詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(12)

2009-06-27 15:00:54 | 誰も書かなかった西脇順三郎

紙芝居 Shylockiade

Prologus

はしばみの実に映る我が眼のささやきは
地獄の泉に吹く夕陽の影と知るか。
女は横臥はり草の中に燃えて涙は
遠き国へ滴り行くか。

 この書き出しはおもしろい。動詞(動詞派生の名詞を含む)のつかいかたが独特である。学校教科書にはないつかいかたをしている。
 「眼のささやき」。眼は、ささやかない。見るものである。
 「吹く夕陽の影」。「影」には「月影」「星影」など、「光」の意味もあるけれど、西脇は「光」の意味ではなく、文字通り「影」の意味でつかっているのだと思う。その「影」は吹くものではない。吹くのは風だ。
 普通とは違ったつかいかたをしている動詞。違ったつかいかたをすることで(そういうつかいかたに出会うことで)、文体意識はすこし乱れる。ひとつひとつの「ことば」はわかるけれど、イメージのひとつひとつが関節をずらされたように、脱臼したように、ガクガクする。
 文体が脱臼する。このとき、何を感じるか。ひとによって違うだろうけれど、私は「音楽」を感じる。新鮮なリズムを感じる。
 西脇の詩には、音が和声(ハーモニー)となってひろがる音楽と、リズムとなって揺さぶる音楽がある。学校の国語の文体が脱臼したときに感じるのは、リズムとしての音楽である。
 そして、文体が一度脱臼したあとの、

女は横臥はり草の中に燃えて涙は
遠き国へ滴り行くか。

 この「燃えて」の主語は何なのだろう。「女」だろうか。私には「涙」と感じられる。
 主語に対する述語の動詞が脱臼したものなら、それにつづく文体は脱臼の影響を受けて、構造そのものも脱臼する。
 この2行は、学校国語の文体なら、

女は草の中に横臥はり
涙は燃えて遠き国へ滴り行くか

になるのかもしれない。草の中に倒れて泣いている女。その熱い(燃える)涙は地獄の炎を越えて、さらに遠くまで流れていく--というイメージになるかもしれない。けれども、それではちょっとセンチメンタルすぎる。だから、文体を脱臼させて、ことばの運動をセンチメンタルから解放する。
 西脇の文体には、そういう魅力があると思う。

 西脇が学校国語の文体を越えるものをめざしていたことは、次の部分にあらわされていると思う。

我が言語はドーリアンの語でもないアルタイの言
である、そのまたスタイルは文語体と口語体と
を混じたトリカブトの毒草の如きものである。
学校の作文よ、にげよけれども女はこの毒草を
猪の如く好むことは永遠の習慣である。

 「文語体と口語体と/を混じたトリカブトの毒草の如きもの」。取り扱いを誤れば、死んでしまう。しかし、そこに毒があるから、ことばは詩になるのだ。

 ここに書かれている「口語体」ということば。これは、西脇の詩の特徴を宣言している。脱臼した文体の、不思議なことばを西脇は書くが、この脱臼は、ほんらい「口語」の特質のひとつである。口語の中では、意識は、飛躍したり、超越したりする。一種の無軌道を動く。文語は、そういう乱れをととのえ、わかりやすくしたものといえる。
 西脇の詩は、文語(文章)として読むと、飛躍が多くて意味・論理がとりにくい。けれど、それを口語と理解して読めば、ことばの運動がわかりやすくなる。「文章」として練り上げることよりも、意識の自在な運動、そのリズムそのものを西脇は生きている。


西脇順三郎コレクション〈第2巻〉詩集2
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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坂多瑩子『お母さん ご飯が』

2009-06-27 02:20:21 | 詩集
坂多瑩子『お母さん ご飯が』(花神社、2009年06月25日発行)

 坂多瑩子『お母さん ご飯が』は介護の日々をことばにしている。どきりとすることばがでてくる。「いらない」の前半。

あちこちから
いろんなものがはみだして
机の上から下から
コンパスとかチョコレートとか
母さんがあたしに文句を言っているみたいに
くしゃくしゃ
はみだしてきて
そんなとき
ものすごくあかるく咲いている花 見つけた
それで
もうすぐ母さんは死ぬ
と思った
母さんは
おかゆだけれど今朝もちゃんとご飯を食べて
トイレに行ったしテレビだって見てる
花は
たった一輪 それでも
母さんは死ぬんだって
あたしに思わせた

