詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ノーラ・エフロン監督「ジュリー&ジュリア」(★★★)

2009-12-17 12:00:00 | 映画
ノーラ・エフロン監督「ジュリー&ジュリア」(★★★)

監督・脚本 ノーラ・エフロン 出演 メリル・ストリープ、エイミー・アダムス、スタンリー・トゥッチ
 
 私はノーラ・エフロンの映画が大好きだ。独特の味がある。女の視点というものが他の監督とはまったく違う。とても女っぽいと思う。他の監督の場合、監督が女性であっても、そこには「男」の視線がまじりこんでいる。「人間」であるまえに「女」として描かれる。常に「性」が見え隠れする。ノーラ・エフロンの場合、「女」であるまえに「人間」なのである。それが独特であり、そこに女っぽさを感じる。女の監督でなければ撮れない映画だと思ってしまう。
 この映画には世代を超えた女が二人登場する。そして二人とも結婚している。結婚しているから当然セックスをする。そのセックスが、もちろん人間のすることだから同じ行為なのだが、「時代差」を感じさせない。50年前と現代ではセックス感が違っている。二つの時代が描かれればそこにあらわれるセックスだって違うのがふつうである。これをノーラ・エフロンはまったく同じ感覚で描いている。彼女にとって、それは同じなのだ。「女のつつしみ」というようなもの、あるいは「女の官能の追求」というようなものは、どこかわきへ置かれてしまっている。女にとってはセックスは官能の追求、エクスタシーの追求、自分が自分でなくなってしまうという喜びの体験ではなく、あくまで自分が自分であること、自分の内にとどまる行為なのである。自分が自分であって、となりに男がいる。そして、そのぬくもりが温かい。そのぬくもりがうれしい。ぬくもりが楽しい。その喜びなのだ。それは「時代」とは関係がない。
 最初にノーラ・エフロンの映画を見たのは「マイケル」だった。ジョン・トラボルタが天使をやる。その天使がおおもて。何人もの女といっしょにベッドでセックスをする。いわば乱交だね。けれど、女たちがそのことをまったく気にしていない。官能の追求、自分だけ特別な人間になるということを求めていない。いっしょにいてあたたかい。そこに他の女がいても、困ることはない。あたたかさをいっしょに楽しむだけ。そういう雰囲気だった。へぇーっと驚いたが、そういう感覚があってもいいし、あ、これが女独特の感覚なのかもしれないと思った。
 それがずーっとつづいている。あたたかいもの、あまいもの、自分をつつんでくれるものがあればいい(いればいい)。それが幸福。
 この映画では二人の女性が料理をとおして「幸福」をつかむが、二人はともに「別世界」へゆくわけではない。あくまで自分の世界にいる。料理の本が売れる。それは女を有名人にし、お金をもたらすけれど、そのことで「生活」を変えるわけではない。そうなっても自分で料理をし、男といっしょに食べ、友人たちといっしょに食べ、「おいしい」と言い合い、いっしょにいることを喜ぶ。その喜びから外へ出ていかない。いっしょにいる喜び、いっしょに何かする喜び、その温かさ--それを大切にする。
 「失敗」の描き方も、とても温かい。失敗の悲惨さを拡大しない。料理の下ごしらえが床に全部こぼれてしまう。そういうシーンのとき、映画ではカメラは床に散らばった材料をアップでとらえがちだが、ノーラ・エフロンの映像はそんなふうにはならない。カメラを引いて、全体のなかで、あ、失敗しちゃったという感じだ。料理は失敗しても、そんなこととは関係なくテーブルはテーブルとして、そこにある。椅子だってこわれるわけではない。「もう、いやになっちゃう」と女が泣きだしてしまうときも、その顔のアップではない。寝っころがって手足をどたばたするが、そのとき観客の目に飛び込んでくるのは、失敗したって生きている、ちゃんと元気じゃないか、「肉体」があるじゃないか、という安心感である。これは、すばらしい。とても、とても、とても、とてもいい。カメラが「失敗」を責めないのだ。かといって「同情」もしない。ただ、その全体をつつみこむ。「失敗」を気にかけず、ただ、それをつつみこむ。家具には感情はないから当然、料理の材料に感情はないから当然--と考えがちだけれど、そうではない。そんなふうに「失敗」をあたたかく支える、見守るという視線をカメラに定着させた監督はいない。
 あらゆる細部を細部をつきつめて強調するのではなく、全体のなかで受け止め、全体のなかにある「空気」をあたたかくする。あ、これが「女の夢」なんだなあ、すくなくともノーラ・エフロンの夢なんだなあ、と静かにつたわってくる。
 「空気」で思い出すのは、またまた「マイケル」だけれど、天使を探しに行った先で、女が「甘いクッキーの匂いがする」という。すると男は「甘いにおいなんか関係ないじゃないか」と怒る。この違い。男は「目的」のことしか考えていない。けれど、女はそのとき女をつつみこむ「におい」に、「空気」に反応する。このにおい、実は、ジョン・トラボルタ天使のにおいなのだけれど--この人間をすっぽりつつんでくれる温かく甘いにおい、その空気こそ「生きがい」という視点が、ほんとうにほんとうに、女っぽいと私は思う。大好きだ。この感覚を男ももつようになると、世の中変わるだろうなあとも思う。


