詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

安水稔和『遠い声 若い歌』

2009-12-29 00:00:00 | 詩集
安水稔和『遠い声 若い歌』(沖積社、2009年2009年11月17日発行)

 安水稔和『遠い声 若い歌』は『安水稔和全詩集』以前の、文字通り「若い歌」である。安水自身の声の他に、その「時代」の「声」も含まれているように感じる。「若い」時代は、誰の声でも自分自身の声であると同時に「時代」の声に染まっている。それは、私には美しいことだと思える。他者を受け入れながら自分の声を探している--そういう動きのなかに、自分の声だけではたどりつけない何かをつかもうとする情熱があるように感じるからだ。
 「扉銘 詩誌「ぽえとろ」創刊号によせて」には、「時代」の声、同じ志をもった詩人の声が反映されている。誰が同人だったか知らないが、同人をリードしていくベクトルのようなものが輝いている。ベクトルの、その先に何があるかわからないが、方向だけはしっかり「実感」できる--そういうときのことばが、何があるかわからないゆえに、まだ何にも汚染されずに、純粋に輝いている。

美しいものが、あるところにない時に味う、空間の切実な虚粧よりも、もっと明晰に、誰も知らないところに何もない、という幻想を書き加えることによって、美のありかを設定しおわろう。

 ここに書かれてあることばの「意味」を正確にとることは、私にはできない。「虚粧」ということばを私は知らない。「虚飾」「化粧」ということばは知っているが、「虚粧」は知らない。知らないけれど、「虚飾」「化粧」から、かってに、むなしい装いと「誤読」する。ある方向へ向けて、ことばを動かし、その動きのなかに何かをかってに感じてしまう。
 私の感じていることが安水の感じていること(そのことばで伝えたかったこと)とぴったり重なるかどうか、私は知らない。きっと重ならないだろう。けれども、私はそういうことは気にしないのである。
 詩を読む時、私は、書いた人の「真意」を知りたいわけではないのだ。そこに書かれていることばから、私が何を感じているかだけを知りたい。「誤読」をとおして、いままで知らなかったことと出会いたいだけなのだ。きっと。

 この安水の長い長い一文。そのなかにある、不思議な省略とねじれ。「虚粧」ということばのなかにある省略とねじれ。省略とねしれが、安水に、辞書にもないようなことばを欠かせているのだ。
 そのもっとも強烈なものを、私は、その次に出てくる「明晰に」に、強く感じる。
 「明晰」ということばは知っている。辞書にも載っている。広辞苑によれば、明晰とは、「①明らかではっきりしていること。②概念の内容が一つ一つはっきりしていなくても、その対象を他の対象から区別するだけの正確さをもつ概念についていう語。明白。」とある。
 「意味」は、それこそ「はっきりとわかる」。けれど、その「明晰に」はいったいどのことばを修飾しているのか。「明晰に→誰も知らない」なのか。「明晰に→幻想を書き加える」のか。「明晰に→美のありかを設定し」なのか。ぜんぜん、わからない。どうつなげても「意味」が明確になるわけでもない。「明晰に」の単独の「意味」はわかるが、どのことばと結びつけて安水がそのことばをつかっているかがわからない。
 そして。
 そのことから(?)というもの変だけれど、何もわからないのに「明晰に」だけが「明晰に」わかるということから--私は安水が「明晰に」ということばにこそ詩を見ていたのだろうと感じるのだ。
 ことばの運動の先に何があるのか、何もわからない。どういうことばの運動の方法があるのか、実際のところはわからない。けれども、そのことばの運動の先にあるものは「明晰」でなければならない。「明晰」なもものこそが詩に値する--そう感じていたと思うのだ。

 私の推論(誤読?)の根拠は何もない。ただ、この不思議な一文のなかで「わかる」のは「明晰に」ということばだけである。だから、安水は「明晰(に)」ということをめざしていたと推測する。誤読する。
 そして、その「明晰に」ということばしかないのだ、と思って、一文全体を読み返すと、「明晰に」は、先行する「美しいものが、あるところにない時に味う」「空間の切実な虚粧よりも」にも結びついてしまう。

 美しいものが「明晰に」あるところにない

 空間の切実な、あるいは「明晰な」虚粧よりも

 もちろん、安水はそんなふうに書いてはないのだが、私は、そんな結びつきをも感じてしまう。「明晰に」はそのあとの文章を修飾するだけではなく、(どれを修飾するのかわからないが……)、同じように前の文章をも修飾する(これも、どの文章を修飾するか断定はできない)。つまり、この一文は「明晰に」ということばを中心に、そこから、どこかへ動いていこうとしている運動そのものとして見えてくる。
 そして、その運動は「明晰に」「切実」なのである。
 「切実」と「明晰」同じ重要さで、安水のことばの運動の基本なのだ。

 これは、安水だけではなく、たぶん当時の詩人たちの同じ「基本」だったと思う。あらゆることばのなかに「切実な」「明晰さ」を確立すること。戦後直後、ことばは、「切実な」「明晰さ」では独立していなかった。たぶん、「戦時体制」の権力によって「切実さ」と「明晰さ」を剥奪されていた--そんなふうに「時代」は感じていたのかもしれない。
 「切実さ」「明晰さ」とは--言い換えると、個人としての「切実さ」「明晰さ」である。戦時中は、「個人」の「切実さ」「明晰さ」ではなく、「国家」の「切実さ」「明晰さ」がことばを動かしていたのだ。国家に切実や明晰があると仮定しての話だけれど。--しは、そういう国家からことばを奪いかえす運動だったかもしれない。
 自分の切実な感覚を、どうやって明晰にするか--そいうことを考えつづけた時代の詩、として、このころの安水の詩を読むことができるかもしれない。




遠い声 若い歌―『安水稔和全詩集』以前の未刊詩集
安水 稔和
沖積舎

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