大石陽次『ちゅうちゅうまんげのぼうめいて』(青灯社、2009年12月10日)
大石陽次『ちゅうちゅうまんげのぼうめいて』は方言で書かれている。「あとがき」によれば八女(福岡県)の方言らしい。私は九州の生まれではないので、九州弁には詳しくないが、そういう人間にもむりなく読める範囲で九州弁が使われている。九州弁を「標準語」の文体のなかに、「語尾」として取り込む形で使われている。大石という詩人の作品を読むのははじめてで(たぶん)、大石のことも何も知らないのだが、たぶん「標準語」の「読書」量が、九州弁の「会話」量より多いのだろう。「話しことば」ではなく「書きことば」の詩人なのだろう。
見かけは「標準語」だけれど、文体が「九州弁」という詩人が九州には多いけれど、大石はそういう詩人とは違って、見かけは「九州弁(八女ことば)」だけれど、文体は「標準語」ということになる。
「八女ことば」と「標準語」がぶつかる。というのは、「八女の暮らし」と「標準語」のもと(?)になっている「社会」がぶつかるということである。足が地についた暮らしと、「流通」のために整理整頓された暮らしがぶつかるということである。ふたつがぶつかったとき、「標準語」の「流通」する暮らしが整理整頓のために「切り捨ててきた暮らし」が、死ぬ間際の最後の声のように「生の声」を発する。それは、そういう「ことば」のなかで生きてきた「いのち」そのものである。
「焼かれた丑蔵じいさん」は82歳で死んだ「丑蔵じいさん」にまつわる話である。死の間際、火葬はいやだ、土葬にしてくれ、と言う。困った。じいさんは体が大きい。その遺体を墓まで運ぶのはたいへん。土を掘るのもたいへん。
そこで、
「さあて、じいさん、熱かろうばって焼きますばい、」がとても美しい。遺言を聞かず、土葬にせず、火葬にする。そこには生き残った人間の側の「わがまま」があるのだけれど、その「わがまま」を生き残った人間は知っている。そして、その「わがまま」をわびて、それをとおす。この「わびる」という行為--それを、しっかりとことばにするということ、そこに、「いのち」が見える。「同じことば」を話してきた人間に対する「ことば」の語りかけ。そのなかに「ことば」がつちかってきた「いのち」がある。
死んでしまった人間に熱いの感覚があるかどうかわからない。けれど、生きていれば「熱い」。ことばは、その「生きている」人間とつながっている。じいさんは死んでしまったが、「ことば」を語りかけるとき、じいさんはいつでも「生きている」。「ことば」は「生きている」ひと、「生きている」いのちへとつながるのである。ことばには「いのち」があり、それが死んでしまったひとを「生きている」状態へと引き戻す。
技巧として、社交辞令(?)として「さあて、じいさん、熱かろうばって焼きますばい、」というのではない。いつもの「暮らし」のつづきとして、そのことばがある。
「ことば」があるのではなく、そこには「暮らし」がある、と言い換えた方がいいかもしれない。暮らしのなかの「いのち」。かわらないもの。それは、あたたかくて、また、こっけいで、ちょっとばかり、だらしがない(?)ものも含んでいる。--というのは、先走りした感想だけれど、「さあて、じいさん、熱かろうばって焼きますばい、」というあたたかいことばは、「暮らし」のなかで、どんなふうに落ち着くか。
最終連。
死者にねんごろなことばをかける。生きているひとに話しかけるように、死者と生きているひとを区別しない。けれどもそれは、誰かが死んだからといって、生きている自分たちの暮らしを死者のために犠牲にするということとは違う。死んでも生きていると同じように、ねんごろにことばをかけるということは、実は、じいさんは死んではいないのだから、暮らしが変わらないということでもある。いつもと同じように(あるいは、それ以上に)、男たちは時間潰しに(?)酒を飲む。そして二日酔いになる。この「いのち」のたくましさ。
あ、これはたしかに方言でないと伝えることのできない「いのち」の形だと思う。
あ、うまく言えない。
書き直そう。
「ことば」のなかには「暮らし」がある。「思想」がある。ことばを、その国民の到達した思想の頂点であるというようなことを三木清は言った。それは何も有名な政治家や思想家のことばにかぎらない。むしろ、暮らしに深く根付いていることば、暮らしのなかで日々語られることばのなかにこそ、思想があり、そしてそれは美しい。いつでも人間の思想の最高到達点を指し示している。
「さあて、じいさん、熱かろうばって焼きますばい、」
