ノーラ・エフロン監督「ジュリー&ジュリア」(★★★)
監督・脚本 ノーラ・エフロン 出演 メリル・ストリープ、エイミー・アダムス、スタンリー・トゥッチ
私はノーラ・エフロンの映画が大好きだ。独特の味がある。女の視点というものが他の監督とはまったく違う。とても女っぽいと思う。他の監督の場合、監督が女性であっても、そこには「男」の視線がまじりこんでいる。「人間」であるまえに「女」として描かれる。常に「性」が見え隠れする。ノーラ・エフロンの場合、「女」であるまえに「人間」なのである。それが独特であり、そこに女っぽさを感じる。女の監督でなければ撮れない映画だと思ってしまう。
この映画には世代を超えた女が二人登場する。そして二人とも結婚している。結婚しているから当然セックスをする。そのセックスが、もちろん人間のすることだから同じ行為なのだが、「時代差」を感じさせない。50年前と現代ではセックス感が違っている。二つの時代が描かれればそこにあらわれるセックスだって違うのがふつうである。これをノーラ・エフロンはまったく同じ感覚で描いている。彼女にとって、それは同じなのだ。「女のつつしみ」というようなもの、あるいは「女の官能の追求」というようなものは、どこかわきへ置かれてしまっている。女にとってはセックスは官能の追求、エクスタシーの追求、自分が自分でなくなってしまうという喜びの体験ではなく、あくまで自分が自分であること、自分の内にとどまる行為なのである。自分が自分であって、となりに男がいる。そして、そのぬくもりが温かい。そのぬくもりがうれしい。ぬくもりが楽しい。その喜びなのだ。それは「時代」とは関係がない。
最初にノーラ・エフロンの映画を見たのは「マイケル」だった。ジョン・トラボルタが天使をやる。その天使がおおもて。何人もの女といっしょにベッドでセックスをする。いわば乱交だね。けれど、女たちがそのことをまったく気にしていない。官能の追求、自分だけ特別な人間になるということを求めていない。いっしょにいてあたたかい。そこに他の女がいても、困ることはない。あたたかさをいっしょに楽しむだけ。そういう雰囲気だった。へぇーっと驚いたが、そういう感覚があってもいいし、あ、これが女独特の感覚なのかもしれないと思った。
それがずーっとつづいている。あたたかいもの、あまいもの、自分をつつんでくれるものがあればいい(いればいい)。それが幸福。
この映画では二人の女性が料理をとおして「幸福」をつかむが、二人はともに「別世界」へゆくわけではない。あくまで自分の世界にいる。料理の本が売れる。それは女を有名人にし、お金をもたらすけれど、そのことで「生活」を変えるわけではない。そうなっても自分で料理をし、男といっしょに食べ、友人たちといっしょに食べ、「おいしい」と言い合い、いっしょにいることを喜ぶ。その喜びから外へ出ていかない。いっしょにいる喜び、いっしょに何かする喜び、その温かさ--それを大切にする。
「失敗」の描き方も、とても温かい。失敗の悲惨さを拡大しない。料理の下ごしらえが床に全部こぼれてしまう。そういうシーンのとき、映画ではカメラは床に散らばった材料をアップでとらえがちだが、ノーラ・エフロンの映像はそんなふうにはならない。カメラを引いて、全体のなかで、あ、失敗しちゃったという感じだ。料理は失敗しても、そんなこととは関係なくテーブルはテーブルとして、そこにある。椅子だってこわれるわけではない。「もう、いやになっちゃう」と女が泣きだしてしまうときも、その顔のアップではない。寝っころがって手足をどたばたするが、そのとき観客の目に飛び込んでくるのは、失敗したって生きている、ちゃんと元気じゃないか、「肉体」があるじゃないか、という安心感である。これは、すばらしい。とても、とても、とても、とてもいい。カメラが「失敗」を責めないのだ。かといって「同情」もしない。ただ、その全体をつつみこむ。「失敗」を気にかけず、ただ、それをつつみこむ。家具には感情はないから当然、料理の材料に感情はないから当然--と考えがちだけれど、そうではない。そんなふうに「失敗」をあたたかく支える、見守るという視線をカメラに定着させた監督はいない。
あらゆる細部を細部をつきつめて強調するのではなく、全体のなかで受け止め、全体のなかにある「空気」をあたたかくする。あ、これが「女の夢」なんだなあ、すくなくともノーラ・エフロンの夢なんだなあ、と静かにつたわってくる。
「空気」で思い出すのは、またまた「マイケル」だけれど、天使を探しに行った先で、女が「甘いクッキーの匂いがする」という。すると男は「甘いにおいなんか関係ないじゃないか」と怒る。この違い。男は「目的」のことしか考えていない。けれど、女はそのとき女をつつみこむ「におい」に、「空気」に反応する。このにおい、実は、ジョン・トラボルタ天使のにおいなのだけれど--この人間をすっぽりつつんでくれる温かく甘いにおい、その空気こそ「生きがい」という視点が、ほんとうにほんとうに、女っぽいと私は思う。大好きだ。この感覚を男ももつようになると、世の中変わるだろうなあとも思う。
