詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

吉野令子「抒情詩」、廿楽順治「化城」

2009-12-08 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
吉野令子「抒情詩」、廿楽順治「化城」(「現代詩手帖」2009年12月号)

 きのう読んだ鈴木志郎康「笑う青首大根」について書いたこと、そのことばが岡井隆の「文体」に吸収されてしまう--ということは、たぶん、鈴木には心外だろうと思う。鈴木は鈴木で独自の文体を追求している。他人の文体に吸収されてたまるか、と。それはそうだと思う。そしてまた、鈴木の文体の独自さについて書かなかったことを申し訳なくは思うけれど、それでもやはり私は、どんなにあがいても鈴木の文体は岡井の確立した文体の一部として感じてしまう。岡井の文体に触れたあとでは。
 それは鈴木の詩に対してだけではない。ことばの運動を自覚的に確立しようとしているほとんどすべての詩に、同じことを感じる。
 たとえば、吉野令子「抒情詩」。(初出は、『その冬闇のなかのウェーブの細片の雪片』2008年11月発行)

このはるがつもるからこのはるがつもるから ごごのじごとははやめにきりあげよう そしてすみれいろの麗かなひかりのなかにさんさんごご集まり くるまざになってくるまざになってうたううたううっとりとうたうのだ おりしも輪のなかからばくおんがひびき 輪のちゅうしんのてれびじょんのぶらうんかんに せめられるさばくの血しぶきがちる くろいくもとともに血がひろがってゆく ばくげきはあたしたちのあずかりしらないわけではじまったとなみだごえでつぶやくつぶやく

 ことばが繰り返される。これは単に繰り返しているのではない。「注解」しているのだ。反芻することで、そのことばの内部へはいっていく。そして、そのことばの内部へはいっていくと、最初のことばから徐々に「ずれ」ていってしまう。うららかな春の午後、ひとが集まり歌っている。テレビを見ている。そのテレビに中東の戦争が映し出される。
 そして、

ばくげきはあたしたちのあずかりしらないわけではじまった

 という思いにつながっていく。
 ことばは、そんなふうにつながっていかなくてもいい。けれども、つながってもいい。つながってしまうとき、そこに「思想」が生まれる。いま、ここ、春の日本(おそらく)と中東(おそらく)の戦争は、出会うべきものではない。「てれび」がなければつながらない。その、出会うべきものではない(実際に、「肉眼」でもくげきしているのではない。そこに直接「肉体」が関与してむすびついているわけではない)ものが、ことばをとおして出会い、そこに「文体」をつくりあげる。その「文体」にとまどいながら、それを「文体」に完成させるために吉野は「繰り返し」という方法をとっている。
 言い換える。ほんとうは、言い換えたいのだ。しかし、ことばを変えてしまうと、それは違ったものになる。ことばを変えずに、言い換えたい。それは、最初に言ったことばを、そのことばのもっている「内容」を変更したいということでもある。
 そんなことはできない。同じことばを繰り返されたのでは、単なる「リズム」しかうまれない。
 それでも、そんなふうに書く。これは、最初のことばを、繰り返した同じことばで「注釈」するしかない。そのときの、いらだち(?)というか、どうすることもできない「矛盾」が次のことばを誘っているのだ。ほんとうは。
 繰り返さなかったら、うららかな春の午後は中東の爆撃へはつながらない。うららかな春のなかにいて、それに対する「違和感」を明確にしようとして、いまここにある「同じことば」で「注解」する。なんとか前のことばをこじ開けようとする。その「矛盾」をなんとかするために、次の行のことばが誘い込まれているのだ。
 現実があって、それをことばがなぞっているのではなく、現実を秒したことばを意識のことばが「注解」する。その「注解」のための「資料」のように(文献のように)、遠くにあるもの(いま、ここにないもの、--テキストそのものから別のところにあるもの)が誘い込まれ、誘い込んだことばと、いまの現実が出会って、ことばが揺れ動く。そういう運動のために、いま、ここにあるのではない「文体」が誘い込まれているのだ。
 いま、ここ、春の日本という「文体」と、中東の戦争という「文体」が強引に(?)結びつけられ、新しい「文体」になろうとしている。生まれ変わろうとしている。吉野は、そういう産婆術を、ここではやっている。

 私の書いていることは、「誤読」である。吉野の書いていることから「逸脱」している。--たしかに、逸脱している。誤読している、と私は思う。思うけれど、どうしても、「誤読」せずにはいられない。
 そういう「誤読」へと導いてしまう力を岡井の「文体」はもっている。「注解」の「文体」は、すべてのことばの地平と射程を変更させてしまう。だから、私は岡井の詩集は「大事件」である、というのだ。



 廿楽順治「化城」。(初出「酒乱」2号、2008年12月発行)

それから
われわれは語り合った
木になるまで
なんであんなになぐりあったのか
あんなあほうに
おれのいたましい遠近感がわかってたまるか
青春がぬれちゃって
ひとのはげ頭に貼りついている
かぞえきれない金色のはだかがきみがわるい
(汗までかいているよ)

 唐突にあらわれる「自己」。「あんなあほうに/おれのいたましい遠近感がわかってたまるか」などと言われても、だれも「あなたのいたましい遠近感」なんてわかりっこない。
 この「わかりっこないもの」が「注解」である。「注解」というと、「わかる」ための資料、材料と考えがちだが、それは「間違い」。
 「テキスト」を「注解」するひとは、いつだって「テキスト」だけを分析するわけではない。テキストのことばだけをつかうわけではない。たいてい、どこからか「テキスト」にとっては「他者」にあたるものをもってくる。
 「ここに書かれているこれこれについて、誰それという学者はこんなふうに解説している云々」などというのがいちばん安直な「注解」だが、その誰それの書いた解説というのはテキストにとっては「他者」である。
 吉野は、「注解」を「他者」ではなく、つまり別なところにあることばではなく、同じことばを繰り返すことで突き破ろうとして「肉体」を鍛えているが、それは「特例」。たいていは、よそから別のことば(他者としてのことば)をもってくる。
 廿楽は、そうした「注解」のあり方を逆手にとって、「他者」から隔絶した「自己」をぶつける。誰も知らない「自己」は「他者」から見れば、完全な「他者」である。
 「他者」の闖入、「他者」の強引な(?)結合--そこからはじまる「文体」の化学反応のようなもの。そこに詩がある。いままで存在しなかったことばの運動がある。
 そう考えると、ほら、廿楽のやっていることも、岡井のやっていることの「一部」に見えてくるでしょ?
 もちろん厳密には廿楽の「文体」と岡井の「文体」は違っている。違っているけれど、「文体」をどう鍛えていくか。「他者としての文体」をどう組み込みながら全体を構築するかというところへ詩が向かっているという点では同じものになる。

 「おれのいたましい遠近感」というようなことば、そして(汗までかいているよ)という唐突な口語の衝突、乱入--その組み合わせ方も、岡井の、「文語文献」(? 学術文献」と日常の「家庭会話」の「同居」に通い合うものがある。
 繰り返しになるが、もちろん廿楽の「文体」と岡井の「文体」は違う。けれども、「基底」は同じ。岡井が、ことばの運動を測る基準を、そこまで拡大してしまったいまとなっては、と私は思うのだ。
 「文献」も「日常会話」もなにもかも、いくつもの「ことばの地層」を即座に粘着力のある「文体」で結合させ、ことばの運動を自在に展開する岡井。その「文体」は太古から現代までの「地層」の深さと、広大な地平をもっている。

 そこには、とんでもない「自由」がある。みたこともない「自由」がある。ほんとうに「大事件」なのだ。岡井の詩集は。



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