町田康「気持ちを動作に押し込めて」(「びーぐる」5、2009年10月20日発行)
きのう、谷川俊太郎の作品に触れながら、
谷川の少年を描写することばは谷川の「肉体」に働きかけ、谷川を「少年」に整え(?)、そこから少年の現実を動かしはじめる。
と、書いた。こういうことは、谷川にかぎらず、たぶん多くの作家(詩人)に共通することなのかもしれない。ことばで「肉体」の動きを描写する。そうすると、その「肉体」が「こころ(気持ち)」を整え、そこからことばが動きはじめる。そのことばによって「現実」が生まれ変わる。生まれ変わった「現実」がその前にひろがり、そこから、いままでとは違ったものが動きはじめる。
その何か、生まれ変わった「現実」の姿は、最初から予想していたものではない。まったく予想外のことである。だからこそ、詩人・作家は、そのことばを追いかけながら「現実」を知る。
町田康「気持ちを動作に押し込めて」は、そんなふうにしてことばが動いていく。
気持ちを動作に押し込めて
一匹の犬のことを思っている
このとき、町田は(と、仮に呼んでおく--話者が町田であるといっていいかどうか、わからない。それは町田がつくりあげた架空の登場人物かもしれない。いや、きっとそうなのだと思うのだが……)、まだ犬の姿を思い浮かべていないと思う。
1行目の「動作」も実はどんな動作かはっきりしていない。谷川は「みちばたにぼくはしゃがんでいる」(しゃがむ)と具体的な動作で書きはじめていたが、町田にはその具体的な動作がない。動作が具体的ではないから「気持ち」も具体的ではない。まだ、何も決まっていない。ただ、「気持ち」をことばにするには、「気持ち」を「動作」をとおして描写しなくてはならない。(作家の、文章作法の基本ですね。)だから、そうしようと思っている。けれど、「動作」も「気持ち」も決まっていない。
一匹の犬のことを思っている
と書いているが、その犬はまだ想像力のなかにすら存在しない。犬ということばしかない。犬のことを思っているのではなく、犬のことを思おうとしている--そんなふうにしか、私には感じられない。
犬のことを思い、その気持ちがあふれているなら、わざわざ「気持ちを動作に押し込めて」と抽象的には書かないだろう。自然に、その具体的な「動作」、たとえば「しゃがんで」という動作が描写されるはずである。
どんな動作も存在しない。どんな気持ちも存在しない。
そこから出発して、「気持ち」をつくっていくのだ。
その犬はベリーキュートで
街を歩けば甲乙人が押し寄せ
写真撮影をせがまれた
あ、いいなあ。「その犬はベリーキュートで」。なんて気楽な(?)、明るい展開だろう。
ほんとうに「ベリーキュート」なら、「気持ち」なんか「動作」にこめなくたっていい。
町田が書いているように、「ベリーキュート」なら、ひとは思わず犬に近づいていく、という「動作」をとる。それから「写真撮影」という「動作」をとってしまう。「動作」のなかには、自然に「気持ち」がこもっている。「気持ち」は「動作」のなかに「押し込める」ものではなく、「動作」と一体となって、自然にそこに存在している。
でも、そんな「気持ち」はつまらない。
自然発生(?)的な「気持ち」ではなく、自分で「気持ち」をつくりたい。新しい「気持ち」をつくりだして、それを動かしてみたい。
町田の欲望は、そこにある。
飼い主のおっさんはそのことが自慢で
ことあるごとにその犬を連れ歩いた
ことに若い女がきゃあきゃあ言うのが
おつさんは実にうれしかつた
(谷内注・「おっさん」「おつさん」と表記が乱れている。「きゃあきゃあ」
も別な場所では「きやあきやあ」となっている。誤植と思われるが、そのま
ま引用した。以後も同じ。)
この展開のなかで、1行目の「気持ちを動作に押し込めて」が消えてしまう。
「どんな気持ち」を「どんな動作」に押し込めて、この4行を書いたのだろう。私には想像がつかない。「気持ち」も「動作」も消えてしまって、そこには、「おつさん」と「犬」と「若い女」がいるだけである。まあ、「おつさん」には「うれしい」という「気持ち」がある、「若い女」には「犬がベリーキュート」という「気持ち」があると考えれば考えられるけれど、そんなことは考えないなあ。
私は。
しかーし。
しかれども。
いいなあ。ほんとうに、いいなあ。この2行は、私のことばではなく、町田のことばなのだが、数行前に、「私は。」とぶつんと切れたことばを書いた私も、実は、ここで「しかーし。/しかれども。」と思っているのである。
しかーし。
しかれども。
その犬は難病であった
不治の病にかかつていたのであつた
