詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

西原理恵子「毎日かあさん」

2009-12-28 18:18:55 | その他(音楽、小説etc)
西原理恵子「毎日かあさん」339回(毎日新聞、2009年12月27日朝刊)

 女性の作品に触れると、あ、こういう感覚はいいなあ、私にはないなあ、と驚くときがある。映画ではノーラ・エフロン監督。漫画家なら西原理恵子。
 西原理恵子「毎日かあさん」339回は「好き」といタイトルがついている。
 吹き出しを引用する。

子供のころ読んだ本「星の王子さま」でこの話の中に「待ってるのが好きなキツネの話」っていうのがあった。大好きな人を待つのが大好きなキツネ。

へんなことが好きなキウtネだな。子供のころそう思った。

それから大人になって自分もいろんな事が好きになった。これみんなすきかなあって夕飯の買い物をする時

街中でふらっと看板をみてこの映画いっしょにいこうって決める時。

自分のこととかどーでも良くなった時(お母さんイモジャーで外出しちゃダメー)

家族で旅行する時

そして

あ、もうすぐ帰ってくるなあって

待ってる
時。

いろんな新しい好きがいろんな思い出をつれてくる。

 最後の部分が、とても「おんなっぽい」と私は感じる。男性の視点に染まっていない「おんなっぽい」部分だ。
 「おんなっぽい」はどうしても男性の視点で語られる。性がまぎれこむ。男性の性意識を刺激する何かが「おんなっぽい」と定義されることが多い。
 西原の、「あ、もうすぐ帰ってくるなあって/待ってる/時。」は性の意識とは無関係で、」そして私の感覚にはない何かで、それに触れるととても気持ちがいい。ずーっと触れていたい気持ちにさせられる。ずーっと触っていたいという感じでは「おんな」なのだが、それが性を刺激しない――というところが、なんとも不思議だ。
 次の、

いろんな新しい好きがいろんな思い出をつれてくる。

 これは、なんともいえない感じ。ぎゅーっと抱きしめたいような、自分の感覚ではないのに懐かしいというか、あ、こういう感じをおんなは抱いて生きているのか、それをぎゅーっと外から抱いて、その抱いているものに触れてみたい。
 こういう感覚は、私には絶対ない。
 たぶん自分からは絶対に見つけることができないなにかだ。
 自分にはたどりつけない人間性――その大切なもの、それを教えてくれる。そういうものを「おんなっぽい」と私は呼んでいる。





毎週かあさん―サイバラくろにくる2004‐2008 (ビッグコミックススペシャル)
西原 理恵子
小学館

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山崎るり子『終わらない絵画展』

2009-12-28 00:00:00 | 詩集
山崎るり子『終わらない絵画展』(思潮社、2009年10月31日発行)

 山崎るり子『終わらない絵画展』には「前書き」がついている。

ある小さな街でみんなが絵を描き持ちよりました。
この画集は、その絵画展の絵をまとめたものです。

 もちろんこの本は「画集」ではなく「詩集」である。だから、ここにかかれていることは「嘘」である。この「画集」(という名前の詩集)には、描かれていない「絵」、空想のなかの「絵」が集められている、と読んだ方がよさそうである。
 「壁を背に立つ白い少年」(カラーコンテ・紙)の3連目。

描かれなかった書物
描かれなかった窓
そんなものに囲まれて
まっすぐに立つ少年

 これは2連目の描写にしたがえば「壁のこちら側 部屋にかかった絵の中で/立っている少年」の描写になる。「絵のなかの少年」は、未完成の絵と向き合っている。絵の中に絵がある--というのが、この絵の構造であり、そして詩のなかに、その未完成な絵と向き合っている少年の絵が書かれていることになる。
 入れ子構造の虚構である。
 
