詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

向井由布子「履く人が一番輝く靴を探し当てたい」

2009-12-02 20:39:52 | その他(音楽、小説etc)
向井由布子「履く人が一番輝く靴を探し当てたい」(「読売新聞」2009年12月02日夕刊=西部版)

 読んだ瞬間、意味は分かるのになんだか奇妙、背中がむずむずすることばがある。映画「ゼロの焦点」の出演者が話す金沢弁、能登弁の鼻濁音なしのことばもそうだが、書きことばにもそういうものがある。
 向井由布子「履く人が一番輝く靴を探し当てたい」は靴店主・吉田恵さんを紹介した記事。事故でひざ下を失った吉田さんが、すばらしい義足に出会い、靴に目覚め、靴店を経営するにいたった経緯を書いている。タイトルになっているのは吉田さん自身のことばだ。

 「心地よさは当たり前。履く人が一番輝く靴を探し当てたいの」

 意味はわかる。こころもわかる。でも、何か変。
 どこが変か。私なら次のように言う。

 「履いた人が一番輝く靴を探し当てたい」

 「履く人」ではなく「履いた人」。たぶん、これから履くのだから「履いた」と過去形にするのはおかしい、ということなのかもしれない。
でも、そうかなあ。
 「履いた人が一番輝く靴を探し当てたい」というときの「履いた」は「過去形」ではないのではないかな。「履いた(状態の)時に」という「仮定形」から「状態の時に」を省略した形。西欧文体(フランス語やスペイン語など)でいえば「接続法」になるのではないか。日本語には「接続法」という概念はないようだけれど。

 あるいはこれは「九州弁」の一種かもしれない。
 あるとき本屋で「○○はありませんか」と聞いて「本屋に、ありませんかとは何事だ。ありますか、だろう」と叱られたことがある。びっくり。

 語感の問題だけれど、語感が大事――と私は思う。


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犬童一心監督「ゼロの焦点」(★)

2009-12-02 10:48:33 | 映画
監督・脚本 犬童一心 出演 広末涼子、中谷美紀、木村多江、西島秀俊、鹿賀丈史

 どこで撮影したのだろうか、雪の金沢は美しく撮れていた。一瞬の映像だけだが、そこだけがこの映画のいいところであった。
 あとは、まったくだめ。映画になっていない。
 小説は、これこれのことは実はこうでした--という説明があってもいい。読者はページをめくり直して、その伏線、その細部をもう一度読み返すことができる。けれど、映画、あるいは芝居では、実はこうでした、というのは「反則」である。実はこうでしたという説明のすべてがいけないわけではないが、その実はこうでしたということがらは、役者がスクリーンに映ったときから存在していなくてはならない。「過去」を背負っていなければならない。
 この映画には3人の女が登場する。
 広末涼子がまったくなってない。広末の役どころは他の2人と比べると「過去」を背負っていない。不幸がない。だからこそ、重要である。「過去」のない女がなぜ男に執着するか。大恋愛の末に結ばれた結婚ではない。見合いで、なんとなくひかれて結婚して、新婚1週間。その女が、行方不明になった男を探しにひとりで金沢へ行く。そうした行動に駆り立てる「過去」、男を愛しているという気持ちがどのシーンからもまったくあふれて来ない。男との見合いや、温泉でのキスシーンのことではない。そのシーンも感情が希薄だが、男がいなくなってからがもっとひどい。男がいないことによって、その「空白」に向かってあふれだすものがないとこの映画は成立しないのに、広末は単にストーリーの狂言回しになっている。いや、狂言回しにさえなっていないというべきかもしれない。
 クライマックス(?)で末広が事件の全容を推理するシーンなど、単なる種明かしである。中谷美紀と木村多江の演技を殺してしまっている。(そこに演技というものがあると大目にみてのことだが……。)それに、もうひとりの重要人物、鹿賀丈史の「自殺」への推理(?)というか、種明かしは放り出したまま。だれかを愛する、愛することで自分が自分でなくなってもいい、というような「過去」がないから、そこでおこなわれていることは、全部、末広の「私って、純真だから、ね、かわいいでしょ」に終わってしまっている。私は一度も広末を「かわいい」とか「美人」と思ったことはないけれど……。だからこそ、その演技にぞっとするのかもしれないが。

