詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

深川栄洋監督「60歳のラブレター」(★★)

2009-06-18 20:03:13 | 映画
監督 深川栄洋 出演 中村雅俊、原田美枝子、井上順、戸田恵子、イッセー尾形、綾戸智恵

 3組の男女の60歳の思い。3種類の愛のストーリーを追うのに忙しくて、映像にまでは気が回らなかったのだろうか。映画の醍醐味がない。「東芝日曜劇場」という感じの映画だ。
 最大の難点は、それぞれの愛の結末の描き方。言いたい内容はわかるし、劇場は涙、涙、涙という感じになるのだけれど、とても変。
 中村雅俊と原田美枝子の場合。中村が描く絵は油絵だろう。前夜にカーテン(?)に描くのだが、数時間で乾くのか? 富良野の大地にそのカーテンの絵を広げるけれど、乾いていない絵をどうやって運ぶ? クライマックスの絵に嘘があったのでは白ける。
 井上順と戸田恵子。井上の娘の書いた英文(父親の思い)を井上が読み上げ、戸田が訳す。1行読めば最後まで内容が分かる。これを最後まで読み続ける、訳し続ける戸田って、どんな感覚の持ち主? 想像力というものがないのかな? まあ、だから恋愛が成就しなかったんだろうな、というような突っ込みをいれるにはいいけれど。
 イッセー尾形と綾戸智恵。朝までギターを弾きながら「ミッシェル」を歌い続けられる病院ってどこにある? イッセーにとって綾戸がかけがえのない人であることは分かるが、他の病室にいるひとも、みんなそれぞれにかけがえのない人であることにかわりがあるはずがない。
 最後で映画が涙を誘うだけのストーリーになる。映画ではなくなる。
 原田美枝子の演技は私は好きなのだが、今回は紋切り型を紋切り型のまま、水彩画のようにさらっと演じていた。演技のしようがなかったんだろうなあ。





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誰も書かなかった西脇順三郎(3)

2009-06-18 07:20:23 | 誰も書かなかった西脇順三郎



南風は柔い女神をもたらした。
青銅をぬらした、噴水をぬらした、
ツバメの羽と黄金の毛をぬらした、
潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。
静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした、
この静かな女神の行列が
私の舌をぬらした。

 1行目の「もたらした」が2行目から「ぬらした」に変わる。この音の変化が不思議だ。頭の中で「女神をぬらした」に音が変わっていく。しかも、すぐに変わるのではなく、抵抗しながら変わっていく。その抵抗感の代償(?)として、青銅、噴水、ツバメ……とイメージが動いていく。濡れるはずのないもの、つまり最初からぬれている噴水や潮、魚、そして風呂場もぬれる--しかも、それは「ぬれる」ではなく「ぬらした」という過去形。過ぎ去っていく雨の動き。その過ぎ去るという動きの中で「もたらした」がどんどん遠くなり、「ぬらした」に変わっていく。
 それを強く印象づける「この」という「特定」する音、その響きが好きだ。「ぬらした」という音のなかにはない「お」「お」という母音の繰り返しが好きだ。
 また「なんぷう」というやわらかい音から出発して、「青銅」「ツバメ」「黄金」と濁音が散らばりひろがっていく過程が好きだ。そのあと、「潮をぬらし、砂をぬらし、魚をぬらした。」と濁音なしの行があり、一転して「静か」「寺院」「劇場」「行列」と濁音が増える。その変化が、私には、廃墟を駆け抜ける驟雨のように感じられる。光があふれ、光のなかを駆けていく驟雨。
 風景が、ことばをとおして「肉体」になり、「舌」をぬらす--舌は、音を味わいながら、たっぷり唾でぬれる。そして、そのとき声は輝く。



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安英晶『虚数遊園地』(3)

2009-06-18 01:12:58 | 詩集
安英晶『虚数遊園地』(3)(思潮社、2009年05月31日発行)
              
