松尾真由美『雪のきらめき、火花の湿度、消えゆく蘂のはるかな記憶を』(思潮社、2009年09月30日発行)
松尾真由美の詩はちょっと読みづらいところがある。『雪のきらめき、火花の湿度、消えゆく蘂のはるかな記憶を』というタイトルが象徴的だが、そこに書かれているものが「ひとつ」ではないからだ。「雪」「火花」「蘂」と3つの「主語」が出てくる。目がちらついてしまう。私は9月の下旬に目の手術をした。その後遺症というか、回復過程で、左目と右目の焦点があわない。そういう人間には、「主語」が3つも出てくるタイトルは、どうにも目がちらついてしまう。
あれっ、「主語」がいくつであろうと、本のページの上では同じ活字、目で見るのは活字(文字)だから、その活字が何をあらわしているかという「意味」と目のちらつきは関係がないんじゃないか。活字の大小(ポイントの大きさ)は影響しても、そこに書かれている内容は目に影響しないのではないか--たぶん、そういう疑問を、この文章を読んだひとは持つかもしれない。
私も、かつてはそう考えたかもしれない。
ことばを読む、活字を読む。そのとき目に影響するのは活字の大きさ、活字の組み方、部屋の明るさが関係するだろうけれど、活字が指し示すもの(対象、意味)は無関係だと思っていた。「主語」の数など関係ないと思っていた。
ところが、そうではない。
本は「視力検査表」ではないのだ。そして目が見るのは「活字」だけではないのだ。たしかに目で活字を追っているのだけれど、そういう目とは別の目がある。普通は活字を追う目を「肉眼」、活字の提示する意味内容を追う目を「精神の目」と呼ぶかもしれない。けれど、私は、逆のような気がする。活字の「意味内容」そのものを追う目こそ「肉眼」だという感じがする。だからこそ、「主語」が3つも出てくるから、目が疲れるのだ。精神的に疲れるというより、ほんとうに目が疲れる。これは、私の実感である。
しかし、不思議なことに、「主語」がいくつも登場する小説、たとえばカズオ・イシグロの『夜想曲集』を私は読んだけれど、これは疲れない。登場人物(主語)は複数なのに、疲れない。
何が違うのか。「主語」の性質が違うのだ。松尾の今回の詩集の冒頭の作品に、
という1行がある。そして、21ページには
という1行もある。「多面体」がキイワードである。松尾は「主語」を3つ書いているのではない。ほんとう(?)の「主語」は書かれておらず、そのほんとうの「主語」が「多面体」として描かれているのだ。描かれた多面体のそれぞれの面(主語)を読者が統一して読者自身で多面体をつくらなければならないのだ。
3つにみえても、実は「ひとつ」である。最初に松尾の書いていることばの「主語」は「ひとつ」ではないと書いたが、実は「ひとつ」であり、それが「ひとつ」に見えないのは、それが「多面体」だからである--と言いなおさなければならない。
多面体は(たとえばミラーボールは)、光を受けてきらきらと乱反射する。目が痛くなるときがある。発光体が多面体でも同じかもしれない。多面体の面の数が文字通り多くなると、さっき見た面といま見ている面が、違ったものか同じものであるかわからなくなる可能性もある。あ、ほんとうにこれは、私のような病み上がりの人間にはつらい本である。
いちばん簡単に引用できる(読み通すことができる)冒頭の作品で、松尾の「多面体」についての感想を書いておく。
さらにまた、
とても接近した「多面体」の「面」がある。
「溶けゆくものと消え去るもの」。たとえばその「もの」を「雪」と仮定すると、雪は溶けてゆき、消え去る。それは同じことを意味している。しかし、微妙に違う。隣接した意味ではあるけれど、微妙に違っている。そこには多面体の「小さな角度」を見ることができる。