この1行のなかにも、死者に対しても、生きているときと同じようにねんごろに声をかける、という美しい思想がある。土葬はむずかしいので火葬にしてしまうという行為のなかに死者に対する裏切り(?)があるかもしれていけれど、その死者に対して「いきていることば」をかけることで、それをつぐなっている。自分のやっていることを「焼きますばい」と語ることで、明確に自覚する。行為をことばで自覚しなおす。そこから、しずかに「申し訳ない」という気持ちが立ち上がってくる。「申し訳ない」ということばはないけれど、それ以上に、「申し訳ない」という気持ちがつたわってくる。「申し訳ない」と言ってしまえば、そしてそれを行為に反映させようとすれば、火葬はできない。火葬寸前でとどまらざるを得ない。
そういう矛盾に陥らずにというか、そういう矛盾を乗り越えたところに「さあて、じいさん、熱かろうばって焼きますばい、」ということばがある。
私は、いつでも「矛盾のなかに思想がある」と書くが、それは矛盾を乗り越えて思想が生まれる--ということと同じ意味である。じいさんが火葬はいや、土葬にしてくれと言った。それを守らないのは失礼である。しかし、土葬はできない。火葬しなければならない。だから申し訳ないと思いながら火を付ける--この矛盾。その矛盾を超えたところに、「さあて、じいさん、熱かろうばって焼きますばい、」ということばがある。
矛盾を乗り越えて、思想が美しく共有される。だからこそ、それは酒を飲む、飲みすぎたら二日酔いをするという暮らしのなかに、まるで「思想」という面倒くさいものがないかのように溶け込んでいくのである。
暮らしのなかのことば。それは、暮らしのなかで、静かに行動をしばる。「さあて、じいさん、熱かろうばって焼きますばい、」も、ひとに対して、その人が望んでいないことをする場合は、きちんと何をするかを説明する。自分がしていることをことばにして確認すれば、遺体を火葬するときだって、その行為がていねいになる。ことばには、人間の行動を律する力がある。そういうことばの力を、「方言」はしっかり守っている。
「流通する言語」ではなく、日々の暮らしのなかのことば。暮らしに根付いたことば。その人間を律することばの美しさは暮らしそのものの美しさにもつながる。
「村から消えた光男しゃん」は「夜逃げ」をした一家のことを書いている。その最後の2連。
「昔からのきまり」がそれぞれの土地にある。そしてそれは「ことば」としてきちんと伝えられていく。「書きことば」ではなく「話しことば」として。
「話しことば」の「思想」。その特徴は何か。この作品は、それをとてもはっきりと語っている。
この行の「じかに」。それが「話しことば」の思想である。ことばはいろいろな方法で伝えることができる。大切なのは「じかに」聞くことである。「じかに」聞くとき、ひとは話している相手を間近に見ることができる。そうすると間接的に聞いたときとは違った「情報」を吸収できる。そして、その「ことば」以外のものも判断材料にして、その「ことば」の「意味」を理解することができる。そういう「ことば以外のもの」を含みながら語り継がれるのが「方言」なのである。
「標準語」(流通言語)は、そういう「ことば以外のもの」を省略することで、人の暮らしの「場」を超えて広がっていく。
それでいいのか--という問いかけが、この詩集には含まれている。
「往還の郵便局員」は戦争から帰還した男のことを描いている。勤勉な郵便局員が戦争で白兵戦を体験した。無事に帰って来たけれど、ひとこともしゃべらなくなった。そして、昔のまま、自転車で自宅と郵便局を往復する。同じ一着制服、制帽。ほこりだらけ。泥だらけ。その男の描写。
「からくり」は男の動きを描写しているのだが、なぜか、このことばに触れた瞬間、男が「からくり」で歩いているのではなく、「流通社会」(男の生きている村?以外の場、「標準語」が話されている社会)が、その全体が「からくり」で動いているのではないか、と思えてくる。
「いのち」があり、自分の行為を「自分のことば」で常に確認しながら生きている人間には人を殺す戦争はできない。死者にさえ「さあて、じいさん、熱かろうばって焼きますばい、」と説明して自分の行動を律する人間には、生きている人間を、ことばもなく、ただ殺してしまう、殺し合うというようなことは絶対にできない。そんなことができるのは「いのち」のない人間、からくりで動く人間である。
郵便局員が「からくり人形」になったとしたら、それは彼の触れた世界の「からくり」が郵便局員をのっとってしまったからだ。
ここには強烈な「流通言語」の社会に対する批判がある。こういう批判を明確にするためには、「方言」は書かれつづけなければならない。語られつづけなければならない。
大石陽次『ちゅうちゅうまんげのぼうめいて』は方言で書かれている。「あとがき」によれば八女(福岡県)の方言らしい。私は九州の生まれではないので、九州弁には詳しくないが、そういう人間にもむりなく読める範囲で九州弁が使われている。九州弁を「標準語」の文体のなかに、「語尾」として取り込む形で使われている。大石という詩人の作品を読むのははじめてで(たぶん)、大石のことも何も知らないのだが、たぶん「標準語」の「読書」量が、九州弁の「会話」量より多いのだろう。「話しことば」ではなく「書きことば」の詩人なのだろう。
見かけは「標準語」だけれど、文体が「九州弁」という詩人が九州には多いけれど、大石はそういう詩人とは違って、見かけは「九州弁(八女ことば)」だけれど、文体は「標準語」ということになる。
「八女ことば」と「標準語」がぶつかる。というのは、「八女の暮らし」と「標準語」のもと(?)になっている「社会」がぶつかるということである。足が地についた暮らしと、「流通」のために整理整頓された暮らしがぶつかるということである。ふたつがぶつかったとき、「標準語」の「流通」する暮らしが整理整頓のために「切り捨ててきた暮らし」が、死ぬ間際の最後の声のように「生の声」を発する。それは、そういう「ことば」のなかで生きてきた「いのち」そのものである。
「焼かれた丑蔵じいさん」は82歳で死んだ「丑蔵じいさん」にまつわる話である。死の間際、火葬はいやだ、土葬にしてくれ、と言う。困った。じいさんは体が大きい。その遺体を墓まで運ぶのはたいへん。土を掘るのもたいへん。
そこで、
こりゃかなわんばい、ちゅうて、
寄り合いも開き、長男の勝造の了解もとり、
舟木の手前の焼場まで骸ば運ばした。
さあて、じいさん、熱かろうばって焼きますばい、
ち、窯に棺桶ば押し入れて火ば付けらした。
「さあて、じいさん、熱かろうばって焼きますばい、」がとても美しい。遺言を聞かず、土葬にせず、火葬にする。そこには生き残った人間の側の「わがまま」があるのだけれど、その「わがまま」を生き残った人間は知っている。そして、その「わがまま」をわびて、それをとおす。この「わびる」という行為--それを、しっかりとことばにするということ、そこに、「いのち」が見える。「同じことば」を話してきた人間に対する「ことば」の語りかけ。そのなかに「ことば」がつちかってきた「いのち」がある。
死んでしまった人間に熱いの感覚があるかどうかわからない。けれど、生きていれば「熱い」。ことばは、その「生きている」人間とつながっている。じいさんは死んでしまったが、「ことば」を語りかけるとき、じいさんはいつでも「生きている」。「ことば」は「生きている」ひと、「生きている」いのちへとつながるのである。ことばには「いのち」があり、それが死んでしまったひとを「生きている」状態へと引き戻す。
技巧として、社交辞令(?)として「さあて、じいさん、熱かろうばって焼きますばい、」というのではない。いつもの「暮らし」のつづきとして、そのことばがある。
「ことば」があるのではなく、そこには「暮らし」がある、と言い換えた方がいいかもしれない。暮らしのなかの「いのち」。かわらないもの。それは、あたたかくて、また、こっけいで、ちょっとばかり、だらしがない(?)ものも含んでいる。--というのは、先走りした感想だけれど、「さあて、じいさん、熱かろうばって焼きますばい、」というあたたかいことばは、「暮らし」のなかで、どんなふうに落ち着くか。
最終連。
お骨になるまで人の倍の時間のかかったけん、
男たちは清めの酒ば飲みすぎて、
あくる日は二日酔いで頭ば抱えとらしたたい。
死者にねんごろなことばをかける。生きているひとに話しかけるように、死者と生きているひとを区別しない。けれどもそれは、誰かが死んだからといって、生きている自分たちの暮らしを死者のために犠牲にするということとは違う。死んでも生きていると同じように、ねんごろにことばをかけるということは、実は、じいさんは死んではいないのだから、暮らしが変わらないということでもある。いつもと同じように(あるいは、それ以上に)、男たちは時間潰しに(?)酒を飲む。そして二日酔いになる。この「いのち」のたくましさ。
あ、これはたしかに方言でないと伝えることのできない「いのち」の形だと思う。
あ、うまく言えない。
書き直そう。
「ことば」のなかには「暮らし」がある。「思想」がある。ことばを、その国民の到達した思想の頂点であるというようなことを三木清は言った。それは何も有名な政治家や思想家のことばにかぎらない。むしろ、暮らしに深く根付いていることば、暮らしのなかで日々語られることばのなかにこそ、思想があり、そしてそれは美しい。いつでも人間の思想の最高到達点を指し示している。
「さあて、じいさん、熱かろうばって焼きますばい、」
この1行のなかにも、死者に対しても、生きているときと同じようにねんごろに声をかける、という美しい思想がある。土葬はむずかしいので火葬にしてしまうという行為のなかに死者に対する裏切り(?)があるかもしれていけれど、その死者に対して「いきていることば」をかけることで、それをつぐなっている。自分のやっていることを「焼きますばい」と語ることで、明確に自覚する。行為をことばで自覚しなおす。そこから、しずかに「申し訳ない」という気持ちが立ち上がってくる。「申し訳ない」ということばはないけれど、それ以上に、「申し訳ない」という気持ちがつたわってくる。「申し訳ない」と言ってしまえば、そしてそれを行為に反映させようとすれば、火葬はできない。火葬寸前でとどまらざるを得ない。
そういう矛盾に陥らずにというか、そういう矛盾を乗り越えたところに「さあて、じいさん、熱かろうばって焼きますばい、」ということばがある。
私は、いつでも「矛盾のなかに思想がある」と書くが、それは矛盾を乗り越えて思想が生まれる--ということと同じ意味である。じいさんが火葬はいや、土葬にしてくれと言った。それを守らないのは失礼である。しかし、土葬はできない。火葬しなければならない。だから申し訳ないと思いながら火を付ける--この矛盾。その矛盾を超えたところに、「さあて、じいさん、熱かろうばって焼きますばい、」ということばがある。
矛盾を乗り越えて、思想が美しく共有される。だからこそ、それは酒を飲む、飲みすぎたら二日酔いをするという暮らしのなかに、まるで「思想」という面倒くさいものがないかのように溶け込んでいくのである。
暮らしのなかのことば。それは、暮らしのなかで、静かに行動をしばる。「さあて、じいさん、熱かろうばって焼きますばい、」も、ひとに対して、その人が望んでいないことをする場合は、きちんと何をするかを説明する。自分がしていることをことばにして確認すれば、遺体を火葬するときだって、その行為がていねいになる。ことばには、人間の行動を律する力がある。そういうことばの力を、「方言」はしっかり守っている。
「流通する言語」ではなく、日々の暮らしのなかのことば。暮らしに根付いたことば。その人間を律することばの美しさは暮らしそのものの美しさにもつながる。
「村から消えた光男しゃん」は「夜逃げ」をした一家のことを書いている。その最後の2連。
ここんにきでは、
夜逃げしたもんば追いかくるごたるまねはしちゃならん、
ちゅうとが、昔からのきまりたい。
借金の話も、根も葉もなか噂話に違いなか。
貸した人にじかに聞いた話じゃなか。
陽しゃんも、めったなこつば言うて、
光男しゃんたちば辱めちゃならんぞ。
行った先でよかこつのあるごつ、ち、思うごつせんとの。
「昔からのきまり」がそれぞれの土地にある。そしてそれは「ことば」としてきちんと伝えられていく。「書きことば」ではなく「話しことば」として。
「話しことば」の「思想」。その特徴は何か。この作品は、それをとてもはっきりと語っている。
貸した人にじかに聞いた話じゃなか。
この行の「じかに」。それが「話しことば」の思想である。ことばはいろいろな方法で伝えることができる。大切なのは「じかに」聞くことである。「じかに」聞くとき、ひとは話している相手を間近に見ることができる。そうすると間接的に聞いたときとは違った「情報」を吸収できる。そして、その「ことば」以外のものも判断材料にして、その「ことば」の「意味」を理解することができる。そういう「ことば以外のもの」を含みながら語り継がれるのが「方言」なのである。
「標準語」(流通言語)は、そういう「ことば以外のもの」を省略することで、人の暮らしの「場」を超えて広がっていく。
それでいいのか--という問いかけが、この詩集には含まれている。
「往還の郵便局員」は戦争から帰還した男のことを描いている。勤勉な郵便局員が戦争で白兵戦を体験した。無事に帰って来たけれど、ひとこともしゃべらなくなった。そして、昔のまま、自転車で自宅と郵便局を往復する。同じ一着制服、制帽。ほこりだらけ。泥だらけ。その男の描写。
風の吹こうが、雨の降ろうが、
真っ直ぐ正面ば向いたままハンドルば握り、
地面にぼろ革靴ば引きずり、
からくりで動くやせこけた泥人形のごつ歩いて行かす。
「からくり」は男の動きを描写しているのだが、なぜか、このことばに触れた瞬間、男が「からくり」で歩いているのではなく、「流通社会」(男の生きている村?以外の場、「標準語」が話されている社会)が、その全体が「からくり」で動いているのではないか、と思えてくる。
「いのち」があり、自分の行為を「自分のことば」で常に確認しながら生きている人間には人を殺す戦争はできない。死者にさえ「さあて、じいさん、熱かろうばって焼きますばい、」と説明して自分の行動を律する人間には、生きている人間を、ことばもなく、ただ殺してしまう、殺し合うというようなことは絶対にできない。そんなことができるのは「いのち」のない人間、からくりで動く人間である。
郵便局員が「からくり人形」になったとしたら、それは彼の触れた世界の「からくり」が郵便局員をのっとってしまったからだ。
ここには強烈な「流通言語」の社会に対する批判がある。こういう批判を明確にするためには、「方言」は書かれつづけなければならない。語られつづけなければならない。
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