詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

海埜今日子「《こはんのやどは、あたしをかれた…》」、広瀬大志「[場所]」

2009-12-22 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
海埜今日子「《こはんのやどは、あたしをかれた…》」、広瀬大志「[場所]」(「ヒマラヤ」創刊号、2009年10月25日発行)

 海埜今日子「《こはんのやどは、あたしをかれた…》」は不思議だ。最初は何が書いてあるかわからない。

かれ、はへんがくびにつかった。たけのながいきんきがついばみ、ゆかしさめがけてかみしめる、のちのはなしにくいいるのだ。のけぞるはがたが、あいずをまだしらないうち、やどのあかりをふかんするから。

 ひらがなが、私の頭のなかでかってに漢字に変わる。「彼、破片が首に浸かった」「枯れ、破片が首に使った。」でも、何のことかわからない。「たけのながいきんき」。「竹の長い禁忌」「丈の長い錦旗」。混乱してしまう。イメージが結べない。

 ところが、そのイメージがきちんと像を結ばないことが、急に楽しくなる瞬間がある。2連目というべきか、2段落目というべきか……。

は、へんにかくし、うろおぼえ、かれは、ちぎれたにくをなだめるだろう。

 最初の「はへん」(破片)が「は、へん」(は、変)に変わってしまう。これはもちろん正しい断定ではない。私の「誤読」であり、海埜が「破片」を「は、変」に変えたということではない。私がかってにそう思ったということである。
 「はへん」という「は行」+「ん」ということばは「こはん」というちょっと異質な音をまじえながら、「はたん」「はもん」「はんえい」「は、たんに」(これは、単に、かな?)と変化する。「ぺぺぺぺ」というオノマトペがあり、「へへへへ」という笑いも「はたん」から派生している。
 そして「は、へん」という呼吸からは「ち、くびなんかにしないでよ」という奇妙な変化も生まれている。私はスケベだから「乳首なんかにしないでよ」と読み替えるけれど、「ち(これは、舌打ち)、首なんかにしないでよ」なら「首にキスなんかしないでもっと違うところに」という別のスケベごごろだし、「首」を「首切り(解雇)」ととらえればまた違った意味になる。
 そして、そのとき、「意味」って、ことばにとって何? という疑問も浮かんでくる。
 私は「意味」は読者(読書の場合だけれど)がかってにつくりだすものと思っている。話し相手があるときなら、聞き手がかってにつくりだすもの。書いた人、話した人は別のことをいいたかったかもしれない。けれど、そういう「意図」とは無関係にことばの受けては「意味」を考える。
 まあ、そうすると「行き違い」が起こるのだけれど、「政治」や「法律」の世界ではないので、それが楽しいかなあ、とも思う。
 ほら、相手の言っていることなんて、正確に知りたくないことってあるでしょ? ふーん、そうなんだと、適当にあしらって、かかわるのはよそう、って思うこと、あるでしょ。
 詩は、そんなふうに簡単にあしらうものではないのだけれど。
 言いたいのは、別に、筆者の「言いたい意味」なんか気にしなくたっていいじゃないか。どっちにしろ「正確」には把握できない。書いている人だって、いつも「正確」に書き切れているとはかぎらないだろう。だから、何か違うなあ。何を言っているのかな? わからないけれど、あ、この部分、わかった気持ちになる--正しいかどうかわからないけれど、自分のなかで「意識」がすっと動く瞬間がある。その瞬間的な動きが、動くものがあるということが、気持ちがいい。
 そういう瞬間。
 海埜のことばに対して、こういうことを書くと、またまたスケベ、セクハラと言われてしまうかもしれないけれど、その意識が動く、動く瞬間がある、というのは、ちょっと射精の瞬間のような快感。
 自分の「肉体」から出て行ったものが何なのか、まあ、説明ができないことはないけれど、そんなものは普通は「説明」しない。「でちゃった」でおしまい。「でちゃった」なんて、おかしいんだけれど、その瞬間、ほら、たしかに「交流した」と思えるでしょ? 相手は「そんなことくらいで交流したなんていわないでよ」と怒るかもしれないけれど。でも、怒りながらも、別々な人間が出会って、そこで何かが動いたということはわかるよね。(わかるから、怒るんだけれど。)
 こういう「動き」(おおげさに、あるいは気取っていえば、「交流」)は、「意味」に置き換える必要がない--と私は思う。あれ、なんだろうなあ、何かが動いたなあ、が少しずつ積み重なって、それがやがて「大切なもの」になる。
 そういうことを考えた。
 女性に対してこんなことを書くと、迷惑かもしれないけれど、まあ、詩ということばのなかのことだからね。許してね。



 広瀬大志「[場所]」。うーん、と書いて、ちょっと困った。うーん、以外に書くことばがみつからない。海埜の詩に対しては「軽口」のようにして感想がことばになったが、広瀬の詩に対しては、私のことばはちょっと動かなくなった。

イチジクの木が茂っている
太陽が高くのぼっている
蝿を追い払っている
農具を置いたままにしている
水をくんでいる
風の向きが変わっている
トビが回っている
家に入ろうとしている
たくましい歌声が澄んでいる

長くまっすぐな小道がのびている
永遠に動かないかもしれない
場所がある
あることを受け入れるための緊張が
そこに張り詰めているから
人の記憶に
場所はありつづける

 2連目の3行、「長くまっすぐな小道がのびている/永遠に動かないかもしれない/場所がある」がとても好きだ。特に「永遠に動かないかもしれない」という行が修飾しているのが「小道」なのか「場所」なのかわからないところが好き。わからないから、「小道」と「場所」がしっかり結びついて、一点に収縮していく感じ、凝縮して行く感じ、「求心」という感じになる。それがいい。
 で、2連目から1連目を振り返ると。
 1連目に描写された風景は「記憶」ということなのかもしれないが。
 うーん。
 「記憶」だとしても、私は、いやだなあ。いったい、いつの「記憶」? 「記憶」というより「郷愁」というような感じがしない? 「記憶」ということだけが問題なら、そんな透明な農村風景ではなく、猥雑な路地の夕暮れでもいいのではないだろうか。地下鉄の真昼、あるいはビルの屋上の真夜中。なんだって、「永遠に動かない」ということばで描けると思うのだ。なぜ、農村の風景? なぜ、いま、農村? ねえ、いまの農村って知ってる? いま、問題になっている農村に対して、そういう「記憶」(郷愁)をぶつけることは、ちょっと失礼じゃないか--と私は思ってしまうのである。

 まあ、いいけれど。



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