そのように長いこと座りをし
多くの人と記念撮影をすることが
犬の命を削つた
またまた飛躍する。「おつさん」の「うれしい」も「若い女」の「きやあきやあ」(と先取りして、ここでは「や」をつかっておく)も、完全にかき消されてしまう。そんなものは、あったことさえ忘れてしまう。
しかし、おつさんは
単純化した哲学と図式化した宗教を
相撲取りが突つはりをするように
互い違いに繰り出して
摺り足で街を進んでいつた
あらら、こんどは、なんともしれぬ「気持ち」(単純化した哲学と図式化した宗教)が突然登場してくる。変な「動作」も出てくる。「相撲取りが突つはりをするように/互い違いに繰り出して」。何だろう、これは。「摺り足で街を進んでいつた」もなんだろう。なんだろうを、ひっくりかえすように(?)して、あれ、「相撲取りが突つはりをするように/互い違いに繰り出して」というのは、哲学と宗教のこと? それとも摺り足のこと? わからない。両方をひっくりめて修飾していることば? わからない。
あ、この、「わからない」が大事なんだなあ。
「気持ちを動作に押し込めて」って、ほんとうは、こういうことかもしれない。どこからが「気持ち」、どこからが「動作」なんて、わからない。それはいっしょになってしまって、ぐちゃぐちゃになって、人間を動かしている。ぐちゃぐちゃになっているから、ときどき、これは「これこれの動作」、これは「これこれの気持ち」と、ことばでわけて、ようやくなんだかわかったような気持ち(これは、どんな気持ち?)になっているだけだ。
わからないものにぶつかりながら、わからないものをわからないまま、ことばで浮き上がらせる。「気持ちを動作に押し込める」のではなく、「気持ち」と「動作」を浮き上がらせようと、懸命にことばを動かす。
なんだか奇妙な逆転--矛盾。
ここに町田のことばのおもしろさがある。
いつでも思想は「矛盾」と結びついて、そこに存在している。「矛盾」のなかに、「思想」がある。
得意顔で
疲労困憊して
それでも飼い主のために笑つている犬を連れて
若い女にきやあきやあ言われながら
正義の微笑を浮かべて
どこまでもどこまでもどこまでも
犬が死んでも
気がつかずに
どこまでもどこまでも
進んでいくのであつた
雲が空に流れていく
人間の秋
動物の終わらない冬
どんどんどんどん変わっていく。「どこまでもどこまでも」変わっていく。とても楽しい。
町田の「思想」はたぶん「しかーし。/しかれども。」を「どこまでもどこまでも」つづけて行くことである。ことばを動かして行くことである。
振り返って作品を読み返すと、よくわかる。「しかーし。/しかれども。」は1回しか書かれていない。けれども、そこには書かれない形で(私がいつも書いていることばで言えば、「無意識」のうちに、「肉体」の内部で書いてしまっているので、表面には出でこない形で)何回も書かれている。何回も、そのことばを補って読むことができる。補っても不自然にはならず、逆に、補うと「思想」がよくみえる。そういう箇所がある。
「犬の命を削つた/しかし、おつさんは」という行間には「しかーし。/しかれども。」がある。(「しかし、」ということばは、その一部を引き受けて書かれている。)おなじように、「摺り足で街を進んでいつた/得意顔で」の行間にも「しかーし。/しかれども。」が静かにしのびこんでいて、それが「正義の微笑」というものをあぶりだし、「しかーし。/しかれども。/犬が死んでも/気づかずに」と動いていく。「どこまでもどこまでもどこまでも」は「しかーし。/しかれども。」の変形なのである。
2回出てくる「どこまでも」の繰り返しは「しかーし。/しかれども。」に置き換えてみると、ね、寂しい気持ちになるでしょ?
そして、そのとき突然、あ、「気持ちを動作に押し込めて」人間は生きている--と気がつく。どこまでもどこまでも「気持ちを動作に押し込めて」人間は同じことを繰り返している。その反復のなかに、反復のずれのなかに、いのちの寂しさが見えてくる。そんなことに気づかされる。
誰も(というと、反論があるかもしれないけれど、少なくともすぐれた作家・詩人は、誰も)、自分の書いていることばがどこへ動いていくか知らない。知らないまま、そのことばに導かれて動いて行ってしまう。知らずに動いて行って、不思議なものに突き当たってしまう。
この不思議なもの--それをどう表現していいかわからないけれど、そういうものに突き当たるまで、知らず知らずに引っ張られて行くとき、引っ張られながらそのことばを読み終えたとき、なんとなく、うれしい。うれしくて、感想が書きたくなる。