谷川俊太郎「ホルンのこだま」(「びーぐる」5、2009年10月20日発行)
「びーぐる」が「谷川俊太郎と<こども>の詩」という特集を組んでいる。谷川は3篇新作を書いている。どの詩にも、こどもらしくて、同時にこどもらしくないものが書かれている。こどもらしくて、同時にこどもらしくないもの、というのは矛盾しているが、そういう矛盾が書かれている。矛盾であることによって、こどもであり、同時にこどもではない。そのことが、よけいに、こどもを感じさせる。実感させる。記憶を、それも「自分の記憶」というより「人間の記憶」を思い起こさせる。
「ホルンのこだま」の全行。
こどもらしくて、同時にこどもらしくない。その典型的な行が「でもそんなきもちはだれにもいえない」である。自分のなかにある不思議な気持ち。不思議な空想。「ぼくはかわになって/このくにをでてさばくへながれていきたかった」という空想は、こどもらしい空想である。それは、そのまま誰かに言ってしまってもかまわないはずの空想である。でも、谷川の描く少年は、「そんなきもちはだれにもいえない」と考える。
なぜか。
「なぜか」わからないからである。自分でも「なぜか」わからない。自分でもわからないことを他人に言ってもわかってもらえない。この判断、冷静な(?)分析は、こどもっぽくない。こどもは、こんなふうに冷静に判断などせず、思っていることをそのまま言ってしまうものである。
いや、違う。この冷静な分析こそ、こどもっぽい。自分で「なぜか」わからないことを、同じように他人が(大人が)わからないかどうかは、実際はわからない。それなのに、「なぜか」わからないことは、他人に(大人に)言ってみてもわからないと即断してしまうところこそ、こどもっぽい。
「ぼくはかわになって/このくにをでてさばくへながれていきたかった」という原因を「他人」がわかるということは、まあ、ない。そういう意味では、谷川の書くこどもの感想は正しい。(と、いえると思う)
けれど、人間は「なぜか」を特定できないけれど、その「特定」できない理由のために、ひとが(こどもが)、なにかとんでもない空想をしてしまうということ。そういう空想の奥には「なぜか」わからないものがあるということは、わかる。
わからないということが、わかる。納得できる。
こどもはわからないということが、わからない。わからないものがあってもいいということが、わからない。わからないものは、わからないまま、そこにある、ということを納得できない。なんでもかんでも、わかってしまいたい。それが、こどもっぽい考えである。
谷川の<こども>は、しかし、そのこどもっぽいこどもから逸脱している。
そうした矛盾とは別の特徴も、谷川の<こども>はそなえもっている。これから触れる部分こそ、谷川の<こども>の<こども>たるゆえんかもしれない。いや、谷川らしさのゆえんかもしれない。<こども>を逸脱して、<谷川>であるゆえんかもしれない。
谷川の<こども>のこころの自分から出てゆき、そして自分に帰ってくる。自分を捨てて「他者」になり、その「他者」は結局「人間」とは交流できずに、自分に帰ってくる。その往復運動が<谷川(こども)>である。
ホルンの音が窓から出て行くように、谷川のなかの「きもち」は谷川ではなく、「川」という「他者」になって砂漠(他の場所)まで流れていく。けれど、それは「きもち」のなかでおきたことであって、実際には起きない。谷川は実際には「川」という「他者」にはなれないし、「砂漠」という「いま」「ここ」とは違う「他の場所」へも行けない。
そして、そういうふうにしたかったという「きもち」を「だれにもいえない」まま、谷川の「きもち」は谷川に帰ってくる。「きもち」だけが谷川の「肉体」から出てゆき、谷川という「肉体」へ帰ってくる。「きもち」だけが、まぼろしの「旅」をする。
この「旅」は孤独の旅である。旅をすることで、谷川は「孤独」を発見する。
孤独は基本的には「きもち」の問題なのだが、谷川の場合、それが「きもち」と書きながら自分から出て行き、自分にもどり、「自分」を再発見する。「きもち」をいれておく存在としての「自分」。「きもち」が幻の旅をするための出発点であり、帰着点である「自分」。その「肉体」。あるいは「場」。「場」の孤独。
この発見を谷川は「なつかしい」と感じている。「なつかしいきもちがなつかしい」と反復している。それほど「孤独」が谷川にしみついてしまっている。
「孤独」は谷川の「肉体」となってしまっている。
谷川の描く<こども>は、孤独と「肉体」の関係を生まれながらなにして知っている。生まれつき、そういうことを納得できる超能力をもっている。「孤独」の天才である。
そして、こういう孤独が「ぼく」のものでありながら、「ぼく」を超越したものであることをも知っている。人間は誰でもそういう「孤独」を生きているということを、こどもでありながら体得している。
「ぼく」だけではなく、だれもが自分の気持ちが自分から出て行き、そして自分に帰ってくるしかないことを知る。知っている。知っていて、なおかつ、孤独な旅に出て、孤独を確かめて、より孤独になるために帰ってくる。孤独は「ぼくであること」なのだ。
「ぼく」とは「こと」である。孤独な旅を繰り返す「こと」である。「こと」を積み重ねて、「ぼく」は「ぼく」に「なる」。
「びーぐる」が「谷川俊太郎と<こども>の詩」という特集を組んでいる。谷川は3篇新作を書いている。どの詩にも、こどもらしくて、同時にこどもらしくないものが書かれている。こどもらしくて、同時にこどもらしくないもの、というのは矛盾しているが、そういう矛盾が書かれている。矛盾であることによって、こどもであり、同時にこどもではない。そのことが、よけいに、こどもを感じさせる。実感させる。記憶を、それも「自分の記憶」というより「人間の記憶」を思い起こさせる。
