大谷良太「今泳いでいる海と帰るべき川」、文月悠光「狐女子高生」(「月暈」3、2009年12月01日発行)
岡井隆『注解する者』を起点にして(批評基準にして)作品を読む--というのは、あらゆる作品に対して可能だと思う。実際に岡井隆の名前を出さないときでも、私は無意識に岡井のことばの運動を基準にしている。だから、ここでは、はっきりと岡井隆の名前をあげておく。岡井隆の「文体」を基準にすると、他の詩人の作品はどんなふうに見えてくるか--そのことを書きたい。
大谷良太「今泳いでいる海と帰るべき川」は「彼女」との関係を描いている。「彼女」に言わせると「わたしたちは付き合っていない」のだが、実際には「彼女」の両親の家に行って食事をしたり、一緒にマンションの見学に行ったりする。
そのとき思ったりするのだ。作品の後半。いちばん美しい部分。
ここには「他人」(他者)が出てくる。及川俊哉の『ハワイアン弁財天』には登場しなかった「他者」が出てくる。「彼女」のことではない。んや、「彼女」のことなのだが、それまで想像して来なかった「彼女」、「知らない彼女」のことである。
「彼女」は「わたしが育った川はどこなんだろう? わたしが帰る川はどこなんだろう?」という。そのときの「わたし」は「彼女自身」のことではなく、「鮭」のことだ。そして、「彼女」といえば、その「鮭」に対して「注解」しているのだ。「鮭」の思いを想像し、ことばにすることで、「鮭」に対して「注解」する形で、「世界」そのものに「注解」している。この「入れ子構造」は説明が面倒なので省略するが、簡単に言いなおすと、大谷(私)は「彼女」が「鮭」の思いを語ったのだけれど、それを「世界」に対する「注解」、「世界」を別の視点でみるきっかけを提供していることになる。
それは、岡井にとってみれば、たとえば聴講生の質問、あるいは先人のテキストに対する「注解」である。そういうものは、岡井にとってはテキストを読み直すきっかけになる。自分のなかでは決着がついているけれど、まだ、ことばにしていない。そして、いま、「他者」のことばに出会って、それに対して正確に向き合うためにことばを新しく動かしていかなければならない--そういう状況へ誘い込むことば。「世界(テキスト)」に対して、新しく向き直るきっかけとなることば。
「他者」とは、そういうものなのだ。
「他者」のなかには「一」が岡井の知らなかった形で「多のひとつ」になっている。その「他のひとつ」と岡井自身の「多のひとつ」を突き合わせ、さらに別の「多」へと動いていく。そのとき、その新しい「多」が「一」そのものになる。
「他者」とは「多」の発生(誕生)を促し、同時に、その「新しい多」によって「一」を具現化するのだ。
大谷の作品にそって言いなおそう。
「彼女」のことばは、大谷に「新しいこと」を考えさせる。想像させる。それは大谷の知っていることがら、海とは別のものである。そして、もし、大谷が「彼女」のことばに誘われて、鮭の帰るべき「川」を具体的に思い描き、その「川」が「彼女」の思い描いている「川」と一致したとき、その想像力のなかで「一」になる。いや、ほんとうは「川」は一致しなくていいのである。「川」へ向けて想像する。いくつもの「川」、「多」としての「川」が想像力のなかで流れはじめる。その「流れ」、そのときの想像力こそが「一」なのだ。そして、その「川」の想像力こそが「一」だから、それは「川」の流れ、たどりついた先の「海」とも融合する。
この融合は、「一」ではないのだが。
「一」はあくまで「イデア」が「具現化」するときの運動そのもののなかにある。「具現化」したものは「多」。「多」のなかに「一」は顕現化するのだけれど、それは「一」ではない。「多は一であり、一は多である」というのは「イデア」の顕現化の表層を語っているのであって、「一」はその運動そのものである。
この運動を、大谷は「多」とか「一」とかいう、まあ、なんといえばいいのか、抽象的なことばではなく、「彼女」「鮭」「川」「海」というもののなかで展開する。「他者」がその運動の領域(幅)を広げ、そこに静かな感情が漂う--それが大谷の詩である。
岡井の「文体」を基準にして読み進めると、大谷の作品は、そんなふうに読むことができる。
*
文月悠光「狐女子高生」の場合はどうか。
「他者」は「狐」とともにあらわれるが、それは話者(文月)が知っているもの、文月の記憶にあるものなので、厳密には「他者」ではない。だから、ここでは大谷の詩とは違って、その出会いは「多」を誘わない。2連目に「狐」のさまざまな形が描かれるが、それは「多」ではなく「多」の形をした「一」そのものであり、「あの子」と話者も「一」なのだ。
