詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

日原正彦「一枚で」

2009-12-27 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
日原正彦「一枚で」(「橄欖」86、2009年11月10日発行)

 日原正彦の詩について「気持ちが悪い」と書いたことがある。日原から抗議を受けたが、やはり気持ちが悪い。「一枚で」は秋の美しい風景を描いている。

遠い午後の静かな庭に
散らばった枯葉たちが 掃かれている
かさこそと
おたがいに何かささやきあうような音をたてて
掃かれている

明るくあるいは暗く黄金色に燃えた あの
騒々しい日々は終わった

いまはみなやさしく捨てられることの
やがてはひとつぶの土にかえることの
甘受のてのひらのうえ だが

見よ
かたすみに 一枚だけ
掃き忘れられた枯葉が息をひそめている

日は傾く
一枚の枯葉は黙って影を曳いている
影は湿っても乾いてもいない

ただ一枚で暮れてゆく
ただ一枚で暮れてゆくこの枯葉を
愛してやれ

 なぜ美しいのに「気持ちが悪い」のか。その美しさが「予定調和」であって、そこに破綻がないからだ。矛盾がないからだ。
 1行目。「遅い午後の静かな庭に」の「静かな」が作り上げてしまう情感。これが「気持ちが悪い」。ほんとうに静かなのだろうけれど、それを先回りして「静かな」ということばで「世界」を塗り込めていく。「静かな」にあわせて、ことばが選ばれてゆく。「かさこそ」「ささやきあう」。矛盾がなく、ほんとうに「正しい」日本語である。
 「正しくて、何が悪い」と言われそうだが、何も悪くない。そして、何も悪くない、というところが、絶対的に悪い。詩は正しくてもかまわないけれど、正しくない方が、元気でかっこうがいい。正しいのは、行儀がよくて「気持ちが悪い」。
 あ、そうだ。日原の詩は「行儀がいい」と評価すれば、きっと日原の満足する批評になるのだな……。
 でも、私は詩人を満足させるために感想を書いているのではない。自分の思ったことを書きたいから書いている。だから、やっぱり「気持ちが悪い」と書いておく。

 枯葉は掃き集められ、「やさしく捨てられ」「ひとつぶの土にかえる」という「運命」を「甘受」している。誰も(?)、それに対してあらがわない。
 ように見えて、実は、一枚。
 あ、この、いわゆる「起承転結」の「転」の運び方。

見よ
かたすみに 一枚だけ
掃き忘れられた枯葉が息をひそめている

 ほんとうに教科書そのもののように「正しい」。そして、その「正しい」転のなかに、きちんと「起承」の基本的な雰囲気「静かな→かたすみ、一枚」、「ささやきあう→息をひそめている」が呼応する。
 すごいなあ。
 詩はこう書くべき、という教科書そのもの。
 でも、そこが気持ちが悪い。「窓際のとっとちゃん」のように、授業中によそみをせずにはいられない私のような人間には、この行儀のよさが、とてもむずがゆい。

 そのあとも、ことばの運動は予定通り。最初の「午後」からはじまった時間は、「日は傾く」、「静かな、ささやきあうような→黙って」、「黄金色に燃えた(明るい)→影(くらい)→暮れ」。
 そして、とどめをさすように「愛してやれ」。その一枚こそ、やさしく捨てられ、一粒の土にひとりで帰っていく運命を甘受している「私」自身、(あるいは、「あなた」自身)、その存在に気がつくのは、精細なこころをもった「私(であり、あなた)」しかいない。だから、「愛してやれ」。

 いま、「現代詩」ではなかなか読むことのできない作品である。そういう意味で貴重だし、ファンも多いだろうと思う。
 あ、でも、気持ちが悪いなあ。


詩小説 かほこ
日原 正彦
ふらんす堂

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