紙芝居 Shylockiade
Prologus
はしばみの実に映る我が眼のささやきは
地獄の泉に吹く夕陽の影と知るか。
女は横臥はり草の中に燃えて涙は
遠き国へ滴り行くか。
この書き出しはおもしろい。動詞(動詞派生の名詞を含む)のつかいかたが独特である。学校教科書にはないつかいかたをしている。
「眼のささやき」。眼は、ささやかない。見るものである。
「吹く夕陽の影」。「影」には「月影」「星影」など、「光」の意味もあるけれど、西脇は「光」の意味ではなく、文字通り「影」の意味でつかっているのだと思う。その「影」は吹くものではない。吹くのは風だ。
普通とは違ったつかいかたをしている動詞。違ったつかいかたをすることで(そういうつかいかたに出会うことで)、文体意識はすこし乱れる。ひとつひとつの「ことば」はわかるけれど、イメージのひとつひとつが関節をずらされたように、脱臼したように、ガクガクする。
文体が脱臼する。このとき、何を感じるか。ひとによって違うだろうけれど、私は「音楽」を感じる。新鮮なリズムを感じる。
西脇の詩には、音が和声(ハーモニー)となってひろがる音楽と、リズムとなって揺さぶる音楽がある。学校の国語の文体が脱臼したときに感じるのは、リズムとしての音楽である。
そして、文体が一度脱臼したあとの、
女は横臥はり草の中に燃えて涙は
遠き国へ滴り行くか。
この「燃えて」の主語は何なのだろう。「女」だろうか。私には「涙」と感じられる。
主語に対する述語の動詞が脱臼したものなら、それにつづく文体は脱臼の影響を受けて、構造そのものも脱臼する。
この2行は、学校国語の文体なら、
女は草の中に横臥はり
涙は燃えて遠き国へ滴り行くか
になるのかもしれない。草の中に倒れて泣いている女。その熱い(燃える)涙は地獄の炎を越えて、さらに遠くまで流れていく--というイメージになるかもしれない。けれども、それではちょっとセンチメンタルすぎる。だから、文体を脱臼させて、ことばの運動をセンチメンタルから解放する。
西脇の文体には、そういう魅力があると思う。
西脇が学校国語の文体を越えるものをめざしていたことは、次の部分にあらわされていると思う。
我が言語はドーリアンの語でもないアルタイの言
である、そのまたスタイルは文語体と口語体と
を混じたトリカブトの毒草の如きものである。
学校の作文よ、にげよけれども女はこの毒草を
猪の如く好むことは永遠の習慣である。
「文語体と口語体と/を混じたトリカブトの毒草の如きもの」。取り扱いを誤れば、死んでしまう。しかし、そこに毒があるから、ことばは詩になるのだ。
ここに書かれている「口語体」ということば。これは、西脇の詩の特徴を宣言している。脱臼した文体の、不思議なことばを西脇は書くが、この脱臼は、ほんらい「口語」の特質のひとつである。口語の中では、意識は、飛躍したり、超越したりする。一種の無軌道を動く。文語は、そういう乱れをととのえ、わかりやすくしたものといえる。
西脇の詩は、文語(文章)として読むと、飛躍が多くて意味・論理がとりにくい。けれど、それを口語と理解して読めば、ことばの運動がわかりやすくなる。「文章」として練り上げることよりも、意識の自在な運動、そのリズムそのものを西脇は生きている。
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