藤富保男「石についての余計な考察」(「現代詩手帖」2009年12月号)
藤富保男はことばの関節を脱臼させる。そういう印象を、私は、強く持っていた。岡井隆のことばの運動とは違う次元でことばを動かしている。そう思っていた。しかし、そういう藤富の作品についてでさえ、私は岡井のことばの運動との連絡を感じてしまう。連絡をとりたい気持ちになってしまう。
「石についての余計な考察」(初出は『藤富保男詩集全景』)は、タイトルの「余計な考察」という「考え方」そのものが岡井の「注解」につながる。「注解」とはほんらい「余計な考察」である。そういうものはほんとうはいらない。単純にテキストさえあればいい。
と、書いてみて、驚くのだが、では、「石についての余計な考察」の、どの部分が「余計な考察」?
どこにも「余計な考察」はない。「考察」ははじまってしまえば、いつだって「余計」ではなくなる。
でも、ほんとう?
そもそも「余計」とは、誰にとってのことだろう。
最初にもどらなければならないのだ。
「余計」とは「テキスト」にとって「余計」なのであって、ことばを動かしている発話ものにとって「余計」ではないのだ。
藤富の作品では「石」にとってはすべて「余計」なことがらであるが、書いている藤富にとっては「余計」ではない。そしてまた、そのことばを読んでいる私にとっても「余計」ではない。
そして「余計」とは、「テキスト」とは「無縁」である、ということでもある。「どこで彼はその石を見つけたのか/その石を どういう角度で見たか」ということは、「石」にとってはなんの「意味」もない。藤富の書いていることとは関係なく、ただ「石」は存在する。そういう視点からいえば、藤富の書いていることは「石」の存在と「無縁」のことばの運動であり、「意味」はない。
この「無縁」、「意味」がない、ナンセンスということのなかに、詩がある。
詩とはナンセンスなのものなのだ。
ここからが、岡井の「注解」とほんとうに重なる部分である。
岡井の「注解」もナンセンスである。古典を引用し、著名な別の「注解」を引用し、作品の内部に入り込む--そういう「注解」がなぜ、「ナンセンス」か。たとえば、岡井が「注解」しているとのの姿を放送するテレビカメラ。カメラマン。彼は(あるいはテレビカメラ)は「独自」の視点を生きている。岡井に「注解」させておきながら、岡井の考えていることを追いかけてはいない。ただ自分の考えている世界しかない。
岡井の「注解」に「意味」がない。岡井が「注解」している「テキスト」にすら「意味」がない。ただ、「映像」だけが「意味」を持っている。
そういう「無縁」のものに「洗われ」ながら、ことばを動いていく。「ナンセンス」に動いていく。ことばはことばとして、どこまでも「ナンセンス」に動いていく。
それは、ことば自身が、結局は、自分自身のことばを生きていくということでもある。その運動は、「テキスト」に触れているようにしながら、ほんとうは別の次元を生きているということでもある。
だから。
だから、というのは乱暴な方向転換なのだけれど。
だから、一生懸命に「注解」する岡井の意志とは無関係に、岡井のことばを、私たちはまた、テキストとは無関係に読むことができるのだ。
岡井はあくまで作品を「注解」している。けれども、私は、その「注解」を「注解」とは読まない。それはたしかに「テキスト」に触れはしているが、そこから「注解」からはじまるのは「注解」という「余計な」ことがらであり、その「余計な」もの、つまり「テキスト」からはみだしていく運動そのものに、あ、おもしろいと感じるのだ。はみだしていくことのなかに、その運動に詩を感じるのだ。
でも、変でしょ?
これって、「注解」のほんらいの目的とは矛盾するでしょ?
「注解」というのは、「テキスト」の本質に近づくための道しるべ。それなのに、それが「テキスト」から遠くなる、遠くなることができる、遠くなるほど、その遠くなった部分に、あ、おもしろいと感じてしまう。
変でしょ?
変じゃない、にしろ、まあ、なんというか、「注解」している岡井に対しては、ちょっと申し訳ないような感想でしょ?
