる。「すべて」を「見る」。そのとき、思考は、その「もの」を頭の中で反復している。反復した上で、それが自分の「知っている形ではないこと」を確認する。そして、「知らない形をしている」と「思う」。目に見える「もの」だけを山田は反復しているのではなく、記憶のなかにある「これまでに見たもの」をも頭の中で反復している。
 「思う」とは「頭」のなかに「もの」を増殖させることなのである。
 「我思う、ゆえに我あり」ということばが特徴的だが、そんな短いことばのなかに「我」が反復されている。反復しないで、何かを「思う」ということは不可能なのである。そして、そのとき「我思う」の「我」と、「ゆえに我あり」の「我」は同一でありながら、同一ではない。一種の分裂状態にある。分裂しているからこそ、増殖する。
 このことは、「人のいない場所に人がいる。それを誰かが見ている。」という行に代表される文のなかにくっきりと姿をあらわす。何かが存在するとき、それを「見る」(認識する、思う)「人」が必要なのだ。ものがものであるためには、ものが存在するためには、その存在を認識する存在(人間、頭脳、思考--思うということ)が必要なのである。そして、何かが存在するということを「思うこと」によって、人は、その存在と「双子」になる。
 「双子」といっても、それは「存在そのもの」ではないから、どうしても、そこに「存在そのもの」とは違ったものが紛れ込む。このことを「存在の変容」あるいは「思考のずれ」と呼ぶことができるかもしれない。
 思えば思うほど、「存在」は「存在そのもの」ではなく、「存在の変容」になって増殖する。
 「エコシステム」には「ウサギ」「踊りつづけている人」「歌いつづけている人」、それを見ている「誰か」などが登場するが、それは個別の名称・修飾節をまとっているが、すべて「ひとつ」の存在である。「思うこと」というなかで変容した「思う」である。
 「世界」が「私」の外にあり、「私」の内には「思う」があり、それは互いに対応する。しかし、その対応は完全ではないので、どうしてもその二つの間には「ずれ」が生まれる。それは「変容」として外に反映され、さらに内にも再度反映されながら、内を行き来していっそう増殖する。
 それが山田の世界である。
 山田は、ほんとうは「思うこと」というものだけが「世界」に存在する、と思いたいのかもしれない。「思うこと」が増殖し、「世界」を飲み込んでしまう。それをめざして、山田はことばを書きつづける。つまり、詩を書きつづける。そこに山田の「思う」のもっと源の「欲望」(本能)がある。その本能が剥き出しになった詩集である。この本能は、美しく、そして、なつかしい。なぜだがわからないが、山田の詩集を読むと、一種のなつかしさも感じてしまう。



 山田の詩を読んでいて、一種「なつかしい」気持ちが生まれるのは、たぶん、山田のことばの出発点(帰結点?)が「二元論」にあるからだと思う。「我思う、ゆえに我あり」というのは学校で習う最初の「哲学」だと思うけれど、何か、そういう「まじめな学校」という感じがするのである。その「まじめな学校」という印象がなつかしいのである。
 あ、やっぱり、ことばは最初は「我思う、ゆえに我あり」から動きはじめるのか。それが学校教育の出発点か、とも思い、ちょっと「いやだな」とも思いもするのだが……。
 そして、同時に、こういう詩を瀬尾育生が評価している理由が、私にはちょっとわからなかった。瀬尾育生はこの詩集の「しおり」を書いているのである。へえーっ、と思って、何を書いているのかと思って読んでみると、最後に……。

思考するな。反復せよ。

 と書いている。
 あ、すごいなあ。そういう評価の仕方、励まし方があるのかと感心した。「思考」ではなく「反復」。反復による増殖か。
 感心しながらも、疑問が残る。「ことば」で「反復」するとき、それはどうしたって「思考」(思うこと)になってしまうのではないだろうか。「二元論」を破壊することはできないのではないのか。
 「思考の教科書」の優等生の詩になってしまうのではないか。
 奇妙なたとえになってしまうが、私の感じたなつかしさは、学校時代の「優等生」を見たときのなつかしさなのかもしれない。とても頭がよくて、その頭のよさ自体を無意識に欲望している若さ、無意識に頭のよさを追求してしまう本能--そういう人を見て、なんだかまぶしく感じる、そのなつかしさ。
 そんなことを思った。
 どうか、山田が、私の感想を叩き壊して、なつかしさとは無関係な世界へことばを動かしていきますように。矛盾した言い方になるけれど、瀬尾が書き、励ましているような世界へ、ことばを動かしていきますように。私の疑問が、杞憂に終わりますように。