他方、かけ離れた「多面体」の「面」がある。
「無毒と有毒」。これは「多面体」の「反対」の「面」である。いわば出会うことのない「面」である。隣接しないことが、この「多面体」を「意味的構造」である。意味的には「無毒」と「有毒」は反対のものだから、「溶けゆくもの」と「消えさるもの」のようには隣接しない。「多面体」の「角度」をつくらない。
はずである。
はずであるけれど、それは「意味構造」にしばられるからそう感じるだけであって、隣接することは可能である。実際、松尾は「溶けゆくものと消えさるもの」も「無毒と有毒」も同じ「と」ということばで結びつけている。
「意味」ではなく「ことば」そのものは、どんなものでも隣接させることができる。そしてそこに「角度」をつくりあげ、その繰り返しによって「多面体」をつくることができる。
こう考えれば、よくわかるかもしれない。
「溶けゆくものと消えさるもの」が作り上げる角度(多面体の面の角度)と「無毒と有毒」の作り上げる角度は、実際には何度? わからない。「意味的」には前者の角度はなだらか(水平に近く)、後者は鋭角と考えてしまいそうだけれど、それがほんとうにそうなのか「目」でみることはできない。
「目」で見えないからこそ、その「見えない」ものが、「見えないもの」を見る「精神」に問いかける。いまの考え方でいい? でも精神は答えられない。自分が知っている「意味」から判断すれば、「溶けゆくものと消えさるもの」のつくりだす角度はゆるやかで「無毒と有毒」がつくりだす角度は鋭角だが、詩というものは、だいたい既成の意味を破壊していくものだから、常識(?)にもとづいて角度を云々してもはじまらない。
さらに、松尾の多面体は、簡単に角度が想像できる(? 思い描くことができる?)ものだけではない。たとえば
この1行はどうだろう。
「……であり、……であり」というのは並列の表現である。「と」と同じようにことばを結びつける。
「狂暴」と「獰猛」は私にはきわめて近い「概念」である。ところが「瀕死」は「狂暴」や「獰猛」そのものとは無関係である。とおい「概念」である。しかし、私はしばしば「狂暴」なものや「獰猛」なものが「瀕死」の状態にあるのを見たことがある。そして、そういうときおだやかなものの「瀕死」よりも、「狂暴(獰猛)」なものの「瀕死」の方がリアルに感じられることがある。とおい概念であるけれど「肉体」の印象としては「狂暴(獰猛)」は「瀕死」にとてもよく似合う(?)のである。
だから、狂暴、獰猛、瀕死が結びつきながら、どんな「角度」をつくるか、やっぱり想像できなくなる。
だから。(というのは、論理の飛躍だし、いいかげんな言い方だけれど。)
松尾のことばは複雑な「多面体」としての「ひとつ」の存在である。「主語」がいくつか登場し、それぞれがそれにふさわしい修飾語で自身を飾り、それによって多面体の表示いうがさらに複雑になる--としか言えない。
でも、ひとつつけくわえたい。
「多面体」の「接着剤」について。
詩集の冒頭の詩は、まあ、よくわからないしてあるけれど、特に4行目が私にはわからなかった。というか、わからないことばがあった。
「感じていって」の「いって」って、どういうこと? 「感じて」では意味をなさない? いや、そんなことはない、と思う。
無毒と有毒。その対立する概念は、無毒と有毒のあいだにある「空気」を刺戟する。空気は乾いている。(親密なものは湿っていて、対立するものは乾いている--というふうに考えることができる。松尾の皮膚感覚は、そんなふうに世界をとらえていると思う。)そして、空気は乾いていれば火は激しく燃える。「乾いた空気を感じて火はもっと激しく燃える」で「意味」は成り立つ、と思う。
けれども、松尾は「感じていって」と書く。この「いって」は何?