 「母さんは死ぬ」。そのことばが、まるで、コンパスやチョコレートのように、坂多の「肉体」からはみだしている。どこにそんなことばがあったのか。隠れていたのか。ほんとうはコンパスのように、机の引き出しの中にきちんとしまっておいたはずのことばなのに、それが、気がついてみるとふっと、はみだしている。
 こうしたことばを、正直に書くのはとても難しいと思う。
 不謹慎だから、というのではない。ことばというのは不思議な力をもっている。ことばにしてしまうと、現実がことばに合わせて動いてしまうということがある。「死ぬ」と言ってしまったから、死ぬのである。そして、あああのとき「死ぬ」なんてことばをいわなければよかったと後悔したりする。
 その一方、ことばのそういう不思議な力を逆に動かしたいという思いが誰のこころにもある。
 ことばにすれば、それが現実になる。そういしことは、たしかにあるけれど、一方で、ことばにしてしまえば、現実の方が、ことばなんかにひきずられないぞ、と反抗して、ことばどおりに動かないということもある。ことばどおりに現実が動くとしたら、そのことばを発した人は「超能力」をもっている。私はそういう能力をもっていない。だから、ことばにすればするほど、現実は遠くなる。--こういう場合の方が多い。ことばを裏切るのが現実なのだ。だから、「夢」はいっこうにかなわない……。そういう経験(?)というものにすがるようにして、あえてことばにする。
 「母さんは死ぬ」。言えば言うほど、それは「現実」ではなくなる。いつまでも母さんは生き続ける。だからこそ、「母さんは死ぬ」と2回書いてしまう。そこには、祈りがある。ことばが、現実によって裏切られてくれますように、という祈りがある。
 だから、この詩は美しい。「母さんは死ぬ」と書きながら、不思議な美しさをたたえている。

 けれど、ほんとうは、どちらがほんとう思いなのか、坂多にはわからないと思う。わかるのは、現実に母が死んだときだけだ。(こんなこと、つまり、お母さんの死について、他人の私が書いてしまうのは、なんだか申し訳ないことなのだけれどけれど……。)そのことは、坂多にはわかっていると思う。いまは、どちらなのか、わからない。わからないから、書かずにはいられないのだと思う。
 書くことで、何かを「はみださせたい」。はみだすものを見て、いまという瞬間に立ち止まりたいのだと思う。いま、を書くことで、しっかり時間を見つめたいのだと思う。死というのは、自分の死の場合、絶対に体験できないことというか、体験した瞬間に何がどうなったかわからないものに違いないが、それが他人の場合もまた同じである。「死んだ」ということはわかるが、死んでどうなったかは、わからない。生きているときのことしかわからない。
 そして、生きていくということは、何かを「はみださせつづける」ことなのだ。
 そして、その「はみだしたもの」は、だんだん、うまく整理がつかなくなる。もとの「引き出し」に戻ってくれなくなる。

母さんはときどきまだ文句を言う
言葉にすると
ひとつかふたつ
前みたいに
いろんなものがくしゃくしゃ交じりあわない
とってもシンプル
どこかでひょいと
ご飯もトイレもテレビもいらない
もういらないって
いらないよ
いらない
いらない
いらない

 「いらない」。それは、悲しい願いだ。「引き出し」(ということばを坂多がつかっているわけではないのだが、「机」から、私は「引き出し」を連想してしまう)に何もしまい込まなければ、はみだすものもない。もう、はみださせたくない。だから「いらない」。
 この「いらない」の繰り返しが、なんとも切ない。

 この詩で、もう一点。「もうすぐ母さんは死ぬ」の前に、とてもすばらしい行がある。「母さんは死ぬ」ということばについたとき、ほんとうは、この行から書きはじめるべきだったのかもしれない。

ものすごくあかるく咲いている花 見つけた

 これは、普通の日本語で書けば「ものすごくあかるく咲いている花を見つけた」になる。けれども坂多は「を」を省略している。助詞「を」をきちんと補って(?)ことばを動かす余裕がなかった。
 花をみつけた。あかるく咲いている花を見つけた。それと同時に「もうすぐ母さんは死ぬ」ということばがやってきたのだ。はみだしたのだ。
 正確な(?)日本語なら「を」が必要である。けれども、意識の動きは、日本語として正確であるかどうか(学校国語どおりであるかどうか)など気にしない。そういうことを追い越して動いてしまう。そして、この意識を追い越して動くことばの、その動きそのものが、「はみだす」ということにつながっている。「はみだす」というのは、正しくあろうとする意識を追い越す何か、その追い越しという運動の中にある。
 ことばは、私たちを追い越すことがあるのだ。
 それは現実を追い越すことがあるということかもしれない。ことばが先にあって、それを現実が追いかける。「母さんが死ぬ」といえば、現実がそのことばを追いかけ実現してしまう。そういうことがありうる。
 だからこそ、ことばが現実を追い越してしまわないように、追い越してしまったなら、そこで踏みとどまって、現実が急いで追いかけてきて、さらにことばを追い越してしまわないようにしなければならない……。

 この詩では、ことばと現実が、そんな具合に互いを牽制しながら動いている。

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