 
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岸田将幸『<孤絶-角>』

2009-12-17 00:00:00 | 詩集
岸田将幸『<孤絶-角>』(思潮社、2009年10月25日発行)

 ことばはむずかしい。ことばには「意味」がある。そして、その「意味」が社会に流通する。--そういうことと、詩は無関係にある。と、いっていいかどうかわからないが、まあ、社会に「流通」することばとは違った「意味」が一生懸命つくられようとしている。
 あ、こんなふうに書くと、きっととんでもない方向にことばが動いていく。ことばがかってに動いて行ってしまう。まあ、かってに動いて行って悪いことはないのだが、岸田将幸『<孤絶-角>』の感想を書こうとしているのに、なんだが詩集を置き去りにしてしまいそうな気がする。

 「意味」について書きはじめたのは、「孤絶-角」というものを、私は知らないからだ。「孤絶」ということばすら、私は知らない。「文字」から判断して「孤立」している、しかもその「孤立」の仕方は「絶対的」なものである--と想像してしまう。「孤絶-角」というのは、すべての存在から完全に孤立した角(かど、街角のかど、かな)、あるいは角度(分度器で測る角度の角、ものが交わるときにできる角)のことである--と勝手に想像してしまう。
 でもねえ。「角」というものがふたつのものが交差することによってできるものだとすると、それが「孤立」するということはありえない。「角(つの)」でさえ、出っ張ったものという定義のほかに、それぞれの斜面が交差して、そこでその存在が終わるところと言ってしまえば、そこに複数の存在の交差が生まれてくる。だから、「角」というものが「孤」になることはありえない。
 それが「孤」であるとき、「孤」と定義されるとき、そこでは「交差」が無視される。別のことがらが意識される。たとえば「角(つの)」が「孤立」していると定義されるとき、そのツノの斜面は無視され、ツノの底辺が意識される。底辺とつながっている部分、たとえば頭部、頭皮というものが意識される。ツノはたしかに頭部(頭皮)と底辺で接触しながらも、その頂上は底辺から「距離」をもっている。この「距離」を中心にして、ツノの先端はツノとつながる頭部から「孤立」している--というふうにいうことはできる。そのとき、ツノをツノたらしめている先端の角度あるものは、その角度を構成するものによって存在しているということが「省略」されている。
 「角」が「孤立」(孤絶?)するとき、その「角」をつくっている要素が「省略」されている。たぶん、このことが重要なのだと思う。

 岸田は、「孤絶-角」というものについて書く。それがどんなものであるか私は知らないが、そういうものがあると仮定したとき、それを描写する岸田のことばはなんらかの「省略」を含んでしまう。何かを「省略」しないことには、「孤絶-角」というものは存在しない。
 では、岸田は何を「省略」しているのか。

 私にはよくわからない。よくわからないから、「直感」で言ってしまう。岸田が「省略」しているのは「数学」である。純粋論理である。岸田のことばで言いなおすと「数式」である。そして、面倒くさいことに、岸田は「省略」したはず(するはず)の「数式」について、触れもするのである。あたかも「論理」があるかのように書くのである。

新たな数式を生まねばならない。きっとそれは次の人がぎりぎり踏み外すことのない足場になるはずだ。その数式は彼を沈黙させ、彼はしばらく別のことろで生きて行かなければならなかったかもしれない。

 「数式」が「省略」されるのは、それがまだ存在しないからである。「生まねばならない」とは、それが存在していないことを明確に語っている。それは存在しない。だから「省略」しても誰も気がつかない。
 岸田は、そういう人間の意識を利用して、わざと「数式」ということばを提出し、岸田のことばに「省略」があること、「省略」することがことばを動かすエネルギーになっていることを巧みに隠蔽する。そして、「数式」とは無縁の「自由」を手にいれる。ことばを「自由」に動かす。
 そういう「読み方」(誤読の仕方)が一方にある。そういう「読み方」をすることができる。
 また、別の「読み方」もできる。別の「誤読」の方法もある。「数式」を「省略」する。まだ存在しない「数式」を「生まなければならない」という意識が岸田のことばをつねにしばりつづける。岸田のことばは常に意識から「自由」になることはできず、先行することばの運動にひきずられつづける。「不自由」になりつづける。
 引用の先を引用すると、そのことがわかる。

新たな数式を生まねばならない。きっとそれは次の人がぎりぎり踏み外すことのない足場になるはずだ。その数式は彼を沈黙させ、彼はしばらく別のことろで生きて行かなければならなかったかもしれない。しかしだ、その別の場所を育んだのはある死者の息づかいの跡であったかもしれない。そうして彼はある死者の跡を引き受けつつ、また別の人を生かしめるために別の場所に立ったのかもしれない。数式から外れる彼の暮らしは実はある死者の存在を事後、認めることになるかもしれない。