「唇に海を満たす」--そして、話者が「青い唇」になるように、あの子は最初から「とても青い」「唇」をしている。話者は、話者と「あの子」が最初から「一」であること、「一」が「話者」と「あの子」という「多」として具現化しているだけであって、それは「他者」ではないことを知っている。
文月は、この詩では「他者」には出会わない。文月の「肉体」を流れている「血潮」は「あの子」の「肉体」を流れている。「一」としての「肉体」を流れている。そして自殺(?)した、あるいは自分自身の体を傷つけた「あの子」の「肉体」を流れ、そこからこぼれた「血潮」は、それはまた文月の「肉体」を流れている「血潮」そのもの、おなじ「一」としての存在である。「イデア」が文月の血潮と「あの子」の血潮を完全につないでしまう。ひとつの「イデア」からあふれた血潮が文月の「肉体」と「あの子」の「肉体」という場で顕現化しているだけであり、それは「一」としての「多」なのだ。
ここに「抒情」の根源がある。「感情移入」の根源があると言い換えてもいいかもしれない。
「私(話者)」が「他者」のなかに「他」ではなく「一」を見つける。その「一」は現象的には「多のひとつ」だけれど、「イデア」としては「一」。その「一」をとおって、「私」は「私」のなかにある何かを「多」という形で具体化する。そこに存在する「多」に「私」の「多」を重ね合わせる。比喩化する。象徴化する--ということもできる。
「多」の重ね合わせによる「一」。そのときの、ぴったり感じ。あるいは、重なり合うときの、ふっとなつかしさを誘うような寂しさ。重なり合わなければよかったのに、という静かな後悔、苦しみ、未練のようなもの。悲しみという逆説的な喜び。まあ、矛盾しているのだけれど、その矛盾のしびれるような感覚。
これが「抒情」の正体である。
あ、美しいなあ。
岡井の「文体」を出発点にして文月の作品を読むと、その行のところで、ため息が出てしまうのだ。
岡井隆『注解する者』を起点にして(批評基準にして)作品を読む--というのは、あらゆる作品に対して可能だと思う。実際に岡井隆の名前を出さないときでも、私は無意識に岡井のことばの運動を基準にしている。だから、ここでは、はっきりと岡井隆の名前をあげておく。岡井隆の「文体」を基準にすると、他の詩人の作品はどんなふうに見えてくるか--そのことを書きたい。
大谷良太「今泳いでいる海と帰るべき川」は「彼女」との関係を描いている。「彼女」に言わせると「わたしたちは付き合っていない」のだが、実際には「彼女」の両親の家に行って食事をしたり、一緒にマンションの見学に行ったりする。
そのとき思ったりするのだ。作品の後半。いちばん美しい部分。
毎朝起きたら隣に彼女が寝ている載って想像するだけで素敵だ。生鮭をムニエルにしながら、彼女は考える。そして話してくれる。「わたしが育った川はどこなんだろう? わたしが帰る川はどこなんだろう?」バジルの壜を手に持ったまま、私もしばらく考えてみる。少なくとも、今泳いでいる海を私は知っていると思う。けれど彼女が知りたいのは帰るべき川のことだ。
ここには「他人」(他者)が出てくる。及川俊哉の『ハワイアン弁財天』には登場しなかった「他者」が出てくる。「彼女」のことではない。んや、「彼女」のことなのだが、それまで想像して来なかった「彼女」、「知らない彼女」のことである。
「彼女」は「わたしが育った川はどこなんだろう? わたしが帰る川はどこなんだろう?」という。そのときの「わたし」は「彼女自身」のことではなく、「鮭」のことだ。そして、「彼女」といえば、その「鮭」に対して「注解」しているのだ。「鮭」の思いを想像し、ことばにすることで、「鮭」に対して「注解」する形で、「世界」そのものに「注解」している。この「入れ子構造」は説明が面倒なので省略するが、簡単に言いなおすと、大谷(私)は「彼女」が「鮭」の思いを語ったのだけれど、それを「世界」に対する「注解」、「世界」を別の視点でみるきっかけを提供していることになる。
それは、岡井にとってみれば、たとえば聴講生の質問、あるいは先人のテキストに対する「注解」である。そういうものは、岡井にとってはテキストを読み直すきっかけになる。自分のなかでは決着がついているけれど、まだ、ことばにしていない。そして、いま、「他者」のことばに出会って、それに対して正確に向き合うためにことばを新しく動かしていかなければならない--そういう状況へ誘い込むことば。「世界(テキスト)」に対して、新しく向き直るきっかけとなることば。
「他者」とは、そういうものなのだ。
