詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

白野小由利『鼓動をきいて』

2009-12-03 00:00:00 | 詩集
白野小由利『鼓動をきいて』(砂子屋書房、2009年11月18日発行)
 
 白野小由利は独特の文体を持っている。意識しているのかしていないのか、ちょっとわからないが、たぶん無意識だろうと思う。無意識であるからこそ、私はその文体を「肉体」と呼び、「思想」と呼ぶ。そこには白野独自の「思想」がある。ことばにしにくいけれど、ことばを動かす基本的な「きまり」のようなものがある。
 「桜の樹のしたで」という作品の書き出し。

寒冷前線さり
大気ゆるんだ夜は
穴掘りましょう
ねぼけ眼のショベルゆすぶって
ざっくざっく掘りましょう
背中熱くなり
のばした腰が雲かくしても
小首かしげた月ちかよってきても
せっせせっせ掘りましょう
どこまでもどこまでも掘りましょう

 リズムが独特である。そして、そのリズムは「助詞」を省略していることから生まれている。助詞を補うと……。

寒冷前線(が)さり
大気(が)ゆるんだ夜は
穴(を)掘りましょう
ねぼけ眼のショベル(を)ゆすぶって
ざっくざっく掘りましょう
背中(が)熱くなり
のばした腰が雲(を)かくしても
小首かしげた月(が)ちかよってきても
せっせせっせ掘りましょう
どこまでもどこまでも掘りましょう

 この「が」と「を」省略は、「主語」と「補語」をあいまいにする。「主語」には「私以外」のものもあるのだが、その「私以外の主語」はほんとうに「私以外」と意識されているのか。また、補語というのはたいてい「私以外」のものだが、その補語も白野にはきちんと「私以外」と認識されているのか。
 私には、白野が「私」と「私以外」を明確に区別している、その区別を常に認識しているとは感じられない。
 「私」が「私以外」の何かを見て、それを「主語」としてことばを動かすとき、その「私以外」のものは、ことばを動かす瞬間に「私」と一体になってしまう。

寒気前線さり

 という一行を書いたとき、単に寒気前線が去ったという状況が説明されているのではなく、「私」がそういう状況にいるということが「肉体」として把握されているのである。気象の変化ではなく、気象の変化のなかにいる「私」が気象の変化をのみこんで、そのことばのなかにいるのである。

寒冷前線さり
大気ゆるんだ夜は
穴掘りましょう

という3行で省略されているのは、「が」「を」という助詞だけではない。2行目と3行目のあいだには、「もう寒くはないから、薄着でも大丈夫。体を動かしやすい服でも大丈夫。身軽に動けるから、穴を掘るという仕事もできる。」が省略されている。だから、さえ、穴を掘りましょう--と白野はいうのである。

 「穴掘りましょう」もよくよく読めば、単に「穴(を)掘りましょう」というわけではない。「土に」という場所が省略されている。あとに出てくることだが、それは「桜の樹のした」の「土に」穴を掘りましょう、ということであり、その「桜の樹のした」という場所は、白野に無関係な桜ではありえない。庭の桜の樹か、いつも花見をする桜の樹かわからないが、白野にはなじみのある桜である。桜といえば、白野にはその桜しかない--英語でいえば不定冠詞「a 」ではなく定冠詞「the 」がついた桜である。

 すべてが定冠詞つきの世界なのである。
 「寒冷前線」にも「大気」にも、書かれてはいないが定冠詞「the 」がついている。それは白野にとってはっきりと「白野の世界に属する」寒冷前線であり、大気なのだ。白野に属しているもの、白野の「肉体」の一部になっているものであるからこそ、「が」や「を」をつかって、それが「私以外」のものにしてしまうことはできないのだ。「私以外」のものではあるけれど、「私」そのものとして書きたいのだ。

 「定冠詞」の省略は、2連目を読むとさらにはっきりする。

つめたいスープ
やせた肘
ぬけたセーター
つつんだ吐息
あふれる吸殻
煙の決断
のみこめない小骨
未投函のへんじ
どんどんどんどん投げ入れましょう

 羅列された「名詞」。それは単なる存在ではない。白野の「肉体」(体温)にしっかりからみついた存在である。そこには具体的な説明が省略されているけれど、それは白野にとってわかりきった説明だからである。たとえば「のみこめない小骨」というのは魚の小骨なんかではなく、男の(あるいは他人との)やりとりのなかで感じた「のど」(肉体)の違和感そのものであり、それは説明すればどれだけことばがあっても足りないくらいのものだが、定冠詞「the 」をつければ、白野がこれまでに経験してきたことがらという一語に置き換えられるものである。
 ここに書かれている「名詞」は複数あるが、どももこれも実は定冠詞「the 」を言い換えたものにすぎない。そして、それはすべて「私以外」の「名詞」の形をとっているが、ほんとうは「私」そのものなのである。定冠詞「the 」は「私の」(my)という所有格の言い換えでもあるのだ。同格なのだ。

 だから。
 「穴」を「掘る」のは「桜の樹のした」だけれど、その「穴」は実は「私」自身のなかに掘るものなのだ。「場」は「私の肉体」、言い換えると「私」の「思い」そのものに、「穴」を掘るのだ。
 実際に桜の樹のしたに穴を掘って、そこにいろいろなものを放り込んだとしても、それは白野によって、こうやってことばにされることで、白野の「こころ」そのもののなかに刻まれる。そして、それが「肉体」になる。
 体験したこと、そのときのすべてを「肉体」にしてしまうために、白野はことばを書く。そうやって書かれた一冊である。

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