「いって」は「行って」であり、運動である。「感じる」で動詞の動きが終わるのではなく、感じて、さらにもっと感じて、感じれば感じるほど--という同じ動詞の繰り返しが「いって」のなかにあるのだ。加速する動詞が、ここにはあるのだ。
この「加速する動詞」が「多面体」の接着剤であり、松尾の「肉体」であり、「思想」だ。
ことばは類似したことばに後押しされてスピードをあげ、反対のことばに出会って、立ち止まるのではなく、それをジャンプしつつ加速するか、あるいは反対のことばの力を借りて方向転換し、反対のことばのエネルギーでさらに加速する。どこまでもどこまでも、その運動がつづく。
それが松尾の詩である。
松尾真由美の詩はちょっと読みづらいところがある。『雪のきらめき、火花の湿度、消えゆく蘂のはるかな記憶を』というタイトルが象徴的だが、そこに書かれているものが「ひとつ」ではないからだ。「雪」「火花」「蘂」と3つの「主語」が出てくる。目がちらついてしまう。私は9月の下旬に目の手術をした。その後遺症というか、回復過程で、左目と右目の焦点があわない。そういう人間には、「主語」が3つも出てくるタイトルは、どうにも目がちらついてしまう。
あれっ、「主語」がいくつであろうと、本のページの上では同じ活字、目で見るのは活字(文字)だから、その活字が何をあらわしているかという「意味」と目のちらつきは関係がないんじゃないか。活字の大小(ポイントの大きさ)は影響しても、そこに書かれている内容は目に影響しないのではないか--たぶん、そういう疑問を、この文章を読んだひとは持つかもしれない。
私も、かつてはそう考えたかもしれない。
ことばを読む、活字を読む。そのとき目に影響するのは活字の大きさ、活字の組み方、部屋の明るさが関係するだろうけれど、活字が指し示すもの(対象、意味)は無関係だと思っていた。「主語」の数など関係ないと思っていた。
ところが、そうではない。
本は「視力検査表」ではないのだ。そして目が見るのは「活字」だけではないのだ。たしかに目で活字を追っているのだけれど、そういう目とは別の目がある。普通は活字を追う目を「肉眼」、活字の提示する意味内容を追う目を「精神の目」と呼ぶかもしれない。けれど、私は、逆のような気がする。活字の「意味内容」そのものを追う目こそ「肉眼」だという感じがする。だからこそ、「主語」が3つも出てくるから、目が疲れるのだ。精神的に疲れるというより、ほんとうに目が疲れる。これは、私の実感である。
しかし、不思議なことに、「主語」がいくつも登場する小説、たとえばカズオ・イシグロの『夜想曲集』を私は読んだけれど、これは疲れない。登場人物(主語)は複数なのに、疲れない。
何が違うのか。「主語」の性質が違うのだ。松尾の今回の詩集の冒頭の作品に、
それら多面体の残骸よ
という1行がある。そして、21ページには
ふくよかでいたいたしい多面体の鉱物を見つめている
という1行もある。「多面体」がキイワードである。松尾は「主語」を3つ書いているのではない。ほんとう(?)の「主語」は書かれておらず、そのほんとうの「主語」が「多面体」として描かれているのだ。描かれた多面体のそれぞれの面(主語)を読者が統一して読者自身で多面体をつくらなければならないのだ。
3つにみえても、実は「ひとつ」である。最初に松尾の書いていることばの「主語」は「ひとつ」ではないと書いたが、実は「ひとつ」であり、それが「ひとつ」に見えないのは、それが「多面体」だからである--と言いなおさなければならない。
多面体は(たとえばミラーボールは)、光を受けてきらきらと乱反射する。目が痛くなるときがある。発光体が多面体でも同じかもしれない。多面体の面の数が文字通り多くなると、さっき見た面といま見ている面が、違ったものか同じものであるかわからなくなる可能性もある。あ、ほんとうにこれは、私のような病み上がりの人間にはつらい本である。
いちばん簡単に引用できる(読み通すことができる)冒頭の作品で、松尾の「多面体」についての感想を書いておく。
さらにまた、
溶けゆくものと消えさるもの
あわい雪の日々から陽炎の声を生みだす冬の相聞に抱かれてみる
無毒と有毒、乾いた空気を感じていって火はもっと激しく燃え、
望んでいるかもしれない 滅ぶことを、訪うことを、
つめたく軽やかな浮遊物がここでまかれ、
狂暴であり、獰猛であり、瀕死であり、
それら多面体の残骸よ
いずこへ……
とても接近した「多面体」の「面」がある。
「溶けゆくものと消え去るもの」。たとえばその「もの」を「雪」と仮定すると、雪は溶けてゆき、消え去る。それは同じことを意味している。しかし、微妙に違う。隣接した意味ではあるけれど、微妙に違っている。そこには多面体の「小さな角度」を見ることができる。
