詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

八柳李花『Beady-fingers.』

2009-12-18 00:00:00 | 詩集
八柳李花『Beady-fingers.』(ふらんす堂、2009年10月26日発行)

 八柳李花『Beady-fingers.』のなかにはさまざまな「音楽」がある。「音楽」は私にとってはとても不思議なものだ。同じ「音楽」でも体調によってまったく違って聞こえる。きょう、私の体調はあまりよくないのかもしれない。複雑なものに酔うことができない。なぜかシンプルなものに傾いてしまう。
 とういわけで、私がこれから書いていく「削がれた跡にのこるもの」はもしかすると八柳の詩の全体をあらわしているとは言えないかもしれない。「蝉亡」について書こうとして、あ、ちょっと長くなりそう……と思って、その次のページに広がっている「削がれた……」についてなら書けるかなあ、と思ったのがほんとうのところである。
 いつか「蝉亡」について書きたい。けれど、きょうは「削がれた……」について書く。

夜の動物園に来てみないか、と
言った男
言われた男
の、
耳の奥で波音をたてる
古びた水槽の記憶

 この書き出し。そのリズム。先行する1行を捨てていくスピードと、それを追いかけるようにすがってくる響きが、きょうの私にはとてもよく聞こえる。「よく」というのは「鮮明に」という意味と、「気持ちよく」という意味とをこめてのことである。
 2行目までは、主語は「言った男」である。それが3行目で「言われた男」にするりと切り替わる。「言った男」の後には、ほんとうは句点「。」があるのだろう。(私は句点「。」を意識のなかでつけてしまう。)
 ところが、「言った男」に「言われた男」がが並列され、直後に、改行があって「の、」という単独の、とても意味的に不安定なことばがあらわれる。
 特に「の、」の読点「、」がとてもいい感じに私には響いてくる。
 2行目に句点「。」はなかった。けれども、ここでは読点「、」がある。ことばの運動(文章にとって)、句点「。」の方が、読点「、」よりも重要なはずである。ことばとともにある意識は句点「。」によって意識の運動にくぎりをつける。「意味」を確定しながら、運動をつづける。ところが、八柳はその句点「。」を省略しながら、読点「、」を大切なもののように、はっきりと、とても目立つ形で書いている。

の、

 この1行は、どうしても目立ってしまう。なんの意味もない、と言ってしまうけれど、そこからなんらかの意味を分析できないような単独のことば。
 八柳は句点「。」ではなく、読点「、」で意識をくぎり、そのときの「深呼吸」のようなもので、ことばを動かしている。
 別なことばで言いなおすと、「頭の意識」ではなく「肉体の摂理、生理」でことばを動かしている。「頭」ではなく「肉体」がことばを受け止めて、「肉体」が受け止めた動きにしたがって動いていく。そこには「頭」とは別な運動がある。
 1行目(と2行目)にもどって読み直した方がわかりやすいかもしれない。

夜の動物園に来てみないか、と
言った男

 1行目は

「夜の動物園に来てみないか」と

 と書き直すことができる。言ったことばをカッコのなかに入れて、それが地の文とは違ったものであることを明確にすることができる。学校作文では、たぶん、誰かの言ったことばはカギカッコのなかに入れて書きなさい、と指導される。そういう流儀、「学校作文」の流儀にしたがって言えば、八柳の書き方は、すこしずれている。そこでは「誰が」という「主語」が重視されていない。「頭」の違いによって「主語」を区別しようとはしていないということもできるかもしれない。「頭」で考えると、本来は違うものを、「違い」を強調しない形、一種の連続性のなかに取り込んでつないでしまう。ただし、そのとき、「肉体」はちょっと反応する。「呼吸」をととのえる。

夜の動物園に来てみないかと
言った男

 ではなく

夜の動物園に来てみないか、と
言った男

 「頭」で考え直せば(整理し直せば)、それは同じ「意味」になる。男が「夜の動物園に来てみないか」と言った。それを倒置法で表現したことにかわりはない。けれど、「肉体」には、それは同じではない。読点「、」を意識する。そこには「呼吸」がある。一瞬の切断がある。そして、その切断を乗り越えていく「覚悟」のようなものがある。
 「肉体」の「覚悟」がことばを動かしているのだ。

 「肉体」の不思議さは、「肉体」によって私たちは完全にひとりひとりに分断されるにもかかわらず、「頭」以上に簡単に「他者」と結びついてしまうことにある。ひとが「頭」で考えていることは、ときにはまったくわからない。けれども「肉体」は「他人」を、それが自分とは完全に切り離された「肉体」であるにもかかわらず、自分の「肉体」のように感じてしまう力を持っている。
 ひとが道ばたでうずくまってうめいている。そのとき「肉体」は、その「他人」の痛みを、「痛い」とことばで説明されないにもかかわらずわかってしまう。こういうことは「頭」では起きない。「頭」で考えたことがら、そのことばは、わからないときは絶対にわからない。現代哲学(翻訳哲学?)の、ややこしいことばの動き、それが伝えたいとしていることは、何度読み返してもわからない。現代数学、物理学になると、もう「数式」がわからない。何度説明してもらってもわからない。道ばたでうずくまっているひとの「肉体」の苦悩はことばで説明してもらわなくてもわかるのに……。
 「肉体」は「自己」と「他者」を簡単に混同する、というか、融合させてしまう。ただし、その融合のとき、一瞬の「呼吸」がある。道ばたでうずくまり、うめいているひとを見たとき、「はっ」と一瞬思う、そのときの「呼吸」--そういうものがあって、「自己の肉体」は「他者の肉体」と接続する。接続して、融合する。

