詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(8)

2009-06-23 07:37:53 | 誰も書かなかった西脇順三郎

ガラスの杯

白い菫の光り。
光りは半島をめぐり
我が指輪の世界は暗没する。

 私は、この書き出しに笑いだしてしまう。このときの「笑い」は私特有のものなのか、それとも誰かと共有できるものなのか、それがわからない。また、その笑いが私の無知によるものなのかどうかも、よくわからない。私は、西脇のことばに笑いださずにいられないけれど、それは笑いだした私が自分の無知をさらけだしているだけなのか、それがよくわからない。
 3行目の「暗没」。これ、何? 何と読むの? 私は「あんぼつ」と読む。暗く沈んでいく、というようなことをイメージする。でも、「あんぼつ」でいいのだろうか。私のつかっているワープロソフトでは「あんぼつ」は漢字変換されない。私のつかっている広辞苑にも漢語林にも「暗没」は載っていない。
 知らないことばが、音としてそこにあり、そしてその「音」は聞いただけではわからない。つまり、もしこの詩が朗読されたとき(そして、その詩をあらかじめ読んでいなかったとき)、「わがゆびわのせかいはアンボツする」と読む声を聞いたとき、私は「意味」を理解することができない。
 ところが。
 この詩を読んだとき、「暗没」という文字を眼で読んだとき、その「音」は軽々とどこかへ飛んで行き、「意味」はすーっと理解できる。(理解したつもりになる、というだけのことかもしれないが。)
 このときの、「音」の「軽々」とした印象が、私の「笑い」の原因である。音が軽い。音が意味を持っていない。音は単に耳を刺戟し、口蓋や、舌や、喉の感覚を、脳のなかで刺戟する。かろやかに肉体感覚をくすぐる。私の笑いは、そのくすぐりに対する生理的な反応である。体のあちこちをくすぐられると笑いださずにはいられないが、西脇のことばの音楽のくすぐりに、私はやっぱり笑いだしてしまうのだ。

 しかし、これは「暗没」ということばがきちんと(?)存在する場合には、私の無知ゆえの「笑い」になる。

 これに似た「笑い」が、この詩にはもう一度出てくる。

昼(ひる)が海へ出て
夜が陸へはひる時

 「出る」「入る」。これは誰もが知っていることばである。しかし、「昼」や「夜」ということばが、その動詞の「主語」になることはない。少なくとも、私は、そういうことばのつかいかたを知らない。
 私は私の知らないことばのつかいかたに出会ったとき、驚き、そして笑ってしまう。
 脳が、やはりくすぐられた感じがするのである。
 脳をひっくりかえす衝撃ではなく、くすぐるおかしさ。そういうものが、西脇のことばにはある。この「くすぐり効果」(?)も私には「音楽」として響く。
 「暗没」も「出る」「入る」も、「意味」はわかる。「意味」はわかるけれど、そんなつかいかたをしない--ということが、楽しい。

 この詩には、別の不思議さもある。「皿」の「麗(ウララカ)な忘却の朝」に似たおかしさである。

昼(ひる)が海へ出て
夜が陸へはひる時

 「昼」に「ひる」というルビはいるの? 昼を読めない人が西脇の詩を読む? なぜ、西脇は「ひる」とルビをふったのだろう。もしかすると「昼」を「ちゅう」と発音する意識があるからではないのか。
 ルビに反抗するように、「ちゅうがうみへでて」と読んでみる。「ちゅう」を「チュー」と読んでみる。「チューがうみへでて」。とってもおかしい。
 最後の1行にも同じおかしさがある。

五月の閉(とざ)された朝。

 なぜ、「閉」にルビ? もしかしたら「へいされたあさ」? いやいや、「ヘーされたあさ」? きっとそうなのだ。「チューが海へ出て」「五月のヘーされた朝」と西脇は意識の奥で読んでいる。だから、いかん、いかん、こんな日本語の読み方はない、と思って「ひる」「とざ(す)」というルビを打つのだ。

 でも、そうすると「五月」は何と読む? 「ごがつ」? それとも「さつき」? そして「朝」は?

