詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋昭八郎『ペ/ージ論』

2009-12-25 00:00:00 | 詩集
高橋昭八郎『ペ/ージ論』(思潮社、2009年05月01日発行)

 私は目の状態がよくない。そして、頭を使うのも苦手である。だから、といっていいのかどうかわからないが、高橋昭八郎『ペ/ージ論』は読んでいてとても疲れる。
 たとえば8ページの中央に黒い四角がある。インターネットの私の「日記」では白く表示されてしまうが、

     ■ 

 というマーク(?)がページの中央にあり、左端の方に、下詰めで

これは前ページより、正確には〇・〇一ミリ大きくなった穴である。

 と、書いてある。私は、その違いを目で認識できない。手元にある定規でも、その違いを識別することはできない。測っても、その違いがわかるような単位が私の定規にはついていない。「頭」で「〇・〇一ミリ」は認識できない。その数字は「正確」に理解できるが、理解と認識は違う。認識と納得も、また違ったものだが、私は、こんなふうに「頭」で「正確」に理解できることを、「肉体」で納得しなければならないという作業がとても苦手である。というよりも、まったくできない。

 私が好きなのは、たとえば、「文/字のミイラ」。高橋の書きたいことと私が読みとっていること(感じていること)は重なるかどうか知らないが、その作品が好きだ。一ページに1行ずつ書かれているのだが、引用は1行空きの形にする。



ひら

ひらかれ

ひらかれる 殻

 「ひ」という音がしだいに他の音を引き寄せる。「文/字のミイラ」ということばにしたがえば、「ひ」は「悲鳴」であり、ミイラをつつんでいる布がひらひらとひらかれるということなのかもしれないけれど。そしてひらかれたのはミイラという「殻」であり、ひらかれたとき内部が噴出するということかもしれないけれど……。
 私にとっては、「ひ」は「ひかり」の「ひ」である。音自体に輝きがある。それが「ひらひら」ひらめく。ひらめきながり「ひかり」を開いて行く。ひかりをひらいてゆくと何があらわれる? 闇? そんな簡単には言えないだろうなあ。ただ、ひらいたひかりの破片(?)が、「殻」のように感じられる。その内部は、ひかりを超えるひかりだ。名付けられないものだ。だから、それについては何も書かず、「殻」が残される。
 まあ、典型的な「誤読」だね、これは。高橋の書きたいこととはまったく重なり合わないだろうなあ、と思う。しかし、■や〇・〇一ミリとも重ならないんだから、こういうときは重ならないということ、詩人とのことばの「ずれ」を楽しめばいいんだろう。
 この詩でひかれるのは、音の輝きということと関係があるかもしれないけれど、「ひ」が「ひらかれる」にまで変化していくその音自体のなかに「殻」、「か」と「ら」が存在するからである。そして、「ひかり」と私が感じてしまうのは「ら」と「り」が同じ「ら行」にあるからかもしれない。(ミイラの「み」はどこにも出てこないし、「ま行」さえ存在しない。)さらに「ひらかれる」と「から」と動くとき、音の順序が入れ替わる。この入れ替わりそのものがリズムの変化のようで楽しいのだ。

 「消して/みる」も好きである。

ようこそ
感動はさめないうちに
よしや たとひ もし と書く 消してみる
実と虚の よも まさか けだし
恐らく さぞ あるいは と書く 消してみる
あんまりだらしがないなあ
なにとぞ どうか どうぞ 是非 と書く 消してみる

 いろいろなことば、意味の定まらないことばがいくつも登場する。登場して、「消してみる」ということばで否定されて行く。
 「頭」には何も残らない。何がいいたいのか理解できない。認識できない。けれど「肉体」は、ことばを言いよどみ、ああでもない、こうでもないという「時間」をかかえこんでいることを納得できる。納得できて、けれど、わからない。だから、そのわからないものが、もしかすると次の行でわかるかもしれないと期待して読んでしまう。こういうリズムが私はとても好きだ。
 ことばはどこへ行くかわからない。だから追いかける。その追いかける過程こそが詩なのだと私は思っている。



ペ/ージ論
高橋 昭八郎
思潮社

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