詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小松弘愛『のうがええ電車』

2009-12-06 00:00:00 | 詩集
小松弘愛『のうがええ電車』(花神社、2009年11月10日発行)

 小松弘愛『のうがええ電車』には「続・土佐方言の語彙をめぐって」という副題がついている。詩のなかにかならず「土佐方言」が出てくる。そして、その方言とともにあった「時間」が出てくる。小松は、ことばのなかにあった「時間」をひっぱりだし、いまと結びつける仕事をしている。
 しかし、それは必ずしも完全に結びつくわけではない。「時代」が変わってしまっているからである。どうして、こうなってしまったのか。簡単に言えば、小松が「後記」に書いているように、「有力な標準語」が「時代」さえ変えてしまったということになるのかもしれない。まあ、そうなんだろうと、思う。思うけれど、そのことについて、私は何かを具体的に考えることができない。「時代」をもう一度もとに戻すということはむずかしいことだろう--ときわめて、あいまいに、あきらめてしまう。小松には申し訳ないが……。
 けれど、私にもできることがある。「あ、このことばいいじゃないか」と感想をいうこと。その感想をとおして、かつての「時間」のなかにある「こころ」に触れてみること。その「肉体」の強さ、大きさ、というか包容力のようなものにほれぼれすること。

 「がいに」という詩が、私はとても好きだ。
 「がいに」というのは「手荒な、乱暴に」という「意味」らしい。そして「がい」は「雅意、我意」に通じるという。「思いたったこころのまま。自分勝手な考え。勝手気まま」ということになる。

といっても
 
 「そんなにがいに抱き締めんとって」

こんな用例も可能ではないだろうか
この 女の人のうれしい抗議の声

 まあ、「うれしくない」ときもそういうかもしれないが、それには目を向けず、「うれしい声」と断言して(?)ことばを追っていく小松が楽しい。ここにも、やっぱり「がいに」ということばを補って、「がいに」ことばを追いかける小松が楽しい、と書いてみたい感じがする。
 小松は、「がいに」の用例(辞書にある用例)が無粋なので、ちょっと自分で動かしてみている。そこから、もっと楽しくなる。

わたしが小学校のときに習った
「おなご」先生の歌

 おなごