高橋順子『あさって歯医者さんに行こう』(2)(デコ、2009年06月23日発行)
高橋順子はとても耳のいい人である。きのう取り上げた「水平線」でも、「疲れて たるみたくなることがある」という海の声を聞きとっている。それはもちろん高橋の声なのだが、海がほんとうひとことも漏らさないのだとしたら、その声は存在しない。どこかに、「疲れて たるみたくなることがある」と呟く水平線がある。そのかすかな声を高橋は聞きとる。
聞きとって、その瞬間から、高橋と海(水平線)が入れ代わる。そういう不思議で、なめらかな交代劇。そのやりとりのなかに、「世間」がひろがる。
「東京のカラス」では、高橋は他人の声を聞き取り、カラスになったり、叔母さんになったりする。
マンションの五階から叔母さんは
カラスがハンガーを口にくわえて飛ぶところを見た
ところがカラスはそれを落としてしまった
知り合いに会ったとき
つい「アー」とあいさつしてしまった
二羽は電線の上に並んで
しまったね、という顔をした
草むらに落ちたハンガーを
でもカラスは広いに行かなかったそうだ
「草むらに隠れて見えなくなってしまったのね」
と叔母さんは言う
それも一理あるが
カラスは落としたものは拾わない主義か
あきらめが早いのか
消えたものは頭からも消えてしまうのか
どうもよく分からない
叔母さんの次の観察を待つ
実際に高橋が聞いたのは、どの声とどの声? カッコのなかにくくられているのは1行だけれど、それだけ? その前後のことばも叔母さんから聞いた声である。「そうだ」ということばが伝聞をあらわしているけれど、それは、厳密にはおばさんに属していない声である。高橋が聞きとって、高橋のなかできちんとととのえられた声である。耳がいいとは、「音」をことばとしてととのえられるということだ。
傑作は、カラスのことばである。
二羽は電線の上に並んで
しまったね、という顔をした
カラスは「しまったね」と会話するだろうか。その前には
つい「アー」とあいさつしてしまった
という行があるが、カラスは「アー」とか「カー」とか声を発するが「しまったね」とは言わない。「しまったね、という顔をした」というのは声ではなく、表情の問題である、かもしれないけれど、その表情から「しまったね」という声を聞きとるのは、やはり耳がいいのだ。「アー」という声を聞きとるのではなく、「しまったね」を聞きとってしまう耳というものがある。
そういう「ことば」にならない声を「ことば」として聞きとる耳だからこそ、おばさんの「草むらに隠れて見えなくなってしまったのね」の1行につづく声も聞きとってしまう。
だれの声?
高橋の声? それだけではないだろう。高橋の同居人(たぶん、このカラスと叔母さんの話を詩に書くように、高橋は、誰かにこの話をしているだろう。その高橋の話を聞く機会のある人)の声? いりまじっている。区別できずに、あの声、この声が入り混じって、ことばとてし動いている。
最後の、
叔母さんの次の観察を待つ
も、高橋のことを書いているようであって、それ以上のことを書いている。高橋の話を聞いたひとは、みんな、叔母さんの次の報告(声)を待っている。それは、まだ発せられていない。でも、その声を、ことばにならないまま、高橋は聞きとっている。きっと話すはずだ。話してくれるはずだ、と。
聞こえない声、ことばまできちんと、聞こえるよ、と書き留めてしまう。それくらい高橋の耳はいいのだ。
「滝桜」も高橋の耳が書き留めたことばである。全行。
雪の重みで てっぺんの枝が一本折れてしまっても
変わらずに花をつけた桜を見た
けなげに咲いた桜を
わたしたちは遠くから見に来たが
今年の春を素通りした土地の人たちもいた
「あなたに見られたくない」
と言っている桜の声が 夢に聞こえたのだそうだ
ほんとうに土地の人から聞いた話だろうか。直接、「どうしてみないんですか?」と質問して、その答えを得たのだろうか。たぶん、そうではない。高橋が想像したのである。想像したとき、聞こえた声なのだ。存在しない声が、そのとき「土地の人」のことばとして聞こえる。そこには桜の「声」もある。
その声を聞きとるとき、高橋は高橋ではない。「土地の人」であり、「桜」である。入れ代わってしまっている。「土地の人」「桜」になっている。
高橋のことばの特徴は、そうやって、だれにでも「なる」ことである。だれにでもなって、高橋自身を外から眺めることができることろにある。複数の他者と高橋がそのとき、ことばのなかで対話する。「世間」をつくる。高橋のことばのなかには「世間」がある。そこから、あたたかさ、やさしさが生まれている。
高橋のような人間がそばにいると、誰でも、きっと落ち着くだろうなあ、落ち着いた気持ちになれるだろうなあ、と思う。