詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(7) 

2009-06-22 09:07:11 | 誰も書かなかった西脇順三郎



黄色い菫が咲く頃の昔、
海豚は天にも海にも頭をもたげ、
尖つた船に花が飾られ
ディオニソスは夢みつつ航海する
模様のある皿の中で顔を洗つて
宝石商人と一緒に地中海を渡つた
その少年の名は忘れられた。
麗(ウララカ)な忘却の朝。

 「黄色い菫が咲く頃の昔、」という1行目の「昔」の位置に意識がひっかかれる。こういう「ひっかき」は「喉・耳」の「音」ではなく、「頭脳」の「音」である。西脇には、こういう音楽もある。2行目の「天にも海にも頭をもたげ、」もすこしこれに似ている。海から頭を出すとき、それはたしかに「天に」頭をもたげることになる。けれど、「海に」はどういうこと? 潜水することを「頭をもたげる」とは言わない。言わないのだけれど、その前に「天に」とあるので、そのことばにひきずられて意識が「日本語」から逸脱する。
 西脇には、「日本語」から逸脱する音楽がある。--ということと、うまくむすびついてくれるのかどうかわからないが、タイトルの「皿」が出てくる5行目から。そこから「意味」ではなく「音」のおもしろさがはじまる。
 「もよう」「ほうせきしょうにん」「ちちゅうかい」「しょうねん」。「う」。これを西脇はどう発音するのだろうか。ひとは、どう発音するのだろうか。「う」とは発音せず、前の音をのばす。別の表記で書けば「ー」(音引き)である。そして、これは「ひらがな」よりも「カタカナ」がにつかわしい。「モヨー」「ホーセキショーニン」「チチューカイ」「ショーネン」。
 なんだか、外国語みたいだ。外国語みたいに、耳に新鮮だ。
 その外国語みたい--という印象が「麗な」に振られた「カタカナ」のルビのなかに結びつき、輝く。ひらがなで「うららか」ではなく、「カタカナ」で「ウララカ」と発音する。(もちろん、これは、意識において、という意味である。発音そのものはかわらない。)
 そうすると「忘却」も「ボーキャク」になる。

 西脇の頭の中には、日本語から「逸脱」した「カタカナ」の音が響いていたのだと思う。そして、それが、私にはとても美しく聞こえる。「日本語」の意識を振り払った、ただの「音」、「意味」を背負い込む前の「音」、音楽の手段としての「音」に聞こえる。
 (音楽家からは、「音」は「音楽」の「手段」ではない、という反論が聞こえてきそうだけれど。でも、とりえあず「手段」ということばをつかっておこう。)


ボードレールと私 (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
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金堀則夫『神出来』

2009-06-22 02:28:17 | 詩集
金堀則夫『神出来』(砂子屋書房、2009年07月05日発行)

 金堀則夫『神出来』は「星鉄」という魅力的な詩ではじまる。

浮いている
鉄の重みもなく
妙見岩は
浮いたまま 空にも昇れず
地にも沈めず 浮いている
空から 冷却して降った
石は 地を鎮め
天と地の契りで
村ができている

 「岩」が「浮いている」ということは物理的にはありえない。けれども「意識」においてはありえる。「天」にも「地」にも属していない--と考えるとき、それは「浮いている」。そして、そこに「浮く」ことが「天と地の契り」であるというとき、「天」にも「地」にも属さないと「意識」する人間の想像力と「契り」が重なり合う。「妙見岩」は「天」と「地」の「契り」の象徴である。象徴であるということは、その「契り」が人間の想像力によって構築されたものであることを意味する。

村ができている

 それは、そういう「神話」(想像力の産物)を生きる人が「ひとり」ではなく、複数であり、そこに「人間の生活」があるということだ。人間は同じ想像力をもった人間があつまり、「村」をつくるのだ。複数の人間の精神の象徴としての「物語」の構造が「神話」なのだから。

