詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

豊原清明「冬の鵙」

2009-12-05 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「冬の鵙」(「白黒目」20、2009年11月発行)

 豊原清明「冬の鵙」はシナリオである。いつもながら天才としかいいようのないことばの連続だ。ルノワール監督が生きていたら、ぜひ読ませたい。
 夜間高校へ通っている男女。女は宇宙船を見た、と言っている。そのふたりの休憩の時間のやりとり。

真裕子「裕也、おしっこしたい。一緒に行ってくれへん?」
裕也「(パイポが゛落ちそうになって、慌てて)女子トイレ行ったら…。俺、逮捕される。」
真裕子「真っ暗で怖いの。」
裕也「電気つけたらええやないか。」
真裕子」だれもおらへんのよ。」
裕也「俺! 休憩してんねん。朝から工事で汗だらけ。自習もせなあかんやろう真裕子、勉強しよう。」
真裕子「宇宙人がいるの。」
裕也「アホなこと言わんとき。俺、卒業して、高卒の資格が欲しいんじゃ。夢もあるし。ええひとと、結婚もしたい…。」
真裕子「… !」
   うつむいてトイレに行く、真裕子。
   裕也、目をこすって、真裕子の背中を見る。

 ここには何も書かれていない。ストーリーがない。ふたりがこれからどうなるかがさっぱりわからない。けれども、「過去」が書かれている。いや、書かれていないけれど、行間に、ふたりが、いま、ここに、突然こうしているのではなく、ふたりにはこれまで生きてきた「過去」があるということがわかるように書かれている。真裕子は裕也に、「おしっこしたい。一緒に行ってくれへん?」と言えるような関係にある。そういう関係が成り立つだけの「時間」(過去)が、ふたりのあいだにある。そして、その「お願い」を裕也は断わるのだけれど、その断わりのなかにも「時間」がある。ただ「だめ」というのではなく、そのときつけくわえる「理由」のなかに、「時間」(過去)がある。裕也がどんなふうに生きてきたか、それがなんとなくわかる形で書かれている。
 ひとはだれでも「時間」(過去)を持って生きているけれど、そして、いつでも「過去」を噴出させながらいまを生きているのだけれど、そういうことを、ことばで書くのはむずかしい。なんでもない会話のなかで再現するのは非常にむずかしい。その困難なことを豊原は、いつも楽々と(と、私には感じられる)書いてしまう。そこに天才を感じる。

 芝居というものは(映画も含めてだけれど)、「過去」が省略されたまま、突然、はじまる。小説も突然はじまるけれど、小説は、まあ、いいかげん(?)な構造でできているので、あとから、実は過去にこういうことがありました、と説明できるが、芝居ではそれができない。もちろん、「会話」でそういうことを説明することがあるけれど、その場合でも、役者が登場してきたとき、その「肉体」は「過去」を持っていなければならない。「肉体」が動いた瞬間に、その動きのなかに「過去」を感じさせなければいけない。役者は「過去」を噴出させながら、ストーリーを「未来」へと運んで行く。「過去」を噴出させつづけることができる役者を「存在感」があると批評することがあるが、観客がそういうものに魅了されるのは、芝居を見るとき、観客は実はストーリーを見るのではなく、「過去」を見ているからこそ、そういう評価が生まれるのである。芝居では、脚本に書かれていない「過去」をどう役者が具体化するかが重要なのだ。
 豊原は、このことをまるで生まれながらに知っているかのようだ。
 台詞に、なんの伏線もなく、突然「過去」をとりこむ。ことばがすべて「過去」をもった状態で書かれている。こういうシナリオにそって演技をするには、役者は独自の「過去」をもっていなければならない。「存在感」をもっていなければならないことになる。豊原の書いたシナリオを演じきることができる役者がいるかどうか、私には、ちょっと想像がつかないが、そういう想像を絶するくらい、豊原のシナリオは完璧である。

 このシナリオにどんなことが書いてあるのか、ストーリーを紹介してもあまり意味はないと思う。ストーリーではなく、そこに噴出してくる「過去」、その噴出の仕方が重要なのだから。
 だから、またまた途中をはしょって、最後の部分。裕也と真裕子は携帯電話で話している。会話もおもしろいけれど、それは「白黒目」を読んでもらうことにして、ほんとうの最後の最後の部分。

裕也「俺、『宇宙船』観たい。」
  裕也の携帯の電源が切れる。
  真裕子、窓を眺める。
  窓に「早く来て」と、指で書く。

 どんな会話をしていたか、内容はわからないけれど、「こころ」がわかるでしょ? 最後の最後の4行だけで。それは、そこに書かれていることに、その一語一語に「過去」が書き込まれているからだ。

  窓に「早く来て」と、指で書く。

 あ、これだけで、私は涙がこぼれそうになる。恋愛映画やセンチメンタルなものは、私は最後は笑いだしてしまうのだが、豊原のこのシナリオは違う。切なくなる。胸が熱くなる。思わず、ふたりの、会ったこともない、架空のふたりなのに、そのふたりの幸せを祈りたくなってしまう。

夜の人工の木
豊原 清明
青土社

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