詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金井雄二「鳥籠」

2009-06-15 11:44:07 | 詩(雑誌・同人誌)
金井雄二「鳥籠」(「独合点」99、2009年06月07日発行)

 納屋。格子戸。そのなかには「おじいちゃん」がいて「小鳥」を飼っている。その格子戸を開く。「ザラザラザラと音がする。」
 金井雄二「鳥籠」は、この「ザラザラザラ」という音にこだわっている。心地よい音ではない。その心地よくないことが、逆に、金井を引きつけるようである。心地よくないことが、その向こう側にある。その心地よくないことというのは、ほんとうに心地よくないのかどうか、心地よくないとしたら何が理由で心地よくないのか、それを知りたい。

ぼくは格子戸をザラザラザラとひく。見てはいけないものを見るときのように、格子戸が引かれるのだ。見てしまったら、もう取りかえしがつかないようなものがある気がしてならない。空気が違う。声が違う。人間の声がしない。だが、騒々しい。あれは小鳥の声だ。

 「空気が違う。声が違う。人間の声がしない。」の短いたたみかけがいい。「声」がすることを「ぼく」は期待していたのか。「おじいちゃん」と「鳥」しかいない納屋。そこで、どんな声がすると「ぼく」は期待していたのだろう。「ぼく」にもよくわからないと思う。期待していたか、期待していなかったか、わからないまま「空気」に触れる。「空気」が「世界」が違うとつげる。その瞬間、聞いた音を「声」と勘違いしてしまう。
 「ザラザラザラ」という繰り返される音が、「耳」を変質させているのだ。「ザラザラザラ」を聞きすぎて、音のすべてがいつもと違っている。そのために、「ぼく」は無意識に声を求める。そして、「声」ではないものを「声」として聞き取り、同時に、その「声」は「違う」とも感じる。一瞬の錯乱。感覚の混乱。そこから、感覚は覚醒していくが、どうしたって、そのときとらえられる世界は違ったものになる。「耳」が違ってしまえば「目」も違ってしまうのだ。

空気が違う。声が違う。人間の声がしない。だが、騒々しい。あれは小鳥の声だ。ザラザラザラと音がして、別の世界が現れる。鳥籠。おびただしい数の鳥籠。鉄製の鳥籠ではなくて、竹ひごのような細い木枠が、縦と横に格子状に取り付けられてい、木製の鳥籠。土間に鳥籠がある。板の上に鳥籠がある。座敷にも鳥籠がある。鳥籠の上にも鳥籠がある。鳥籠の横にも鳥籠がある。鳥籠の斜め上にも鳥籠がある。納屋の中は鳥籠でいっぱいで、箱の中に箱がある寄木細工のように、納屋の中は鳥籠で埋め尽くされているのだ。

 ほんとうに鳥籠しかないのか。あるいは「別の世界」に踏み込んでしまったために、鳥籠しか見えなくなってしまったのか。区別がつかなくなる。そうすると、また変化が起きる。

おびただしい鳥籠の中には小鳥がいて、ぼくが格子戸を開けると、いっせいに動きだし、叫び、羽をバタつかせ、納屋の中をひとつの楽器にした。

 視力が耳に影響を跳ね返す。見ていたものが音に変わる。そのとき、それはもう「鳥の声」ではない。「声」は「叫び」にかわり、そこに羽の音も交じり、「楽器」の内部になる。「納屋の中」が「ひとつの楽器」なら、「ぼく」は「楽器」の内部にいて、その音楽を聴くことになる。つまり、それは、鳥の音楽ではなく、「ぼく」の音楽なのだ。
 ここから、もう一度、感覚が変化する。

鳥籠の中には、どことなく、すでに人間味を帯びた小鳥たちの白い無数の目玉があって、ぼくを見つめていた。

 「声」→「人間の声ではない」→「鳥の声」→(鳥の声ではない)→「楽器」というのは「耳」の感じる変化だが、「鳥の声」が「楽器」に変わったとき、目がとらえる世界も「鳥」とは違ったものになる。「人間味を帯びた」ものかわる。
 このあと、「ぼく」は「おじいちゃん」を探す。そして、ザラザラザラと格子戸を開けて、「おじいちゃん」を見つけ出すのだが、それは、もうほんとうの「おじいちゃん」ではありえない。--金井は、そんなオチを書いていなけれど、感覚の変化、世界の変化をへたあとでは、どうしたって、いつもの「おじいちゃん」ではありえないだろう。
 そういうことが、自然に伝わってくる文体である。



今、ぼくが死んだら
金井 雄二
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マックG監督「ターミネーター4」(★★)