でも、ここに詩があるのだ。詩はナンセンス。そしてナンセンスとは、「無縁」に関係がある。何かと「無縁」。それは何かの束縛を受けないということ--「自由」であること。
そして、それは何かどころか、何ものからも「自由」ということでもある。あらゆるものから「自由」。そういう自由を、自由な運動をする特権をことばはもっている。少なくとも、そういう特権をもったことばを文学のことばと定義することができる。
だんだん抽象的になっていってしまうが、岡井のことば、『注解する者』の「文体」からは、なんでも考えることができる。「余計なこと」を考えることができる。「余計な考察」をすることができる。「余計な考察」の楽しさを味わうことができる。
ここから、もう一度、藤富の詩にもどってみる。
何が書いてあったんだっけ?
「石」に関する「考察」。「余計な考察」。不思議なことに(不思議ではないかもしれないのだけれど)、そういう「余計な考察」のなかにも、変な「粘着力」がある。「自由」なことばの運動のなかにも、変な「不自由」がある。
「その」。それは「それ」という形でも出てくる。いちばん特徴的なのが、次の連。
「自由」なはずなのに、なぜか「石」から離れない。「その」とか「それ」には目英語でいえば「定冠詞」に通じるものがある。話者の「意識」がからみついている。「その」がことばを「石」にしばりつけてしまう。「粘着力」をもって「石」に結びつきながら、なおかつ「石」から離れる。この矛盾。
あ、矛盾のなかに、詩があるのだ。矛盾だけが、詩なのだ。
対象に近づき、同時に離れる。
「注解」は対象に近づく作業である。そして、「注解」すればするほど離れていくという矛盾が起きるが、その矛盾が詩なのだ。「余計」であることがわかればわかるほど、それが詩になってしまうのだ。
ナンセンス、無意味であることがわかればわかるほど、そこに詩がくっくりみえてくる。
これは、まあ、泣き笑いだねえ。一生懸命近づけば近づくほど遠ざかり、そして遠ざかることでしか近づけないというのは、奇妙に悲しく、せつなく、そして、なんともいえずなつかしい。不思議な喜びがある。ひとの(注解するひとの)不幸を見る喜び(?)のようなものなのか。
藤富はこの感覚を、唐突な「うぐいす」「山」ということばで叩ききって、さらに印象の強いものにしている。
藤富は「石」について考えている。その考えとは「無縁」なところに、「無縁」な次元に「うぐいす」は生きている。「山」がある。
それは、まあ、岡井の「注解」に強引につなげて書いてしまえば、テレビカメラマンや聴講生である。そういう存在が「注解」、「余計な考察」を中断させる。近づきながら遠ざかる運動を、別の力で叩ききる。ふいに、別の次元が闖入する。
あ、そのとき、岡井に「注解」されていた「テキスト」も、くすくす笑っていたかもしれない--とも思ってしまうのだ。
そして、その「少し笑う」テキスト(石)の「笑い」は、もしかすると、私たちが(私が)岡井の詩を読み、あるいは藤富の詩を読むときに、ふいに感じる「笑い」とどこかでつながっているかもしれない。
*
藤富の詩と岡井の詩は無関係である。--無関係であるけれど、どこか遠くで、その「文体」は通じ合うものをもっている。そう感じさせる。その通じ合う「脈絡」を探したい--そういう気持ちを岡井の「文体」は引き起こす。
あらゆることばの運動と岡井のことばの運動を比較したい、その連続性と、切断性を追いつづけてみたい--そいういう欲望を引き起こす詩集。それが岡井の『注解する者』。ぜひ、読もうね。
藤富保男はことばの関節を脱臼させる。そういう印象を、私は、強く持っていた。岡井隆のことばの運動とは違う次元でことばを動かしている。そう思っていた。しかし、そういう藤富の作品についてでさえ、私は岡井のことばの運動との連絡を感じてしまう。連絡をとりたい気持ちになってしまう。
「石についての余計な考察」(初出は『藤富保男詩集全景』)は、タイトルの「余計な考察」という「考え方」そのものが岡井の「注解」につながる。「注解」とはほんらい「余計な考察」である。そういうものはほんとうはいらない。単純にテキストさえあればいい。
と、書いてみて、驚くのだが、では、「石についての余計な考察」の、どの部分が「余計な考察」?