浮いている
浮いている石を
お前は どこから見ている
その位置を探ってみろ

 これは「契り」という「神話」を「神話」のままにしておくのではなく、「いま」「ここ」に引き寄せて、そこから自分を見つめなおしてみろ、ということだろう。神話を作り上げる視点--それに自分自身がどんなふうに関係しているのか、どんなふうにして関係していくことができるのか。

 「契り」ということばは「鐘鋳谷(かねいだん)」という詩にも出てくる。

北斗七星
柄杓(ひしゃく)の形は 人の恨みをおおぐまに
北極星は こぐまを象り
思い込みは解けないで
そのまま永遠に貼り付けられている
空の向こうに
どんな契りがあるかわからない

 「契り」は天と地の約束。そして、それを読みとるのは人間。
 「天」のなかには「地」があり、「地」のなかには「天」がある。「地」にあるものはすべて「天」から降ってきたものであり、「地」のおくに潜んでいる貴重な金属は、夜空の「星」そのものなのである。それは人を導く光である。その光なしには、何もできない。金属は、その金属のなかに不思議な「可能性」という「天空」を持っている。その「可能性」は「神話」のように、人間を鍛える。つまり、金属をあつかう人間を鍛える。金属を掘りあてることで、人間の可能性はひろがる。金属の使い道を考えることで人間の可能性はひろがる。そのひろがりは、宇宙=天につながる。
 金堀の想像力は「天」と「地」を「契り」を中心にして、同じ構造のなかに取り込んでしまう。現代なら、宇宙科学と素粒子の関係を、金堀は「天」と「地」、そして、地のなかの鉱物、金属との関係で見ていることになる。

 だが、これは、抽象的な感想(いま、私が書いているような感想)でなら、そして、その感想の延長線上でなら、わりと簡単に、ことばの運動として再現できるかもしれない。けれど、ものごと(?)はそんな簡単にはいかない。
 「契り」が予兆のように見えたとしても、実際は、それは「手触り」がない。

鐘鋳谷を
探れないまま
登る階段は
空とは繋がっていなかった

 現実は「天」と「地」のあいだに「契り」がない。「階段」がない。しかし、だからこそ、ひとは、金堀は「階段」を探すしかないのである。
 ないもの、ありえないものを探す--というのは矛盾だが、だからこそ、そのないものを探すということが金堀の思想になる。想像力によって、「天」と「地」の「契り」を復活させること、それを「ことば」で描き出すことが金堀の思想になる。
 土地に残る「地名」「姓」を手がかりに、かつて、ここに住んだ人々の「思想」を復元し、なまなましいいのちとしてもう一度呼び戻すことが、金堀の思想になる。
 たとえば、「登龍之瀧」。

死んじゃ いないぞ
ここじゃ あそこじゃ
じゃは 脱皮しながら
生きている
水源を涸らした
大きな胴体が
瀧からのぼる
空への道が
ここにある

 そこには蛇から龍への脱皮(飛躍)と天への道という夢がある。

 また、「地下下(じげげ)」では、夢と(神話と)現実が激しく拮抗し、「思想」に再考をせまる。矛盾の中でのたうちまわる金堀を正確に描いている。

拂底(ぼって)の山から
拂底(ぼって)の谷から
山の高さと谷の深さを払う
その下ったところで
人は生き抜いてきた
古代の底
血が、肉が、骨が
眠っている

 と、書く一方で、

わたしのからだ
血も、肉も、骨も
地下とは繋がらない

 という現実にぶつかる。そして、その矛盾の中で、ことばが格闘する。
 ここには「思想」として完成する前の「思想」、「思想の可能性」というものが「原石」のまま存在している。その「地層」はどこまでも深く、どこまでも広い。その深さと広さで、「宇宙」になるとき、それは「思想」として完成する。




ひ・ひの鉢かづき姫―女子少年院哀歌
金堀 則夫
彼方社

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