他方、かけ離れた「多面体」の「面」がある。
「無毒と有毒」。これは「多面体」の「反対」の「面」である。いわば出会うことのない「面」である。隣接しないことが、この「多面体」を「意味的構造」である。意味的には「無毒」と「有毒」は反対のものだから、「溶けゆくもの」と「消えさるもの」のようには隣接しない。「多面体」の「角度」をつくらない。
はずである。
はずであるけれど、それは「意味構造」にしばられるからそう感じるだけであって、隣接することは可能である。実際、松尾は「溶けゆくものと消えさるもの」も「無毒と有毒」も同じ「と」ということばで結びつけている。
「意味」ではなく「ことば」そのものは、どんなものでも隣接させることができる。そしてそこに「角度」をつくりあげ、その繰り返しによって「多面体」をつくることができる。
こう考えれば、よくわかるかもしれない。
「溶けゆくものと消えさるもの」が作り上げる角度(多面体の面の角度)と「無毒と有毒」の作り上げる角度は、実際には何度? わからない。「意味的」には前者の角度はなだらか(水平に近く)、後者は鋭角と考えてしまいそうだけれど、それがほんとうにそうなのか「目」でみることはできない。
「目」で見えないからこそ、その「見えない」ものが、「見えないもの」を見る「精神」に問いかける。いまの考え方でいい? でも精神は答えられない。自分が知っている「意味」から判断すれば、「溶けゆくものと消えさるもの」のつくりだす角度はゆるやかで「無毒と有毒」がつくりだす角度は鋭角だが、詩というものは、だいたい既成の意味を破壊していくものだから、常識(?)にもとづいて角度を云々してもはじまらない。
さらに、松尾の多面体は、簡単に角度が想像できる(? 思い描くことができる?)ものだけではない。たとえば
狂暴であり、獰猛であり、瀕死であり、
この1行はどうだろう。
「……であり、……であり」というのは並列の表現である。「と」と同じようにことばを結びつける。
「狂暴」と「獰猛」は私にはきわめて近い「概念」である。ところが「瀕死」は「狂暴」や「獰猛」そのものとは無関係である。とおい「概念」である。しかし、私はしばしば「狂暴」なものや「獰猛」なものが「瀕死」の状態にあるのを見たことがある。そして、そういうときおだやかなものの「瀕死」よりも、「狂暴(獰猛)」なものの「瀕死」の方がリアルに感じられることがある。とおい概念であるけれど「肉体」の印象としては「狂暴(獰猛)」は「瀕死」にとてもよく似合う(?)のである。
だから、狂暴、獰猛、瀕死が結びつきながら、どんな「角度」をつくるか、やっぱり想像できなくなる。
だから。(というのは、論理の飛躍だし、いいかげんな言い方だけれど。)
松尾のことばは複雑な「多面体」としての「ひとつ」の存在である。「主語」がいくつか登場し、それぞれがそれにふさわしい修飾語で自身を飾り、それによって多面体の表示いうがさらに複雑になる--としか言えない。
でも、ひとつつけくわえたい。
「多面体」の「接着剤」について。
詩集の冒頭の詩は、まあ、よくわからないしてあるけれど、特に4行目が私にはわからなかった。というか、わからないことばがあった。
無毒と有毒、乾いた空気を感じていって火はもっと激しく燃え、
「感じていって」の「いって」って、どういうこと? 「感じて」では意味をなさない? いや、そんなことはない、と思う。
無毒と有毒。その対立する概念は、無毒と有毒のあいだにある「空気」を刺戟する。空気は乾いている。(親密なものは湿っていて、対立するものは乾いている--というふうに考えることができる。松尾の皮膚感覚は、そんなふうに世界をとらえていると思う。)そして、空気は乾いていれば火は激しく燃える。「乾いた空気を感じて火はもっと激しく燃える」で「意味」は成り立つ、と思う。
けれども、松尾は「感じていって」と書く。この「いって」は何?
「いって」は「行って」であり、運動である。「感じる」で動詞の動きが終わるのではなく、感じて、さらにもっと感じて、感じれば感じるほど--という同じ動詞の繰り返しが「いって」のなかにあるのだ。加速する動詞が、ここにはあるのだ。
この「加速する動詞」が「多面体」の接着剤であり、松尾の「肉体」であり、「思想」だ。
ことばは類似したことばに後押しされてスピードをあげ、反対のことばに出会って、立ち止まるのではなく、それをジャンプしつつ加速するか、あるいは反対のことばの力を借りて方向転換し、反対のことばのエネルギーでさらに加速する。どこまでもどこまでも、その運動がつづく。
それが松尾の詩である。
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