どこで彼はその石を見つけたのか
その石を どういう角度で見たか
拳の大きさの石を どこに置いたか
石は寺の前に医師として座っていたか
石は幸せな石であったか
彼はそれを どちらの手で拾ったか
風のむきは山からであったか
石はそのまま何に化けようとしたか
その量感を彼はどのように感じたか
うぐいす
その石は滑らかであったか
その石には苔が少し付いていたか
石はそのとき 少し叫んだか
山しずか
石にとって石はそれ自体 滅亡の固形であったか
石 少し笑う
どこにも「余計な考察」はない。「考察」ははじまってしまえば、いつだって「余計」ではなくなる。
でも、ほんとう?
そもそも「余計」とは、誰にとってのことだろう。
最初にもどらなければならないのだ。
「余計」とは「テキスト」にとって「余計」なのであって、ことばを動かしている発話ものにとって「余計」ではないのだ。
藤富の作品では「石」にとってはすべて「余計」なことがらであるが、書いている藤富にとっては「余計」ではない。そしてまた、そのことばを読んでいる私にとっても「余計」ではない。
そして「余計」とは、「テキスト」とは「無縁」である、ということでもある。「どこで彼はその石を見つけたのか/その石を どういう角度で見たか」ということは、「石」にとってはなんの「意味」もない。藤富の書いていることとは関係なく、ただ「石」は存在する。そういう視点からいえば、藤富の書いていることは「石」の存在と「無縁」のことばの運動であり、「意味」はない。
この「無縁」、「意味」がない、ナンセンスということのなかに、詩がある。
詩とはナンセンスなのものなのだ。
ここからが、岡井の「注解」とほんとうに重なる部分である。
岡井の「注解」もナンセンスである。古典を引用し、著名な別の「注解」を引用し、作品の内部に入り込む--そういう「注解」がなぜ、「ナンセンス」か。たとえば、岡井が「注解」しているとのの姿を放送するテレビカメラ。カメラマン。彼は(あるいはテレビカメラ)は「独自」の視点を生きている。岡井に「注解」させておきながら、岡井の考えていることを追いかけてはいない。ただ自分の考えている世界しかない。
岡井の「注解」に「意味」がない。岡井が「注解」している「テキスト」にすら「意味」がない。ただ、「映像」だけが「意味」を持っている。
そういう「無縁」のものに「洗われ」ながら、ことばを動いていく。「ナンセンス」に動いていく。ことばはことばとして、どこまでも「ナンセンス」に動いていく。
それは、ことば自身が、結局は、自分自身のことばを生きていくということでもある。その運動は、「テキスト」に触れているようにしながら、ほんとうは別の次元を生きているということでもある。
だから。
だから、というのは乱暴な方向転換なのだけれど。
だから、一生懸命に「注解」する岡井の意志とは無関係に、岡井のことばを、私たちはまた、テキストとは無関係に読むことができるのだ。
岡井はあくまで作品を「注解」している。けれども、私は、その「注解」を「注解」とは読まない。それはたしかに「テキスト」に触れはしているが、そこから「注解」からはじまるのは「注解」という「余計な」ことがらであり、その「余計な」もの、つまり「テキスト」からはみだしていく運動そのものに、あ、おもしろいと感じるのだ。はみだしていくことのなかに、その運動に詩を感じるのだ。
でも、変でしょ?
これって、「注解」のほんらいの目的とは矛盾するでしょ?
「注解」というのは、「テキスト」の本質に近づくための道しるべ。それなのに、それが「テキスト」から遠くなる、遠くなることができる、遠くなるほど、その遠くなった部分に、あ、おもしろいと感じてしまう。
変でしょ?