 そういう「呼吸」が八柳を動かしている。

夜の動物園に来てみないか、と
言った男
言われた男
の、
耳の奥で波音をたてる
古びた水槽の記憶

 この4行目の「の、」。その読点「、」で呼吸した瞬間、5行目の「耳」は「誰の耳」になるだろうか。
 2行目「言った男」の後には句点「。」があり、それが省略されていると私は最初に書いたが(便宜上、そう書いたのだが)、その句点「。」のきびしい断絶が、この「の、」の「呼吸」によってのみこまれてしまう。
 「の、」の読点「、」の呼吸によって、それにつながる「耳」が「言った男の耳」にも「言われた男の耳」にもなってしまう。重なってしまう。ちょうど、「道ばたでうめいている男の肉体の痛み」が、とおりかかり、「それを見てしまった男の肉体の痛み」になってしまうように。
 ほんらい別々のもの、「頭」で考えるとまったく別々のものが「肉体の呼吸」によって融合し、新しい領域へことばを動かしていく。

耳の奥で波音をたてる
古びた水槽の記憶

 いったん融合してしまうと、それはまったく切り離すことができない。道ばたでうずくまりうめく男を目撃し、その痛みを感じ取ってしまったら、ひとは、その男をそこに置いたまま立ち去ることはできないのと同じである。(まあ、「頭」で動いているひとは立ち去ってしまうかもしれないけれど……。)
 もう、「水槽の記憶」は「言った男の記憶」か「言われた男の記憶」か区別がつかない。いや、それ以上に、その記憶は二人によって「共有されたもの」という印象に変わってしまう。
 ほんとうは二人の男がいるのに、「二人」という「事実」は捨て去られ、共有された「記憶」が主語になってしまうのだ。そしてその「記憶」は、繰り返しになるが、「頭」ではなく「肉体」で共有されたものである。
 ここから動きはじめることばは「頭」ではなく「肉体」で動いていくことばである。だから、それを「頭」で整理しようとすると、何かわけのわからないものになる。
 詩のつづき。

なにか釈然としない物事の順序には
黙されたメッセージがひそむというから
二点を最も離れた仮定の上から
意味を付加しようと気づいた
線で結ばれた感覚はすでに特定されて
随分長いこと魚は鳴いているだろう
という
後ろめたい非難がぞくりと削がれる
というのも一種の反復、
反復の積み重ねであるなら、と
更にあたらしい像を重ね

 これらの行のなかに見え隠れする「意味」を「頭」で整理することもできる。できるけれど、こういうことばは「頭」で整理するのではなく、「音楽」として「肉体」で消化するしかないのである。
 あえて「頭」を駆使すれば(酷使すれば? 無理やり「誤読」すれば?)、二人のおとこから「二点」と「離れた」存在、「線で結」ぶ、そういうふうに別なものを別なものにおきかえて「反復」し、意識は動いているという具合になるかもしれないが、そういうことはたぶん八柳のことばの運動を窮屈にする。
 ことばは、もともと「意味」などもっていない。というか、「意味」になっていなことばそのものが、つまり「意味」にしばりつけられていない自由なことばが詩なのだから、「頭」で「意味」を結びつけても意味はない。
 いま引用した部分にも、読点「、」が出てくる。
 そこにはやはり「呼吸」がある。「二人」「二点」「結ぶ」ということばが「反復」ということばにたどりついた瞬間、八柳は、たぶん私があえて「頭」で考えればというふうに書いたようなことを「肉体」のどこかで感じたのかもしれない。(まったく違うことを感じたのかもしれいないが。)そして、その感じたことが「反復」ということば、音になっていることを「肉体」に納得させるために、一呼吸したのだ。

というのも一種の反復、
反復の積み重ねであるのなら、と

 「反復」と「積み重ね」はある意味では重複であるが、それに気がつかない(?)ほど「肉体」は深く感応している。そして、その「肉体」が感応しているものを正確に「肉体」に取り込み、さらにことばを動かすために、八柳は、たてつづけに2回呼吸している。2行つづけて読点「、」を正確に書き留めている。

 「頭」ではなく、「肉体」が八柳のことばを支配している--そういうことを「肉体」で受け止めて読み進むと、八柳の「音楽」--「意味」を超越したことばの運動がたのしく響いてくる。

 (「頭」の部分は、瀬尾育生が「光の中へ」というしおりに書いているので、そちらを読んでください。)




Beady-fingers.―八柳李花詩集
八柳 李花
ふらんす堂

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