監督・脚本 ノーラ・エフロン 出演 メリル・ストリープ、エイミー・アダムス、スタンリー・トゥッチ
私はノーラ・エフロンの映画が大好きだ。独特の味がある。女の視点というものが他の監督とはまったく違う。とても女っぽいと思う。他の監督の場合、監督が女性であっても、そこには「男」の視線がまじりこんでいる。「人間」であるまえに「女」として描かれる。常に「性」が見え隠れする。ノーラ・エフロンの場合、「女」であるまえに「人間」なのである。それが独特であり、そこに女っぽさを感じる。女の監督でなければ撮れない映画だと思ってしまう。
この映画には世代を超えた女が二人登場する。そして二人とも結婚している。結婚しているから当然セックスをする。そのセックスが、もちろん人間のすることだから同じ行為なのだが、「時代差」を感じさせない。50年前と現代ではセックス感が違っている。二つの時代が描かれればそこにあらわれるセックスだって違うのがふつうである。これをノーラ・エフロンはまったく同じ感覚で描いている。彼女にとって、それは同じなのだ。「女のつつしみ」というようなもの、あるいは「女の官能の追求」というようなものは、どこかわきへ置かれてしまっている。女にとってはセックスは官能の追求、エクスタシーの追求、自分が自分でなくなってしまうという喜びの体験ではなく、あくまで自分が自分であること、自分の内にとどまる行為なのである。自分が自分であって、となりに男がいる。そして、そのぬくもりが温かい。そのぬくもりがうれしい。ぬくもりが楽しい。その喜びなのだ。それは「時代」とは関係がない。
最初にノーラ・エフロンの映画を見たのは「マイケル」だった。ジョン・トラボルタが天使をやる。その天使がおおもて。何人もの女といっしょにベッドでセックスをする。いわば乱交だね。けれど、女たちがそのことをまったく気にしていない。官能の追求、自分だけ特別な人間になるということを求めていない。いっしょにいてあたたかい。そこに他の女がいても、困ることはない。あたたかさをいっしょに楽しむだけ。そういう雰囲気だった。へぇーっと驚いたが、そういう感覚があってもいいし、あ、これが女独特の感覚なのかもしれないと思った。
それがずーっとつづいている。あたたかいもの、あまいもの、自分をつつんでくれるものがあればいい(いればいい)。それが幸福。
この映画では二人の女性が料理をとおして「幸福」をつかむが、二人はともに「別世界」へゆくわけではない。あくまで自分の世界にいる。料理の本が売れる。それは女を有名人にし、お金をもたらすけれど、そのことで「生活」を変えるわけではない。そうなっても自分で料理をし、男といっしょに食べ、友人たちといっしょに食べ、「おいしい」と言い合い、いっしょにいることを喜ぶ。その喜びから外へ出ていかない。いっしょにいる喜び、いっしょに何かする喜び、その温かさ--それを大切にする。
「失敗」の描き方も、とても温かい。失敗の悲惨さを拡大しない。料理の下ごしらえが床に全部こぼれてしまう。そういうシーンのとき、映画ではカメラは床に散らばった材料をアップでとらえがちだが、ノーラ・エフロンの映像はそんなふうにはならない。カメラを引いて、全体のなかで、あ、失敗しちゃったという感じだ。料理は失敗しても、そんなこととは関係なくテーブルはテーブルとして、そこにある。椅子だってこわれるわけではない。「もう、いやになっちゃう」と女が泣きだしてしまうときも、その顔のアップではない。寝っころがって手足をどたばたするが、そのとき観客の目に飛び込んでくるのは、失敗したって生きている、ちゃんと元気じゃないか、「肉体」があるじゃないか、という安心感である。これは、すばらしい。とても、とても、とても、とてもいい。カメラが「失敗」を責めないのだ。かといって「同情」もしない。ただ、その全体をつつみこむ。「失敗」を気にかけず、ただ、それをつつみこむ。家具には感情はないから当然、料理の材料に感情はないから当然--と考えがちだけれど、そうではない。そんなふうに「失敗」をあたたかく支える、見守るという視線をカメラに定着させた監督はいない。
あらゆる細部を細部をつきつめて強調するのではなく、全体のなかで受け止め、全体のなかにある「空気」をあたたかくする。あ、これが「女の夢」なんだなあ、すくなくともノーラ・エフロンの夢なんだなあ、と静かにつたわってくる。
「空気」で思い出すのは、またまた「マイケル」だけれど、天使を探しに行った先で、女が「甘いクッキーの匂いがする」という。すると男は「甘いにおいなんか関係ないじゃないか」と怒る。この違い。男は「目的」のことしか考えていない。けれど、女はそのとき女をつつみこむ「におい」に、「空気」に反応する。このにおい、実は、ジョン・トラボルタ天使のにおいなのだけれど--この人間をすっぽりつつんでくれる温かく甘いにおい、その空気こそ「生きがい」という視点が、ほんとうにほんとうに、女っぽいと私は思う。大好きだ。この感覚を男ももつようになると、世の中変わるだろうなあとも思う。
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