詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

及川俊哉『ハワイアン弁財天』

2009-12-10 00:00:00 | 詩集
及川俊哉『ハワイアン弁財天』(思潮社、2009年10月25日発行)

 多くの詩集、というよりすべての詩集といっていいのだが、それは岡井隆の詩集とは無関係に編まれている。書かれている。詩とはもともと完全に個人に属するものだから、だれそれの詩を岡井隆の『注解する者』と結びつけて考える方がおかしいのだが、私はどうしても結びつけて考えてしまいたくなる。そういう強烈な力を『注解する者』は持っている。
たとえば及川俊哉『ハワイアン弁財天』の「ハワイアン弁財天 一」の次の部分。

いま世界にはハワイが足りないの
インドが足りないときも
ロシアが足りないときもあったわ
ローマが必要なときも、フランス不足の時期もあった
でも今はハワイが決定的に不足しているのよ
虹の光が弁財天の声に共振して揺れる
蜜がパンの生地にしみるように
その意味は僕の心にしみひろがり
心をあまく満たしていく
そうか、ハワイが足りなかったんだ
ハワイを配りに行こう
世界にハワイを!

 「いま世界にはハワイが足りないの」。これが「注解」である。「世界」を及川は(弁財天は、と及川は言うだろうか)、そんなふうに見ている。「注解」とは、いわば「手引き」である。「注解」によって「世界」が見えてくる。「注解」は世界に対するひとつの「見方」を教えるだけではなく、その「応用」(?)も教えてくれる。
 「いま世界にはハワイが足りないの」がひとつの「注解」であるなら、「いま」以外は?という疑問が生まれる。そして、次々に、インド、ロシア、ローマ(なぜか、ここでは一都市)、フランスという具合に、「かつて」が「注解」される。
 このとき、複数の国家、あるいは都市、地域は「多」としてあらわれているが、その「イデア」は「一」である。「足りない」(不足)を照らしだす「力」と仮にその「イデア」を名付けておけば、「一」がそのときそのときに応じて「多」として姿をあらわす--そういう具合に、及川は世界を「注解」する。
 ただし。
 (あ、これからが、岡井隆と及川の違いである。--違いを浮かび上がらせながら、及川を次のように読むことができる、という意味なのだが。)
 ただし、及川の「一」から「多」への運動は、実は、「多」とは無関係である。そこにどれだけ多くの国家、都市、地域がでてきても、それは「一」でしかない。「イデア」というのは、あらゆる存在のなかに存在することができる。どれだけ多くの存在のなかに存在しても、それは実は分割ささて存在するわけではない。「一」が「0・001」ずつに分割されるわけではない。それが「数学」と違うところ。そのつど、言及された存在とともにそこにある。それが「イデア」の存在の仕方。
 もちろん、「イデア」の存在の仕方自体は岡井にとっても同じなのだが、(だれにとっても--プラトンにとっても、という意味だが、それは同じなのだが)、岡井の「文体」が画期的なのは、その「文体」に「他者のイデア」とでも呼ぶべきものがまぎれこむことである。「他者のイデア」と「岡井のイデア」がよりあわさって、ひとつの「世界」をつくることである。
 及川の詩には「弁財天」という「他者」が出てくる--と読むこともできるが、それは「他者」ではなく、「及川のイデア」から派生したものにすぎない。あくまでそれは「及川のイデア」であるから、及川はなんの抵抗もなく、「弁財天のイデア」そのものとして「ハワイを配りに行こう」と言ってしまう。「弁財天のイデア」を生きることが「及川のイデア」の具現化になってしまう。
 岡井の場合は、そんな具合にはいかない。
 さまざまな先人の「注解」、そして家族のひとことの「注解」、テレビ局のひとの「指示」にみえるような「注解」--世界へのかかわり方が、岡井の世界へのかかわり方にからみついてくる。足を引っ張る(?)のか、背中を押すのか、それはちょっと微妙なところだけれど、及川が書いているように「一体」になることはない。「一」を拒絶して、「一」になったようにみせかけながら(たとえばテレビのカメラマンの指示にしたがいながらも)、どうしても「一」になれずに、新しい「多」を生み出してしまう。テレビのカメラマン、ディレクターの指示にしたがいながらも、そこに岡井自身の、それまで考えていたこととは少しずれてしまった(?)ことばが出てくる。「他」にふれて、岡井の「一」が「多」になる。
 それは別のことば、別の視点から言えば、岡井が「他者」のなかに岡井の「一」とは違う「イデア」を見て、それに拮抗して「一」を変更するからである。他者の「一」と岡井の「多」が響きあうのだ。あるいは、他者のなかにさまざまな「一」をみつけ、それを「地層」のように認識しながら、「地層」全体という「一」になるために、岡井は「多」へ踏み出すのだ。
 あるいは、こういうべきか。
 及川は「弁財天」という「一」を信じている。ところが岡井には、そういうふうに信じてしまえる「一」、帰依できる「一」というものをもたない。あるいは拒絶している。岡井は逆に「多」を、その「多」を支えてしまう「一」に拮抗しながら、「多」になることで「一」になろうとしている。