変じゃない、にしろ、まあ、なんというか、「注解」している岡井に対しては、ちょっと申し訳ないような感想でしょ?
でも、ここに詩があるのだ。詩はナンセンス。そしてナンセンスとは、「無縁」に関係がある。何かと「無縁」。それは何かの束縛を受けないということ--「自由」であること。
そして、それは何かどころか、何ものからも「自由」ということでもある。あらゆるものから「自由」。そういう自由を、自由な運動をする特権をことばはもっている。少なくとも、そういう特権をもったことばを文学のことばと定義することができる。
だんだん抽象的になっていってしまうが、岡井のことば、『注解する者』の「文体」からは、なんでも考えることができる。「余計なこと」を考えることができる。「余計な考察」をすることができる。「余計な考察」の楽しさを味わうことができる。
ここから、もう一度、藤富の詩にもどってみる。
何が書いてあったんだっけ?
「石」に関する「考察」。「余計な考察」。不思議なことに(不思議ではないかもしれないのだけれど)、そういう「余計な考察」のなかにも、変な「粘着力」がある。「自由」なことばの運動のなかにも、変な「不自由」がある。
その石を どういう角度で見たか
「その」。それは「それ」という形でも出てくる。いちばん特徴的なのが、次の連。
その石は滑らかであったか
その石には苔が少し付いていたか
石はそのとき 少し叫んだか
「自由」なはずなのに、なぜか「石」から離れない。「その」とか「それ」には目英語でいえば「定冠詞」に通じるものがある。話者の「意識」がからみついている。「その」がことばを「石」にしばりつけてしまう。「粘着力」をもって「石」に結びつきながら、なおかつ「石」から離れる。この矛盾。
あ、矛盾のなかに、詩があるのだ。矛盾だけが、詩なのだ。
対象に近づき、同時に離れる。
「注解」は対象に近づく作業である。そして、「注解」すればするほど離れていくという矛盾が起きるが、その矛盾が詩なのだ。「余計」であることがわかればわかるほど、それが詩になってしまうのだ。
ナンセンス、無意味であることがわかればわかるほど、そこに詩がくっくりみえてくる。
これは、まあ、泣き笑いだねえ。一生懸命近づけば近づくほど遠ざかり、そして遠ざかることでしか近づけないというのは、奇妙に悲しく、せつなく、そして、なんともいえずなつかしい。不思議な喜びがある。ひとの(注解するひとの)不幸を見る喜び(?)のようなものなのか。
藤富はこの感覚を、唐突な「うぐいす」「山」ということばで叩ききって、さらに印象の強いものにしている。
藤富は「石」について考えている。その考えとは「無縁」なところに、「無縁」な次元に「うぐいす」は生きている。「山」がある。
それは、まあ、岡井の「注解」に強引につなげて書いてしまえば、テレビカメラマンや聴講生である。そういう存在が「注解」、「余計な考察」を中断させる。近づきながら遠ざかる運動を、別の力で叩ききる。ふいに、別の次元が闖入する。
石 少し笑う
あ、そのとき、岡井に「注解」されていた「テキスト」も、くすくす笑っていたかもしれない--とも思ってしまうのだ。
そして、その「少し笑う」テキスト(石)の「笑い」は、もしかすると、私たちが(私が)岡井の詩を読み、あるいは藤富の詩を読むときに、ふいに感じる「笑い」とどこかでつながっているかもしれない。
*
藤富の詩と岡井の詩は無関係である。--無関係であるけれど、どこか遠くで、その「文体」は通じ合うものをもっている。そう感じさせる。その通じ合う「脈絡」を探したい--そういう気持ちを岡井の「文体」は引き起こす。
あらゆることばの運動と岡井のことばの運動を比較したい、その連続性と、切断性を追いつづけてみたい--そいういう欲望を引き起こす詩集。それが岡井の『注解する者』。ぜひ、読もうね。
藤富保男詩集全景藤富 保男沖積舎このアイテムの詳細を見る |