 次々に新しいことばが出てくる。「死(者)」と「生(かしめる)」という対立概念がぶつかりあう。「論理」が正面衝突してしまう。それは「自由」な結果としてのぶつかりあいなのか、それとも「不自由」な結果としてのぶつかりあいなのか、どうとでも「誤読」することができる。
 岸田は、このどうとでもとれる「誤読」を誘いながら、ことばの重力をさらに「隠蔽」する。つまり「省略」する。しかしその「省略」、あるいは「隠蔽」はいわばブラックホールである。そこには何もなくて、何もないことによってすべてがある。そこではブラックホールのようにすべての光は消えてしまい、何も見えない。しかし見えないということが、存在しないということではない。見えないのは、その存在が巨大だからである。巨大すぎる重力がすべてを見えなくする。
 ここで、またまた、矛盾が出てくる。すべてがあつまり、凝縮し、巨大な重力になるということは、その結果として「見えない」という状態をつくりだすが、そこには何も存在しないということではない。そこにはすべてがあるという逆説的な存在の形式がある。すべてが「一」になってしまっているために「見えない」のだ。
 いわば、数式が収斂し、たったひとつの「式」になってしまったのだ。だから、それは「省略」ではなく、もう書かなくていいのだ。ひとつしかないものをわざわざ明確にする必要はない。ひとつしかないものは、定義の必要がない。

 ふいに、もとにもどるのだが……。
 岸田の書いていることに「意味」はない。岸田は流通する言語から「意味」を引き剥がしている。「意味」を「省略」している。ことばを孤立させ、そして孤立したことばがことば自身の重力にしたがってブラックホールにのみこまれること、そのことば自身がブラックホールそのものになってしまうという運動へと、ことばを駆り立てている。
 だから、どんなふうにでも「誤読」できる。「正確」によむとは、どれだけ「誤読」を論理的に(?)つづけることができるかという「連続性」にかかってくる。
 「連続性」は「孤絶」とは対立する概念だから、「誤読」を「連続」させるというのは、まあ、岸田のことばを読む態度としては奇妙なことになってしまうが、岸田が「孤絶」したことばをめざしてことばを「連続」させている、延々と書いているのだから、こうした対立・矛盾は必然でもあることになる。

 あ、ちょっと面倒なところに入り込んでしまったかもしれない。目が悪いので、ここで岸田にならなって(?)、途中を「省略」して結論(?)めいたことだけ書いておこう。
 岸田のこの詩集では、岸田の「矛盾」と読者の「矛盾」が出会いながら、より巨大な「矛盾」のなかにのみこまれる。その過程で岸田のことばと読者のことばが衝突し、そこから一瞬光が発生するが、その光は巨大な矛盾(意味の重力、流通する言語の意味ではなく、まだ生まれていない意味の重力)に呑み込まれ、何も見えない。真っ暗な光が「脳内」をかけめぐるだけである。その、真っ黒な閃光を感じる「肉脳」(私が日記で書いている「肉眼」とか「肉耳」の延長で呼んでください)を鍛えないと、この詩集はなんのことかわからないだろう。「肉脳」へむけて書かれたことばなのだ。

 私は「肉脳」なんて、もっていない。だから、そこで爆発的に起きている黒い閃光を追いつづけることはできない。具体的な批評・分析は、まあ、岸田のこの詩集を高く評価している他の詩人がしてくれるだろうから、それを待っていればいいだろう。
 「肉脳」をもたないけれど、私は、この詩集が、実は楽しかった。
 ふたつの「誤読」の仕方を私はしてみたが、そういう複数の「誤読」の可能性の楽しみがあるし、また、「音楽」がとても気持ちがいいのだ。「意味」ではなく、「音楽」が岸田のことばにはある。
 先に書いた「省略」を「音楽」があざやかに埋めて、「省略」を感じさせないのである。「音楽」に酔わされて、「省略」の罠(?)を忘れてしまうのである。
 私は「音読」するわけではないので、実際に声に出すとどうなるかわからないが、岸田の書いていることばは、黙読すると喉や口蓋、そして目にもリズミカルに響いてくる。気持ちのよいリズムに乗ってことばを追っていくことができる。「意味」は考えず、ただことばが先行することばを利用しながら、少しずつ変奏していく--その変奏の仕方に「連続性」と「休憩」(断絶、とはちょっと違う)、「休憩」後の「飛躍」が快感なのである。
 この快感はモーツァルトを快感と感じるか不快と感じるかの快感のあり方に少し似ているかもしれない。私にとってモーツァルトは体調がいいときは快感だが、熱があったり疲れていたりするとただただ疲れるだけの音になる。--だから、きょうは、岸田の詩集はおもしろかったと書いたが、別な日は不快であると書くかもしれない。そのあいだを揺れ動く詩集だ。そこに、魅力がある。



“孤絶-角”
岸田 将幸
思潮社

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