ジャイアントフィールド
山田 亮太
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(102 )

2009-06-01 00:52:54 | 田村隆一

 『花の町』(1996年)。「樫の木のベンチには」という作品に「肉眼」が出てくる。そのつかい方が少しかわっている。「肉眼」が何かを見る、というつかい方ではないのだ。

炎のような真紅のカンナ
ゴッホの黄色を再現してくれた

クロトンの葉と葉のカーニバル そして
ベンチがただ一つ

樫の木のカーブが 人間の心の曲線を
まざまざと肉眼に見せつけてくれて

このベンチに坐る義務のあるものは
夢多き女性 その夢と夢に破れた青年よ

熱気球で モンブランか キリマンジャロの
雪をめざして飛んで行け!

樫の木のベンチには だれも
腰をおろしてはいけない

 クロトン(観葉植物)を見たときのことを書いているのだろう。そこに樫の木のベンチがある。そのベンチにはカーブしたところがある。その「曲線」が「心の曲線」として「肉眼」に見えてくる。
 しかし、それは「肉眼」が発見したものではなく、むこうから「肉眼」に向かってやってきたのである。
 「見せつける」とは、そういうことだろう。自分から進んで見るのではなく、自分以外のものが、むこうからやって来る。しかし、なぜ、それは「目」ではなく、「肉眼」にやってくるのか。
 それは樫の木のベンチそのものが「肉眼」によってつくられたからである。そのベンチをつくった人は「肉眼」でベンチを見ていた。ベンチのカーブ(尻をのせる部分から背もたれにかけてのカーブだろうか)をつくりだしたのは「肉眼」をもった職人だったのだ。「肉眼」によって「物」はつくられる。そして、田村によれば「物」をつくる人は<物>でもある。そこにあるのは、ベンチではない。そこにあるのは、「肉眼」の対話であり、「物」と<物>の対話である。
 そして、このときの、対話はとても不思議である。
 4連目。

このベンチに坐る義務のあるものは
夢多き女性 その夢と夢に破れた青年よ

 「このベンチに坐る義務のあるものは」と書きはじめているが、その「義務のあるもの」が何なのか、よくわからない。
 一読すると、「夢多き女性」も「夢」も「夢に破れた青年」も「義務のあるもの」のように読める。しかし、その「夢多き女性 その夢と夢に破れた青年よ」は次の連の「雪をめざして飛んで行け!」という呼びかけにつながっている。
 「坐る義務のあるもの」はだれ? 何?
 それは、しかし、「雪をめざして飛んで行け!」と呼びかけられた「夢多き女性 その夢と夢に破れた青年よ」以外にない。
 これでは「矛盾」である。
 そして、この「矛盾」が、何度も書いてきたが、田村の「思想」である。

このベンチに坐る義務のあるものは
(略)
樫の木のベンチには だれも
腰をおろしてはいけない

 途中を、「略」でかこってみるとよく分かる。田村の「矛盾」がよくわかる。「坐る義務のあるものは」「腰をおろしてはいけない」のである。義務があるのに、その義務を拒絶しなければならない。その矛盾のなかに「肉眼」のすべてがある。義務のあるものが義務を拒絶する--そのときの矛盾に満ちた対話。それが「樫の木のベンチ」とともにある。
 クロトンの葉、その葉のなかの緑ではなく、真紅と黄色を見た瞬間に、田村はそれにぶつかったのだ。クロトンの葉は、人間が「ベンチ」という「物」をつくるように、「色」という「物」をつくっている。そのとき、そこには、きっと「矛盾」がある。
 「矛盾」がぶつかりあって、「肉眼」を目覚めさせているのだ。

詩と批評A (1969年)
田村 隆一
思潮社

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