 あ、なんだか、書いていることが、ごちゃごちゃしてきた。
 きっと、いままで書いてきたことと「矛盾」することも書いている。
 これは、強引に言ってしまえば、岡井の「文体」は、私の論理の「矛盾」、あるいは「誤読」を飲み込みながら存在しているということだ。岡井の「文体」について言及すれば、必ずどこかで「矛盾」する。「矛盾」しないで岡井の「文体」を分析することはできない。その魅力を語ることはできない。
 そこには「一」が「多」になり、その「多」になることこそが「一」になるという運動がある。
 及川の運動は「一」が「他」になり、それがそのまま「一」なのだ。あるいは、及川の運動は「弁証法的」統一としての「一」。(これは、多くの詩人に共通する「一」。長が弘の「一」は、それをとても純粋な形でやろうとしている。)
 これに対して岡井は弁証法的統一を拒絶した「一」なのである。あくまで複数であることが「一」なのだ。

 「複数が一である」とか、「多が一である」とか。
 --矛盾しているよなあ。私の書いていることは矛盾している。それは承知している。しかし、そういう矛盾の形でしか言えないことがある。それが岡井の世界なのだ。それが、おもしろい。それが「大傑作」、「大事件」である理由なのだ。



 及川の詩集に戻ろう。
 この詩集は、先に引用した部分が特徴的だが、及川という「一」が「他者」の「注解」に同乗する形で、あるいは「他者」の「イデア」を疾走の加速力にして、つまり「他者」と一体となって世界に新しい「注解」を加えつづける。もっとも「他者」といっても、それは及川自身が生み出した「他者」なので、(先の詩で言えば、「弁財天」は及川が生み出したもの)、それは「一」以外にはありえず、そこでの運動は、真の意味での「他者」の妨害(?)はいっさいなく、ただひたすら加速する。1行目が2行めのスピードを生み出し、それがさらに3行目を駆け抜けさせる。
 「ひかりのその 五」の冒頭。

ひ、ひー。
ひー、ひ、ひー。
ひ、か、
ひ。か、ひ、か。
ひかりの。
ひ、ひかりのその。

 このことばの疾走は、

ひかりの、その
へりかひりか、ひ。
ひかっ。
ひかれる。

 というような、とても美しい音楽を生み出しもする。
 ここにあるのは「発語」という「イデア」である。そんなものがあるとして、のことだけれど。まあ、そんなふうに呼んでみたい--と私が思っているだけだけれど。
 及川は、ここでは完全に「一」である。及川は自分の存在、この詩を疑ってはいない。それが、まあ、魅力といえるんだろうなあ。
 私は、正直言って、目の状態がよくないのでいま引用した行以外は引用するのもつらいし、正確に引用できているかどうかもあやふやなので、簡単に「魅力」と書いて、そこで感想を放り出してしまっているのだけれど。
 (いいかげんで、ごめんね。)



ハワイアン弁財天―及川俊哉×詩集
及川 俊哉
思潮社

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