「他者」のなかには「一」が岡井の知らなかった形で「多のひとつ」になっている。その「他のひとつ」と岡井自身の「多のひとつ」を突き合わせ、さらに別の「多」へと動いていく。そのとき、その新しい「多」が「一」そのものになる。
「他者」とは「多」の発生(誕生)を促し、同時に、その「新しい多」によって「一」を具現化するのだ。
大谷の作品にそって言いなおそう。
「彼女」のことばは、大谷に「新しいこと」を考えさせる。想像させる。それは大谷の知っていることがら、海とは別のものである。そして、もし、大谷が「彼女」のことばに誘われて、鮭の帰るべき「川」を具体的に思い描き、その「川」が「彼女」の思い描いている「川」と一致したとき、その想像力のなかで「一」になる。いや、ほんとうは「川」は一致しなくていいのである。「川」へ向けて想像する。いくつもの「川」、「多」としての「川」が想像力のなかで流れはじめる。その「流れ」、そのときの想像力こそが「一」なのだ。そして、その「川」の想像力こそが「一」だから、それは「川」の流れ、たどりついた先の「海」とも融合する。
この融合は、「一」ではないのだが。
「一」はあくまで「イデア」が「具現化」するときの運動そのもののなかにある。「具現化」したものは「多」。「多」のなかに「一」は顕現化するのだけれど、それは「一」ではない。「多は一であり、一は多である」というのは「イデア」の顕現化の表層を語っているのであって、「一」はその運動そのものである。
この運動を、大谷は「多」とか「一」とかいう、まあ、なんといえばいいのか、抽象的なことばではなく、「彼女」「鮭」「川」「海」というもののなかで展開する。「他者」がその運動の領域(幅)を広げ、そこに静かな感情が漂う--それが大谷の詩である。
岡井の「文体」を基準にして読み進めると、大谷の作品は、そんなふうに読むことができる。
*
文月悠光「狐女子高生」の場合はどうか。
つむぎたいのは、その不規則な体温。
手肌をつらぬく つむじ風。
プロセスは机の隅に押しやって
唇に海を満たす、吐く。
たおやかに、狂いだす血潮。
この学校ができる前はね
ここで狐を育ててたんだって。
そう告げて、
振り向いたあの子の唇は、とても青い
狐火だったね 覚えてる
「他者」は「狐」とともにあらわれるが、それは話者(文月)が知っているもの、文月の記憶にあるものなので、厳密には「他者」ではない。だから、ここでは大谷の詩とは違って、その出会いは「多」を誘わない。2連目に「狐」のさまざまな形が描かれるが、それは「多」ではなく「多」の形をした「一」そのものであり、「あの子」と話者も「一」なのだ。
「唇に海を満たす」--そして、話者が「青い唇」になるように、あの子は最初から「とても青い」「唇」をしている。話者は、話者と「あの子」が最初から「一」であること、「一」が「話者」と「あの子」という「多」として具現化しているだけであって、それは「他者」ではないことを知っている。
文月は、この詩では「他者」には出会わない。文月の「肉体」を流れている「血潮」は「あの子」の「肉体」を流れている。「一」としての「肉体」を流れている。そして自殺(?)した、あるいは自分自身の体を傷つけた「あの子」の「肉体」を流れ、そこからこぼれた「血潮」は、それはまた文月の「肉体」を流れている「血潮」そのもの、おなじ「一」としての存在である。「イデア」が文月の血潮と「あの子」の血潮を完全につないでしまう。ひとつの「イデア」からあふれた血潮が文月の「肉体」と「あの子」の「肉体」という場で顕現化しているだけであり、それは「一」としての「多」なのだ。
ここに「抒情」の根源がある。「感情移入」の根源があると言い換えてもいいかもしれない。
「私(話者)」が「他者」のなかに「他」ではなく「一」を見つける。その「一」は現象的には「多のひとつ」だけれど、「イデア」としては「一」。その「一」をとおって、「私」は「私」のなかにある何かを「多」という形で具体化する。そこに存在する「多」に「私」の「多」を重ね合わせる。比喩化する。象徴化する--ということもできる。
「多」の重ね合わせによる「一」。そのときの、ぴったり感じ。あるいは、重なり合うときの、ふっとなつかしさを誘うような寂しさ。重なり合わなければよかったのに、という静かな後悔、苦しみ、未練のようなもの。悲しみという逆説的な喜び。まあ、矛盾しているのだけれど、その矛盾のしびれるような感覚。
これが「抒情」の正体である。
鼓動が血に濡れているなんて
いつ どこで 誰が決めたの。
あ、美しいなあ。
岡井の「文体」を出発点にして文月の作品を読むと、その行のところで、ため息が出てしまうのだ。
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