 この映画を無残にしているもうひとつの要素に、発音がある。舞台は金沢。能登。そこでは「が行」は「鼻濁音」である。木村多江はかろうじてイントネーションは再現していたが、やはり鼻濁音でつまずいている。他の役者たちも、そろって鼻濁音を発音しない。一生懸命、金沢、能登のイントネーションをまねてはいるけれど、とても耳障りだ。不自然だ。いっそう方言などまじえずに、標準語(?)で台詞を言えばいいのである。
 映画にしろ、芝居にしろ、ことばで大事なのは「意味」ではなく、「音」そのものである。「音」が肉体にしみついているかどうかである。「喉」から声がでているかどうかではなく、たとえば目付き、たとえば指先から声が聞こえるかどうかである。そういうとき、「まね」によって作り上げた声は、ほんとうに「他人」とかさなっていないと、少しのずれからどんどん亀裂がはいっていって、肉体そのものをも壊してしまう。音と肉体が分離して、そこにストーリーだけが「活字」のように浮かび上がり、肝心の「芝居」(役者の肉体)が消えてしまう。


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福島敦子「空」、石川和広「休息」

2009-12-02 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
福島敦子「空」、石川和広「休息」(「tab 」19、2009年11月15日発行)

 福島敦子「空」の書き出しがとてもおもしろかった。

空が高くて泣いた
空が大きくて泣いた
泣いていたら疲れてくるので
疲れ果てるまで泣いた
破れたこころの穴にざわざわ水が押し寄せて
あふれ出した
しょっぱくてそれは
海の水だと気づいた
どうしてこんなときも海とつながっているの

 「空」から「海」への移動が自然で、その自然であることが「どうして」と思わずにいられない不思議さ。このことばの動きには、まったく無理がない。無理がないのに、不思議にたどりつく。
 たぶん。
 「海の水だと気づいた」の「気づいた」がとても効果的なのだ。「気づいた」とき「気持ち」が少し動く。「泣いた」とき、泣いているときの「気持ち」が少し「泣く」から動いている。そして、その「動き」に押されて「どうして」という疑問に思うこころが動く。
 この動きがあるから、次の展開も生まれる。

歩くとたぷんたぷん揺れて
海を運んでいるみたい
私が歩く
海が歩く

 とてもいい感じだ。
 私は、いま、悲しいことがあるわけではないが、泣きたいことがあるわけではないが、空を見上げながら、泣きながら歩いてみたい気持ちになる。歩くたびに、私の肉体のなかで海が「たぷんたぷん揺れて」、海を運んでいる感じ、海が歩いている感じを味わってみたい--そんなことを、唐突に思った。



 石川和広「休息」は、ちょっと深刻そうにはじまる。深刻そうだけれど、そうでもないかもしれない、という矛盾した気持ちを浮かび上がらせてはじまる。あいまいだ。

生きていくのに休息なんてない
そう思っていたし、いまもどこかでそう思っている

 「いまもどこかで」の「どこかで」という人ごとみたいな感じが、あいまいで、それがいいのかもしれない。
 この詩の最後。「あいまい」にふさわしい終わり方だ。

「耳かきはなるべくしないほうがいいですか」
「なるべくじゃなくてもうしないほうがいいです」
「耳にも臓器があります。あなたの耳の中の皮膚は弱く炎症を起こしやすくなってます」
検索結果と同じことをいうからたぶん事実なんだと思う
耳にも臓器がある…
耳が死んではいけない 痛めつけてはいけない
当分耳かきは休むことにする

 「検索結果」というのはグーグルの検索結果である。ふつうは、医者が行っていることと同じなんだからネットに書かれていることは事実なんだろう--と思うのだろうけれど、まあ、それは私のような古い人間で、いまの人は、ネットに書いてあることと同じだから医者の言っていることは事実と思うのかもしれない。
 それは、まあ、どうでもいいのだけれど、書き出しにあった「休息」が「耳かき」を「休む」(しない)ことにに落ち着く、その落ち着き方というか--そんなことのためにことばを動かす、というのが、それこそ、どうでもいいような感じで、そのどうでもいいことが、「あいまい」に楽しい。
 途中に「耳にも臓器がある」ということば(事実?)もふいに差し挟まれて。
 そして、読み終わって、ふーんと思ったあと、「耳にも臓器がある」ということばが、なんといえばいいのだろう、ふと一休みするときの「ベンチ」のように感じられるのだ。奇妙な「事実」のたしかさというか、何かたしかなものが、ここで一休みしたらと誘っているような、不思議な安心感がある。
 人は「休息」をするとき、何かたしかな「事実」を必要とする。それがなんであれ、「事実」でないと、たぶん、それによりかかって「休む」ということはできない。「自分のこころ」のどこかに寄りかかるのではなく、「肉体」の外にある「事実」、それに寄りかかって休むとき、「肉体」も「こころ」も、きっと一息つける。
 そんなことを、こころの「どこかで」思った。

永遠さん
福島 敦子
草原詩社

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