「ホルンのこだま」の全行。
そのふるいホルンはぴかぴかだった
おじいちゃんがふきはじめると
おとはまどからでていって
のはらのむこうのおかをこえていった
なぜかぼくはかわになって
このくにをでてさばくへながれていきたかった
でもそんなきもちはだれにもいえない
かべにかかったしゃしんをみると
しらないまちをでんしゃがはしっている
ぼくはいまのままでいいんだろうか
おかあさんのこどもでいいんだろうか
おじいちゃんのまごでいいんだろうか
ホルンのこだまがかえってきた
なつかしいきもちがなつかしい
ぼくはきっととおいむかしにもぼくだった
ぼくであることにくるしんでいた
こどもらしくて、同時にこどもらしくない。その典型的な行が「でもそんなきもちはだれにもいえない」である。自分のなかにある不思議な気持ち。不思議な空想。「ぼくはかわになって/このくにをでてさばくへながれていきたかった」という空想は、こどもらしい空想である。それは、そのまま誰かに言ってしまってもかまわないはずの空想である。でも、谷川の描く少年は、「そんなきもちはだれにもいえない」と考える。
なぜか。
なぜかぼくはかわになって
このくにをでてさばくへながれていきたかった
「なぜか」わからないからである。自分でも「なぜか」わからない。自分でもわからないことを他人に言ってもわかってもらえない。この判断、冷静な(?)分析は、こどもっぽくない。こどもは、こんなふうに冷静に判断などせず、思っていることをそのまま言ってしまうものである。
いや、違う。この冷静な分析こそ、こどもっぽい。自分で「なぜか」わからないことを、同じように他人が(大人が)わからないかどうかは、実際はわからない。それなのに、「なぜか」わからないことは、他人に(大人に)言ってみてもわからないと即断してしまうところこそ、こどもっぽい。
「ぼくはかわになって/このくにをでてさばくへながれていきたかった」という原因を「他人」がわかるということは、まあ、ない。そういう意味では、谷川の書くこどもの感想は正しい。(と、いえると思う)
けれど、人間は「なぜか」を特定できないけれど、その「特定」できない理由のために、ひとが(こどもが)、なにかとんでもない空想をしてしまうということ。そういう空想の奥には「なぜか」わからないものがあるということは、わかる。
わからないということが、わかる。納得できる。
こどもはわからないということが、わからない。わからないものがあってもいいということが、わからない。わからないものは、わからないまま、そこにある、ということを納得できない。なんでもかんでも、わかってしまいたい。それが、こどもっぽい考えである。
谷川の<こども>は、しかし、そのこどもっぽいこどもから逸脱している。
そうした矛盾とは別の特徴も、谷川の<こども>はそなえもっている。これから触れる部分こそ、谷川の<こども>の<こども>たるゆえんかもしれない。いや、谷川らしさのゆえんかもしれない。<こども>を逸脱して、<谷川>であるゆえんかもしれない。
谷川の<こども>のこころの自分から出てゆき、そして自分に帰ってくる。自分を捨てて「他者」になり、その「他者」は結局「人間」とは交流できずに、自分に帰ってくる。その往復運動が<谷川(こども)>である。
ホルンの音が窓から出て行くように、谷川のなかの「きもち」は谷川ではなく、「川」という「他者」になって砂漠(他の場所)まで流れていく。けれど、それは「きもち」のなかでおきたことであって、実際には起きない。谷川は実際には「川」という「他者」にはなれないし、「砂漠」という「いま」「ここ」とは違う「他の場所」へも行けない。
そして、そういうふうにしたかったという「きもち」を「だれにもいえない」まま、谷川の「きもち」は谷川に帰ってくる。「きもち」だけが谷川の「肉体」から出てゆき、谷川という「肉体」へ帰ってくる。「きもち」だけが、まぼろしの「旅」をする。
この「旅」は孤独の旅である。旅をすることで、谷川は「孤独」を発見する。
孤独は基本的には「きもち」の問題なのだが、谷川の場合、それが「きもち」と書きながら自分から出て行き、自分にもどり、「自分」を再発見する。「きもち」をいれておく存在としての「自分」。「きもち」が幻の旅をするための出発点であり、帰着点である「自分」。その「肉体」。あるいは「場」。「場」の孤独。
この発見を谷川は「なつかしい」と感じている。「なつかしいきもちがなつかしい」と反復している。それほど「孤独」が谷川にしみついてしまっている。
「孤独」は谷川の「肉体」となってしまっている。
谷川の描く<こども>は、孤独と「肉体」の関係を生まれながらなにして知っている。生まれつき、そういうことを納得できる超能力をもっている。「孤独」の天才である。
そして、こういう孤独が「ぼく」のものでありながら、「ぼく」を超越したものであることをも知っている。人間は誰でもそういう「孤独」を生きているということを、こどもでありながら体得している。
ぼくはきっととおいむかしにもぼくだった
ぼくであることにくるしんでいた
「ぼく」だけではなく、だれもが自分の気持ちが自分から出て行き、そして自分に帰ってくるしかないことを知る。知っている。知っていて、なおかつ、孤独な旅に出て、孤独を確かめて、より孤独になるために帰ってくる。孤独は「ぼくであること」なのだ。
「ぼく」とは「こと」である。孤独な旅を繰り返す「こと」である。「こと」を積み重ねて、「ぼく」は「ぼく」に「なる」。
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