2009-06-15 06:51:12 | 映画
監督 マックG 出演 クリスチャン・ベイル、サム・ワシントン、アントン・イェルチン、ヘレナ・ボトム・カーター

 「ターミネーター」といえばジョン・コナー。2018年。ジョン・コナーが実際に生きている時代。となれば、ジョン・コナーが主役のはず。ところが、この映画はその鉄則を踏み外している。クリスチャン・ベイルが演じるジョン・コナーが活躍しないのである。わきに徹している。
 いや、もともとジョン・コナーは「狂言回し」。主役は「ターミネーター」だから、これはこれでいいのだ、とも言えるのだが……。
 かわって主役は、新種の「ターミネーター」。どんなターミネーターが登場するか。(初代のターミネーター、シュワルツネッガーまでスクリーンに登場するという噂が流れていたので、興味津々で映画館へ行った。)
 でもねえ。
 これが、はじまった途端にわかってしまう。サム・ワシントンが演じるのだけれど、なぜ、すぐに彼が新型ターミネーターだとわかるかといえば、彼を改造する(?)準備を進めるのがヘレナ・ボトム・カーターだからである。もっと無名の、見たこともない女優が狂言回しならいいけれど、有名すぎる。そして、彼女は死期がせまっている「がん」という設定なので、あとは登場しない--というのも、見え透いている。きっと、最後に、登場する。そして、実際に、重要な役で登場する。
 脚本が見え透いている。キャストも見え透いている。キャスティングが大失敗の映画である。
 せめて新型ターミネーターを見るからに善良なサム・ワシントンではなく、クリスチャン・ベイルが演じれば、少しは違ってきたかもしれない。クリスチャン・ベイルは子役時代から集中力のあるおもしろい役者だが、ちょっと常軌を逸しているような雰囲気がある。「悪役」の方があっている。そういう敵か味方かわからない雰囲気がないと、新型ターミネーターは演じられない。観客が、これはほんとう? それとも罠? とわけがわからなくならないと、この映画はおもしろくないのだ。
 だいたい、え、いま、なんていった? 人間関係がどうなっている? そんなことってありえる? という疑問をぶっとばして映像が暴走するのがターミネーターの魅力であるはずなのに、きっとサム・ワシントンが善良な(寝返った?)ターミネータをやるんだな、とわかってしまうと、見ていて楽しみがない。
 また、怖いシーンもまったくない。
 1回目の「ターミネーター」に敬意をはらっているつもりなのだろう。溶鉱炉(?)の溶けた鉄鉱石を浴びても、そのなかからターミネーターが立ち上がってくるシーンもあるのだが、怖くない。見慣れてしまっている。
 1回目には、タンクローリーの爆発でバラバラになりながら、ターミネーターが腕だけになってなおも追いかけてくるという傑作シーンがあった。私は、そこで大笑いしてしまった。「怖い」をとおりこして、え、こんなことまでやるの? とびっくりして笑いだしてしまった。楽しくなったのだ。
 最後に「核」をつかった爆破があるのだが、その核に対する認識の甘さも「エンド・オブ・ザ・デイズ」や「悪魔と天使」なみのノーテンキさで、あきれてしまう。
 映像全体も、カラーを灰青のトーンで統一して「意味」を持たせようとしているけれど、もうすっかり古びた手法である。



ターミネーター [DVD]

20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(116 )

2009-06-15 00:35:10 | 田村隆一
 田村はウィスキーの詩をたくさん書いている。そうした作品のひとつ「一滴の光」。

琥珀色の液体が氷をゆっくりとかして行く
ただ それを●(みつ)めているだけで
沈黙がグラスのまわりに集ってくる
十年まえの
二十年まえの
三十年まえの
沈黙が形象化されてきて

沈黙は そこに在るものではない
創り出すものだ
                  (谷内注・「みつめる」は目ヘンに登)

 特に田村の特徴というものがでているわけではないけれど、この「沈黙は そこに在るものではない/創り出すものだ」という表現はとても気持ちがいい。
 沈黙にかぎらず、あらゆるものは「創り出すもの」なのどと思う。
 ウィスキーが樽の中で熟成する。十年、二十年、三十年……。そこから生まれる香と味が「沈黙」をグラスのまわりに集まってくるというとき、ウィスキーが沈黙を集めてくるわけではない。沈黙も自然にやってくるわけではない。田村のことばが沈黙というものをグラスのまわりに創り出すのである。
 そして、そのとき田村は、沈黙に「なる」のである。

 「夜明けの旅人」の「人」という部分の2連目の3行。

ぼくの指はピアノをひけないのにピアニストになる
ぼくの目は絵も描けないくせに画家になる
ぼくの腕は巨木の小枝さえも折れないのに彫刻家になる

 繰り返される「なる」。
 「なる」ために、ことばが動いていく。それが詩である。

 --ということを「結論」として書くために、田村隆一を読んできたわけではないのだが、全集を読んで最後に思ったのが、そういうことである。たまたま最後に読んだ部分にそういう詩があったから、そういう感想になったのだと思う。単行詩集未収録詩篇であるから、なんらかの理由で田村が除外した作品である。そういう作品を最後に取り上げて、何かいうのも変な感じである。
 もしかすると、この全集は後ろから前へもどる感じで読んだ方がいいのかもしれない。

 私はいつでも「結論」を目指して書いているわけではない。逆に、結論を書いてしまって、それから、その結論をどれだけつづけて言うことができるか、ということのために書いている。
 田村の詩から感じていることは、「矛盾」の美しさである。私は田村の「矛盾」が好きで、田村の詩を読みつづけた。そのことを最後に書いておく。


(このシリーズ、おわり)


田村隆一全詩集
田村 隆一
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする