詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(6)

2009-06-21 09:22:26 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 



白い波が頭へとびかかつてくる七月に
南方の奇麗な町をすぎる。
静かな庭が旅人のために眠つてゐる。
薔薇に砂に水
薔薇に霞む心
石に刻まれた髪
石に刻まれた音
石に刻まれた眼は永遠に開く。

 最終行はとても有名だ。田村隆一は何度か詩に引用している。石像の描写なのだが、そして、そこに「眼」が出てくるのだけれど、私には、やはりこの作品も「音」の作品である。「音」の詩である。「耳」の詩である。

石に刻まれた音

 の「音」は前後の「髪」「眼」から類推すると「耳」の言い換えである。「耳」と書けば簡単なところを「音」と書かずにはいられないのも、西脇が「音」の詩人、「音楽」の詩人である証拠のように思える。
 「静かな」ということばで「庭」から「音」をいったん消し去ったあと、西脇は、ことばそのものの「音」を聞きはじめる。「薔薇」のくりかえし、「石」のくりかえし、「薔薇に」「石に刻まれた」のくりかえし。「に」のくりかえし。リズムにのって、ことばがだんだん加速していく。水(具体)→心(抽象)→髪(具体)→音(象徴なので、抽象)→眼(具体)とことばが動く。「音」が具体的なものではなく、「耳」の象徴という抽象を経たために、「眼」も「永遠に開く」という抽象をひっぱりだしてしまう。これは、繰り返しの音楽の呼び寄せた永遠である。

石に刻まれた音

 の「音」を「耳」ではなく、石像そのもの、その全体を作り上げるときの「のみの音」ととらえても、同じことがいえる。「音」という、そこにないものを経ることで、「眼は永遠に開く」という世界が誕生するのだ。

西脇順三郎コレクション〈第6巻〉随筆集
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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高橋順子『あさって歯医者さんに行こう』(2)

2009-06-21 00:09:33 | 詩集
高橋順子『あさって歯医者さんに行こう』(2)(デコ、2009年06月23日発行)

 高橋順子はとても耳のいい人である。きのう取り上げた「水平線」でも、「疲れて たるみたくなることがある」という海の声を聞きとっている。それはもちろん高橋の声なのだが、海がほんとうひとことも漏らさないのだとしたら、その声は存在しない。どこかに、「疲れて たるみたくなることがある」と呟く水平線がある。そのかすかな声を高橋は聞きとる。
 聞きとって、その瞬間から、高橋と海(水平線)が入れ代わる。そういう不思議で、なめらかな交代劇。そのやりとりのなかに、「世間」がひろがる。
 「東京のカラス」では、高橋は他人の声を聞き取り、カラスになったり、叔母さんになったりする。

マンションの五階から叔母さんは
カラスがハンガーを口にくわえて飛ぶところを見た
ところがカラスはそれを落としてしまった
知り合いに会ったとき
つい「アー」とあいさつしてしまった
二羽は電線の上に並んで
しまったね、という顔をした
草むらに落ちたハンガーを
でもカラスは広いに行かなかったそうだ
「草むらに隠れて見えなくなってしまったのね」
と叔母さんは言う
それも一理あるが
カラスは落としたものは拾わない主義か
あきらめが早いのか
消えたものは頭からも消えてしまうのか
どうもよく分からない
叔母さんの次の観察を待つ

 実際に高橋が聞いたのは、どの声とどの声? カッコのなかにくくられているのは1行だけれど、それだけ? その前後のことばも叔母さんから聞いた声である。「そうだ」ということばが伝聞をあらわしているけれど、それは、厳密にはおばさんに属していない声である。高橋が聞きとって、高橋のなかできちんとととのえられた声である。耳がいいとは、「音」をことばとしてととのえられるということだ。
 傑作は、カラスのことばである。

二羽は電線の上に並んで
しまったね、という顔をした

 カラスは「しまったね」と会話するだろうか。その前には

つい「アー」とあいさつしてしまった

 という行があるが、カラスは「アー」とか「カー」とか声を発するが「しまったね」とは言わない。「しまったね、という顔をした」というのは声ではなく、表情の問題である、かもしれないけれど、その表情から「しまったね」という声を聞きとるのは、やはり耳がいいのだ。「アー」という声を聞きとるのではなく、「しまったね」を聞きとってしまう耳というものがある。
 そういう「ことば」にならない声を「ことば」として聞きとる耳だからこそ、おばさんの「草むらに隠れて見えなくなってしまったのね」の1行につづく声も聞きとってしまう。
 だれの声?
 高橋の声? それだけではないだろう。高橋の同居人(たぶん、このカラスと叔母さんの話を詩に書くように、高橋は、誰かにこの話をしているだろう。その高橋の話を聞く機会のある人)の声? いりまじっている。区別できずに、あの声、この声が入り混じって、ことばとてし動いている。
 最後の、

叔母さんの次の観察を待つ

 も、高橋のことを書いているようであって、それ以上のことを書いている。高橋の話を聞いたひとは、みんな、叔母さんの次の報告(声)を待っている。それは、まだ発せられていない。でも、その声を、ことばにならないまま、高橋は聞きとっている。きっと話すはずだ。話してくれるはずだ、と。
 聞こえない声、ことばまできちんと、聞こえるよ、と書き留めてしまう。それくらい高橋の耳はいいのだ。

 「滝桜」も高橋の耳が書き留めたことばである。全行。

雪の重みで てっぺんの枝が一本折れてしまっても
変わらずに花をつけた桜を見た
けなげに咲いた桜を
わたしたちは遠くから見に来たが
今年の春を素通りした土地の人たちもいた
「あなたに見られたくない」
と言っている桜の声が 夢に聞こえたのだそうだ

 ほんとうに土地の人から聞いた話だろうか。直接、「どうしてみないんですか?」と質問して、その答えを得たのだろうか。たぶん、そうではない。高橋が想像したのである。想像したとき、聞こえた声なのだ。存在しない声が、そのとき「土地の人」のことばとして聞こえる。そこには桜の「声」もある。
 その声を聞きとるとき、高橋は高橋ではない。「土地の人」であり、「桜」である。入れ代わってしまっている。「土地の人」「桜」になっている。
 高橋のことばの特徴は、そうやって、だれにでも「なる」ことである。だれにでもなって、高橋自身を外から眺めることができることろにある。複数の他者と高橋がそのとき、ことばのなかで対話する。「世間」をつくる。高橋のことばのなかには「世間」がある。そこから、あたたかさ、やさしさが生まれている。

 高橋のような人間がそばにいると、誰でも、きっと落ち着くだろうなあ、落ち着いた気持ちになれるだろうなあ、と思う。



けったいな連れ合い
高橋 順子
PHP研究所

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