 あ、でも、この「虚構」は山崎の文体にはあっていない。どうも、ちぐはぐというか、何か物足りない。
 未完成な絵のなかの少年--という絵は、さらに未完成でもある。刺激的なことを書こうとしているのかもしれないが、刺激的ではない。
 たぶん、そこには知らないことというか、予想外のことが書かれていないからだ。
 虚構は、山崎の文体とはあわないのかもしれない。
 奇妙な言い方かもしれないが、虚構、あるいは嘘というものは、ほんとうのことを含んでいないと虚構、嘘にはならない。ほんとうのものが虚構や嘘に侵入していくとき、そのほんとうのことをなんとか虚構、嘘にしようとことばが必死になる。そこに、むりが生まれ、そのむりがことばを輝かせる。--そういうことばの運動は、たぶん山崎の文体の本質ではないのだろう。

 山崎の狙いとは離れてしまうかもしれないが、私がおもしろいと思ったのは、「猫を抱く女」の2連目である。(ここが、この詩集のなかでいちばん好き。)

シミーズになったその人は
シミーズを脱ぐと生きもののように見える
一回り大きくなって 体ごと呼吸しだす
脱皮した皮のように縮んでいくシミーズ
猫が匂いを嗅ぎに戻ってくる

 「一回り大きくなって 体ごと呼吸しだす」がとてもおもしろい。ほんとうに体が一回り大きくなったのか。あるいは、呼吸のときの動きが見えてくるので(体ごと呼吸)、そのために大きくなって見えるのか。わからない。このわからないところにこそ、詩がある、と思うのだ。
 虚構、嘘というのは話している人にはわかりきっている。聞き手にはそれが嘘かほんとうかわからないが、話してはいつでも虚構、嘘がわかっている。ところが、それがわからなくなる瞬間があるのだ。いま、言ったのはほんとうのこと? それとも嘘のこと? ちょっと話のついでに実際に知っていること、体験したこと(ほんとうのこと)を紛れ込ませた瞬間、ことばがどっちを土台にしていいかわからなくなり、話者の意識を離れ、ことばがかってに動いてしまう瞬間がある。そこから、ことばは突然おもしろくなる。

脱皮した皮のように縮んでいくシミーズ

 あ、すごいなあ。私は猫ではないから、その匂いを嗅ぎにはいかないが(と、冷静に書いておく)、その縮んだシミーズは見たいなあ、拾い上げてみたいなあ、と思ってしまう。とてもリアリティーがある。虚構・嘘には、こういうリアリティーが絶対必要だ。

 「瓶の中の子鳥」の3連目もいい。「小鳥を飼ってみないか」と言われたのだが……。
v
うちには犬がいるからなあ
どこかの隅に生かしていたのだろう
そんな細胞をかかえた私がいて
そんな私をかかえた闇が濃くなっていた

 小鳥を飼ってみないかと誘われたとき、「私」の家にはほんとうは犬はいない。いなかった--というべきか。いたのは昔。4年前には死んでしまった。
 だが、記憶が、いまのことであると、嘘をつく。
 その瞬間、私のなかに、もうひとりの私。でも、どっちがほんとうの私? どんちもほんもの。だから、こまる。だから、楽しい。
 ことばは、小鳥も犬も忘れて、「私」の「細胞」を突然問題にする。「闇」を突然問題にしだす。いいかげん(?--これは、もちろんいい意味で「いいかげん」と書いているのです)でしょ、この話題の転換の仕方。突飛でしょ? そこに詩がある。ほんとうと嘘が区別がなくなり、どこかへ動いていってしまわないといけない。
 そして、この「いいかげん」である「細胞」がなぜか、不思議なことに、よくわかるのである。納得できるのである。変だよなあ、人間が使うことばの説得力というのは。ほんとうのことが嘘を励まして、とんでもないことばを引き出す。それはとんでもないことなのに、なぜかぐいと胸の奥へ入り込んでしまう。それは、たぶん「常識」を破壊して存在する「真実」という詩なのかもしれない。



終わらない絵画展
山崎 るり子
思潮社

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