 おかしい。西脇の詩は、どこまで読んでいけばいいのかわからない。おかしすぎる。



ボードレールと私 (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
文芸文庫

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金堀則夫『神出来』(2)

2009-06-23 00:08:27 | 詩集
金堀則夫『神出来』(2)(砂子屋書房、2009年07月05日発行)

 きのうの「日記」に書いた最後の部分。「地下下(じげげ)」の、

拂底(ぼって)の山から
拂底(ぼって)の谷から
山の高さと谷の深さを払う
その下ったところで
人は生き抜いてきた
古代の底
血が、肉が、骨が
眠っている

 と、

わたしのからだ
血も、肉も、骨も
地下とは繋がらない

 この矛盾は、あるいは「違い」と言った方がいいのかもしれていけれど、どこに原因(?)があるのか。
 「地下とは繋がらない」の「地下」は、前の引用の「古代の底」、つまり「古代の地層の下」と呼応すると同時に、別のものとも呼応している。
 同時「地下」は「地面の下」という意味だけではないのである。
 「地下は/地元というだけのこと」。一方、「地下下」は、「源氏一統の/屋敷跡として伝えられる/地下下に星田氏という武士がいた」。「地下」は地元、他方「地下下」は武士の屋敷のあと。「わたし」と「星田」の違いがある。

地下下に
屋敷跡はみられない
ただ車の行きかう道路に
わたしは突っ立っている
いつぶち当たるか
つぶされるか わからない
わたしのからだ
血も、肉も、骨も
地下とは繋がらない
掴む土さえ見つからず
お前は
ジゲの者か と 問われる
余所者を感じる
地下下と
関わることのできない
地下者になっている

 「わたし」は「古代」とつながることのできない人間に「なっている」。ここを出発点として、金堀は「古代」と繋がろうとする詩人になろうとする。それは単に「時間」として「古い時代」という意味ではない。「地下下」に「星田氏」がいたように、「古代の底」には、そこに暮らす複数の人間がいる。金堀は、そういう「人々」と繋がろうとする。
 「思想」とは基本的に「個人」(わたし)のものだが、金堀はそういう「思想」を目指していない。「わたし」の思想を目指していない。いうなれば「わたしたち」の思想を目指している。
 「地下下」で指摘した矛盾(対立)、「古代の底/血が、肉が、骨が/眠っている」と「わたしのからだ/血も、肉も、骨も/地下とは繋がらない」は、ある意味では当然のことなのだ。前者は「わたしたち」であり、後者は「わたし」である。「わたしたち」と「わたし」は同一ではない。「わたしたち」から離れてしまえば「わたし」は孤立した存在であり、孤立した存在としての人間は、抽象でしかない。何とも繋がりようがない。「わたし」は人との繋がりの中で「わたしたち」になる。そして、そのとき生きていく「場」が具体的な「土地」そのものとなる。
 これは、逆に見ていけば、「土地」を手がかりに、「わたしたち」でありえた何者かに出会えるということである。金堀が取り組んでいるのは、そういうことなのだ。「土地」に残されている「名前」、「名前」にこめられている「祈り」を探り当て、それをことばにする--そうすることで金堀は「わたし」から「わたしたち」に「なる」。そのとき、「土地」は、そして「土地の名前」は、「わたし」と「わたしたち」をつなぐ「契り」である。その「契り」を、ことばとして確立するとき、「契り」のなかにこめられた「祈り」が金堀のなかで生き生きと動き、「天」と「地」をつなぐ「詩人」が誕生するのだ。
 金堀は「天」と「地」のあいだで、「契り」として、「祈り」として--そういうものをつかみ取る詩人として、いま生まれ変わろうとことばを探し求めている。

 それは「わたし」として生きるということではなく、「土地」とともに生きている「わたしたち」として生まれ変わることでもある。



石の宴―金堀則夫詩集 (1979年)
金堀 則夫
交野詩話会

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする