金井雄二「鳥籠」(「独合点」99、2009年06月07日発行)
納屋。格子戸。そのなかには「おじいちゃん」がいて「小鳥」を飼っている。その格子戸を開く。「ザラザラザラと音がする。」
金井雄二「鳥籠」は、この「ザラザラザラ」という音にこだわっている。心地よい音ではない。その心地よくないことが、逆に、金井を引きつけるようである。心地よくないことが、その向こう側にある。その心地よくないことというのは、ほんとうに心地よくないのかどうか、心地よくないとしたら何が理由で心地よくないのか、それを知りたい。
「空気が違う。声が違う。人間の声がしない。」の短いたたみかけがいい。「声」がすることを「ぼく」は期待していたのか。「おじいちゃん」と「鳥」しかいない納屋。そこで、どんな声がすると「ぼく」は期待していたのだろう。「ぼく」にもよくわからないと思う。期待していたか、期待していなかったか、わからないまま「空気」に触れる。「空気」が「世界」が違うとつげる。その瞬間、聞いた音を「声」と勘違いしてしまう。
「ザラザラザラ」という繰り返される音が、「耳」を変質させているのだ。「ザラザラザラ」を聞きすぎて、音のすべてがいつもと違っている。そのために、「ぼく」は無意識に声を求める。そして、「声」ではないものを「声」として聞き取り、同時に、その「声」は「違う」とも感じる。一瞬の錯乱。感覚の混乱。そこから、感覚は覚醒していくが、どうしたって、そのときとらえられる世界は違ったものになる。「耳」が違ってしまえば「目」も違ってしまうのだ。
ほんとうに鳥籠しかないのか。あるいは「別の世界」に踏み込んでしまったために、鳥籠しか見えなくなってしまったのか。区別がつかなくなる。そうすると、また変化が起きる。
視力が耳に影響を跳ね返す。見ていたものが音に変わる。そのとき、それはもう「鳥の声」ではない。「声」は「叫び」にかわり、そこに羽の音も交じり、「楽器」の内部になる。「納屋の中」が「ひとつの楽器」なら、「ぼく」は「楽器」の内部にいて、その音楽を聴くことになる。つまり、それは、鳥の音楽ではなく、「ぼく」の音楽なのだ。
ここから、もう一度、感覚が変化する。
「声」→「人間の声ではない」→「鳥の声」→(鳥の声ではない)→「楽器」というのは「耳」の感じる変化だが、「鳥の声」が「楽器」に変わったとき、目がとらえる世界も「鳥」とは違ったものになる。「人間味を帯びた」ものかわる。
このあと、「ぼく」は「おじいちゃん」を探す。そして、ザラザラザラと格子戸を開けて、「おじいちゃん」を見つけ出すのだが、それは、もうほんとうの「おじいちゃん」ではありえない。--金井は、そんなオチを書いていなけれど、感覚の変化、世界の変化をへたあとでは、どうしたって、いつもの「おじいちゃん」ではありえないだろう。
そういうことが、自然に伝わってくる文体である。
納屋。格子戸。そのなかには「おじいちゃん」がいて「小鳥」を飼っている。その格子戸を開く。「ザラザラザラと音がする。」
金井雄二「鳥籠」は、この「ザラザラザラ」という音にこだわっている。心地よい音ではない。その心地よくないことが、逆に、金井を引きつけるようである。心地よくないことが、その向こう側にある。その心地よくないことというのは、ほんとうに心地よくないのかどうか、心地よくないとしたら何が理由で心地よくないのか、それを知りたい。
ぼくは格子戸をザラザラザラとひく。見てはいけないものを見るときのように、格子戸が引かれるのだ。見てしまったら、もう取りかえしがつかないようなものがある気がしてならない。空気が違う。声が違う。人間の声がしない。だが、騒々しい。あれは小鳥の声だ。
「空気が違う。声が違う。人間の声がしない。」の短いたたみかけがいい。「声」がすることを「ぼく」は期待していたのか。「おじいちゃん」と「鳥」しかいない納屋。そこで、どんな声がすると「ぼく」は期待していたのだろう。「ぼく」にもよくわからないと思う。期待していたか、期待していなかったか、わからないまま「空気」に触れる。「空気」が「世界」が違うとつげる。その瞬間、聞いた音を「声」と勘違いしてしまう。
「ザラザラザラ」という繰り返される音が、「耳」を変質させているのだ。「ザラザラザラ」を聞きすぎて、音のすべてがいつもと違っている。そのために、「ぼく」は無意識に声を求める。そして、「声」ではないものを「声」として聞き取り、同時に、その「声」は「違う」とも感じる。一瞬の錯乱。感覚の混乱。そこから、感覚は覚醒していくが、どうしたって、そのときとらえられる世界は違ったものになる。「耳」が違ってしまえば「目」も違ってしまうのだ。
空気が違う。声が違う。人間の声がしない。だが、騒々しい。あれは小鳥の声だ。ザラザラザラと音がして、別の世界が現れる。鳥籠。おびただしい数の鳥籠。鉄製の鳥籠ではなくて、竹ひごのような細い木枠が、縦と横に格子状に取り付けられてい、木製の鳥籠。土間に鳥籠がある。板の上に鳥籠がある。座敷にも鳥籠がある。鳥籠の上にも鳥籠がある。鳥籠の横にも鳥籠がある。鳥籠の斜め上にも鳥籠がある。納屋の中は鳥籠でいっぱいで、箱の中に箱がある寄木細工のように、納屋の中は鳥籠で埋め尽くされているのだ。
ほんとうに鳥籠しかないのか。あるいは「別の世界」に踏み込んでしまったために、鳥籠しか見えなくなってしまったのか。区別がつかなくなる。そうすると、また変化が起きる。
おびただしい鳥籠の中には小鳥がいて、ぼくが格子戸を開けると、いっせいに動きだし、叫び、羽をバタつかせ、納屋の中をひとつの楽器にした。
視力が耳に影響を跳ね返す。見ていたものが音に変わる。そのとき、それはもう「鳥の声」ではない。「声」は「叫び」にかわり、そこに羽の音も交じり、「楽器」の内部になる。「納屋の中」が「ひとつの楽器」なら、「ぼく」は「楽器」の内部にいて、その音楽を聴くことになる。つまり、それは、鳥の音楽ではなく、「ぼく」の音楽なのだ。
ここから、もう一度、感覚が変化する。
鳥籠の中には、どことなく、すでに人間味を帯びた小鳥たちの白い無数の目玉があって、ぼくを見つめていた。
「声」→「人間の声ではない」→「鳥の声」→(鳥の声ではない)→「楽器」というのは「耳」の感じる変化だが、「鳥の声」が「楽器」に変わったとき、目がとらえる世界も「鳥」とは違ったものになる。「人間味を帯びた」ものかわる。
このあと、「ぼく」は「おじいちゃん」を探す。そして、ザラザラザラと格子戸を開けて、「おじいちゃん」を見つけ出すのだが、それは、もうほんとうの「おじいちゃん」ではありえない。--金井は、そんなオチを書いていなけれど、感覚の変化、世界の変化をへたあとでは、どうしたって、いつもの「おじいちゃん」ではありえないだろう。
そういうことが、自然に伝わってくる文体である。
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