岩佐なを「乾物台車」(「生き事」5、2009年秋発行)
岩佐なを「乾物台車」はとても奇妙な作品である。岩佐は同じ号に「はだか脳」という作品も発表している。それもおもしろいが、「乾物台車」はともかく、ともかく、ともかく奇妙である。
書き出しを比較するとわかる。
「で/もう」って、なに?
詩を読んでいけばわかるのだが、岩佐の今回の作品は「でも」ということばで次々に展開していく。ことばが自在に運動する。ことばはいつでも、どんなふうにでも自由に動いて行ける。「でも」ということばを利用すれば、何でも書ける--というわけではないかもしれないが、「でも」ということばを利用して、岩佐は、それまで書いたこととは違うことを書く。そういうことを二つの詩でやっている。
そしてというか、それなのに、「乾物台車」の書き出しだけが「でも」ではなく「で/もう」なのだ。
なぜ?
まあ、英語でも「but 」「and 」は、ときには区別がないというか、日本語に訳すとき、必ずしも「しかし(でも)」「そして」に対応しないことがあるから、こういうことばは、いいかげんなものかもしれない。いいかげんではあるけれど、そういうことばがあるかぎり、そこにはなんらかのことばを超えた動きがある。ことばが何かを動かしてしまうということがある。
何が動きはじめるかな?
岩佐は、ただそれを確かめているのかもしれない。
で、何が動く?
「で/もう」がおかしいのは、その「もう」から「牛」と「丑三つ時」が顔を出してくることである。「丑三つ時」は3行目で「二十六時」(午前2時)という形で先にでてきてはいるだけれど……。
では、これは牛が台車にのせられて、午前2時にどこかへ運ばれていく詩?
という行もある。台車に載せられて、まるで牛になった気分、ということ?
なんて、だじゃれで遊んでみたり、これいったい何?
--というのは、まあ、どうでもいいことなんだろうなあ。詩というものは、「意味」ではないから、これは何?と思わせつづければ、それはそれで岩佐の「勝ち」。岩佐のことばの運動の「勝ち」。この「勝ち」は「価値」でもある、なんて、私もだじゃれでも書いてみるかな……。
とは、書いてみたものの、と、いうか……、
深刻(?)なのは、書き出しの「で/もう」が「でも」になってしまって、なかなかもとの「で/もう」に戻らない。
岩佐はきっと「でも」は「で/もう」であると書きたくて長々と詩を書く。1篇ではそういうことは「でも」が「で/もう」に変わるということは起きなくて、しかたなく(?)、もう1篇書いてみる。これが「はだか脳」。でも、それを書いても、「で/もう」には戻らない。
あらら。
で、もう、岩佐は「でも」ということばをつかって詩を書きつづけるしかなくなったということなのだろうなあ。
おかしいねえ。変だねえ。でも、私は、そういう悪戦苦闘が好きだなあ。
で、もう、岩佐の詩について何か書きたくてしようがなくなったのだけれど、そして実際に、書きはじめた。でも、うまく書けない。
でもう(「で、もう」でもなく「でも」でもなく、だらしなく「でもう」と駄々をこねるみたいに読んでくださいね)、私はもうそろそろこの文章を切り上げないといけない。網膜剥離で手術して以来、30分以上パソコンに向かっていると、目が痛くてしようがない。
で、もうおしまい。(あれ、こんなつかい方でいいのかな?)
岩佐なを「乾物台車」はとても奇妙な作品である。岩佐は同じ号に「はだか脳」という作品も発表している。それもおもしろいが、「乾物台車」はともかく、ともかく、ともかく奇妙である。
書き出しを比較するとわかる。
で
もう
二十六時
うすぐらい路を
台車に載せられて運ばれる
(乾物台車)
でも
母国では
自らの形を次の
いのちにつたえるために
はだかの脳はなにに
その記憶を託すのか
(はだか脳)
「で/もう」って、なに?
詩を読んでいけばわかるのだが、岩佐の今回の作品は「でも」ということばで次々に展開していく。ことばが自在に運動する。ことばはいつでも、どんなふうにでも自由に動いて行ける。「でも」ということばを利用すれば、何でも書ける--というわけではないかもしれないが、「でも」ということばを利用して、岩佐は、それまで書いたこととは違うことを書く。そういうことを二つの詩でやっている。
そしてというか、それなのに、「乾物台車」の書き出しだけが「でも」ではなく「で/もう」なのだ。
なぜ?
まあ、英語でも「but 」「and 」は、ときには区別がないというか、日本語に訳すとき、必ずしも「しかし(でも)」「そして」に対応しないことがあるから、こういうことばは、いいかげんなものかもしれない。いいかげんではあるけれど、そういうことばがあるかぎり、そこにはなんらかのことばを超えた動きがある。ことばが何かを動かしてしまうということがある。
何が動きはじめるかな?
岩佐は、ただそれを確かめているのかもしれない。
で、何が動く?
「で/もう」がおかしいのは、その「もう」から「牛」と「丑三つ時」が顔を出してくることである。「丑三つ時」は3行目で「二十六時」(午前2時)という形で先にでてきてはいるだけれど……。
では、これは牛が台車にのせられて、午前2時にどこかへ運ばれていく詩?
台車に載せられて運ばれる
ノモ扱いのヒト
モノノジブン
という行もある。台車に載せられて、まるで牛になった気分、ということ?
眼窩と書けた歯並びだけでも
笑顔をつくったままで
死んでいられる牛
(しあわせだなぁ)
丑三つ時の砂丘に
穴は掘られ
ビーフジャーキィくらい
乾燥したじぶんが
埋められる
けっして雨も切りも降らないから
眼窩から芽を生やすわけにも
いかない
なんて、だじゃれで遊んでみたり、これいったい何?
--というのは、まあ、どうでもいいことなんだろうなあ。詩というものは、「意味」ではないから、これは何?と思わせつづければ、それはそれで岩佐の「勝ち」。岩佐のことばの運動の「勝ち」。この「勝ち」は「価値」でもある、なんて、私もだじゃれでも書いてみるかな……。
とは、書いてみたものの、と、いうか……、
深刻(?)なのは、書き出しの「で/もう」が「でも」になってしまって、なかなかもとの「で/もう」に戻らない。
岩佐はきっと「でも」は「で/もう」であると書きたくて長々と詩を書く。1篇ではそういうことは「でも」が「で/もう」に変わるということは起きなくて、しかたなく(?)、もう1篇書いてみる。これが「はだか脳」。でも、それを書いても、「で/もう」には戻らない。
あらら。
で、もう、岩佐は「でも」ということばをつかって詩を書きつづけるしかなくなったということなのだろうなあ。
おかしいねえ。変だねえ。でも、私は、そういう悪戦苦闘が好きだなあ。
で、もう、岩佐の詩について何か書きたくてしようがなくなったのだけれど、そして実際に、書きはじめた。でも、うまく書けない。
でもう(「で、もう」でもなく「でも」でもなく、だらしなく「でもう」と駄々をこねるみたいに読んでくださいね)、私はもうそろそろこの文章を切り上げないといけない。網膜剥離で手術して以来、30分以上パソコンに向かっていると、目が痛くてしようがない。
で、もうおしまい。(あれ、こんなつかい方でいいのかな?)
岩佐なを 銅版画蔵書票集―エクスリブリスの詩情 1981‐2005岩佐 なを美術出版社このアイテムの詳細を見る |