 安英晶『虚数遊園地』は2部構成になっている。17日、18日にとりあげたのは「Ⅰ あそび場から」。ことばの響きがやわらかくて、その分「死のにおい」もやわらかくて、遠く誘われる感じがする。
 「Ⅱ 遊園地」は、1行のなかの複数の時間が、「Ⅰ」よりも意識的かもしれない。「Ⅰ」では無意識なやわらかさがあるけれど「Ⅱ」には意識化された正確さがある--というか、正確を狙って書いている部分があるように感じられる。1行のなかにおさわりきれない「時間」は行を分けて書かれる。
 その結果、1行のなかの複数の時間と、複数の行なかのひとつの時間(複数の行であることによって、複数の時間になるもの)の2種類が混在する。
 そして、詩が複雑化する。「複雑化」が公式化(?)され、つまり、手慣れてきて、「現代詩」化する--と、言い換えることができるかもしれない。
 「観覧車」という作品。

夜の観覧車の暗い箱では誰もがひっそりうつむいている
(そう/ひっそり/鏡面の奥を覗いてしまったかのように/ひっそり と
深夜の観覧車はきまって片側だけが満員で 満員であっても
どのゴンドラもまるで規則でもあるように乗り合わせているものはいなく
(その人たちは どこかもうひとつの場所で眠っているらしいのだが
(切れ味がよくない ねむりの
(ああ 今朝の 火を通しすぎたハムエッグ あれのせいだ

   また/きている の/ね

その朝 初潮をみた痩身の少女が
あおじろい顔で ぼーっと うつむいて
ときどき反対側の座席に座ったりして 落ち着かない

 「(そう/ひっそり/鏡面の奥を覗いてしまったかのように/ひっそり と」という行は、「/」によってむりやり、つまり意識的に「時間」を引き出そうとするが、うまくいかず、「現代詩用語(?)」の「鏡面の奥」ということばをへて、「ひっそり」が繰り返される。そこでは、「時間」を引き出そうとする「意識」だけがある。
 この「意識」が過剰になると、1行ではおさまりがきかず、複数の行になる。
 「(その人たちは」からの3行が象徴的である。丸カッコは開かれたまま、閉じられない。並列に置かれ、並列におくことで「時間」を、行に対して(行にとって)垂直ではなく、水平にひろげる。「時間」が「時間」のまま、「場」にかわるような印象がある。1行のなかで時間が噴出するのではなく、水平にずれながら、そのずれた位置で「時間」が立ち上がる。
 そういう操作をすることで、ことばが、不思議なことに孤独になる。水平にひろがることで、連帯が生まれるのではなく、逆に、行と行とのあいだに「間」ができる。広がりができる。その広がりが「1行」を孤独にする。
 すると、不思議なことがおきる。孤独な行、孤立した行のなかで、「時間」が噴出するのである。

   また/きている の/ね

 ほーっと、息をのむほど美しい。
 ああ、これだったんだな。「Ⅰ あそび場」の美しさは、孤独な行のなかから、その孤独をうめるようにして(あるいは突き破り、破壊するようにしてといえばいいのだろうか)、噴出する「時間」だったのだ。
 1行1行が孤独だったのだ。そこから美しさがはじまっていたのだ。

 「初潮をみた痩身の少女」というような70年代(60年代?)の「現代詩」のようなことばは私は好きではないが、「また/きている の/ね」の呼吸の美しさゆえに、そうか、やっぱり少女でないとだめなのか、とも思ってしまうのだ。「初潮をみた痩身の少女」でも、いいか、と思ってしまうのである。
 「初潮をみた痩身の少女」のようなことばが、どこかへ消えてしまうと、きっと「Ⅱ」も楽しく読むことができると思う。
 「コーヒーカップ」の、

ぽこっ ぽこっ ぽこぽこ ぽこっ

おやっ
あそこで死んだねえさんがひかっています
(ついとあっちのほうから
(透明な手足をのばして

という行がもっと美しく感じられのでは、と思ってしまう。

 「Ⅰ」の部分は★5個、「Ⅱ」の部分は★3個、という印象。★5個を最高と評価してのことだけれど。(映画の評価のときの基準でいえば、ということだけれど。)



虚数遊園地
安英 晶
思潮社

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