詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松尾静明『パルナスの岸辺で』

2009-12-04 00:00:00 | 詩集
松尾静明『パルナスの岸辺で』(三宝社、2009年12月01日発行)

 存在には二面性がある。あるいは、相対的であると言えばいいだろうか。一方的な存在はない。作用があれば反作用がある、というようなことを中心に、松尾静明は世界をとらえている。
 「序」という作品。

地球は太古から回っている

蛇と蛙が しばらく目を合わせている

蛇の目が かなしみのように持ち上がる
蛙の目が あわれみのようにゆるむ

蛇は かなしみのように呑み込む
蛙は あわれみのように呑み込まれる

時間があって

地球は
ついに 回っている
だうだうとした寒気が 緯度を下がっていく

 蛇と蛙。食うものと食われるもの。かなしみとあわれみ。これは、かなり「図式的」な作品である。こうした「図式的」なことばの運動だけでは、詩にはならない。しかし、この作品は、その「図式」を破っている。

時間があって

 この1行が、この作品の「いのち」である。蛇と蛙--その関係。食い、食われるという関係を、「時間」でつつみこんでしまう。
 あらゆることが「時間」のなかで起きる。「時間」のなかで、かなしみもあわれみも、姿を現し、そして消えていく。
 この作品は「序」なので、その「時間」については、単に提示にとどまっているが、提示にとどまっているとはいえ、それを提示しなくてはならないほど、松尾には重要な問題なのである。
 「時間」は「夏の終わりに」では、「意味」ではなく「肉体」として書かれている。

野鼠の小さな目に
夏の終わりの陽が落ちている

野鼠 という理由だけで囲まれて叩かれて
叩かれた理由の分からない頭は 地面へ毀(こわ)れている

まだ 生きている
まだ 野鼠という性(さが)を耐えているのだ

ほてった想いを持て余した時もあったが
光って 世間をくねった時もあったが

いまは
記憶も経験も智慧も
老人のように向こうへ押しやられていく
すでに すべてのものが
ついにやってくるものの中へ ゆるんでいこうとしている

もう少しだ! 男の声
囲んで叩く者たちの中で
人間という性(さが)に耐えて叫んでいる男の

夏の終わりの陽が
野鼠の小さな目の中で閉じられる
                    (谷内注・原文の「鼠」は簡略字体)

 「時」ということばが出てくるが、私が注目している「時間」は、その「時」とは関係がない。
 「まだ」ということばだ。「まだ」という具合に「肉体化」された「時間」だ。「まだ」を計っているのは「時計」ではない。「肉体」のなかにある「いのち」である。
 「まだ」と対をなしているのは「もう少しだ!」の「もう」である。
 「まだ」も「もう」も、だれもがつかうことばである。そんなだれもがつかうことばに「哲学」はない、「思想」はない--と人は考えるかもしれない。「哲学」「思想」は「現代思想辞典」に載っているような「キイワード」のなかにある、と「教科書」には書いてあるかもしれない。(参考書には書いてあるかもしれない。)けれど、私は、そういう「辞書」にのっている「思想」「哲学」よりも、そこからこぼれていることばの方に、強く「思想」を感じる。「哲学」を感じる。
 「まだ」と「もう」が人間の「肉体」のなかに「時間」をつくる。だれでもが「まだ」だろうか、と感じ、また「もう」なのか、と感じたことがある。「まだ」と「もう」のあいだで、ことばになりきれない思いが動き回る。何度も何度も「まだ」と「もう」を繰り返すのに、そのあいだにある考えは「まだ」と「もう」以外のことばをみつけられない。そういうかなしみのなかに「思想」がある。
 この詩では、その「まだ」と「もう」のあいだで、ことばが、とんでもない方向へ動く。

もう少しだ!

 「もう少し」って、何が? 野鼠が死ぬまでに「もう少し」というのだ。それは「時間」だろうか。たしかに「時間」である。何分か、何秒か。「もう少し」というくらいだから、何時間ではない。けれど、その「もう少し」ということばを発したとき、人は、時計など見ているだろうか。見ていない。「もう少し」は「時間」だけれど、「時間」ではないのだ。
 「まだ」も「時間」の経過をあらわすことばだが、そこで測られているのは「時間」ではない。何秒、何分、何時間ではない。
 そういう「時間」がある。
 「序」に書かれていた「時間があって」の「時間」は、そして、その時計では測れない「時間」のことである。

 「夏の終わりに」では、男たちは野鼠を叩き殺そうとしている。そして、叩きながら、叩かれるもの、叩かずにはいられないもののあいだで動く「こころ」をみている。「こころ」の動きこそが「時間」なのだ。野鼠がなぜ叩かれるのかわからないように、男たちにもなぜ野鼠をたたくのかわからない。たたくこと、いのちを奪うことで、何かを懸命に救おうとしている。それは非情なことかもしれないが、そういうものがあるのだ。「性(さが)」ということばを松尾はつかっているが、その「性」のなかに「時間」がある。時計では測れない「時間」がある。
 
 松尾は「時間」のなかにある「性」を、なんとか明るみに出したい、ことばにしたいと思い、詩を書いている。
 そして、その「性」を一方的にではなく、常に、その「性」と向き合うもののなかで動かす。動かずにはいられない(いま、ここから出て行かずにはいられない)人間のかなしみが、そのとき、そのことばからあふれてくる。「私」のかなしみを伝えようとして、しらず、他者(相手)のかなしみにも触れてしまう。触れずにはいられない。そして、触れてしまうと、「私」のかなしみそのものも、かわってしまう。
 そういう「愛」のような「時間」。「愛」の「肉体」。それが、蛇と蛙にも、野鼠と男のあいだにもある。食べること、殺すことが「愛」かといわれると困るけれど、そこに「愛」という時間を、ことばでつけくわえることで、こころは生きていくものなのかもしれない。



松尾静明詩集 (日本詩人叢書 (97))
松尾 静明
近文社

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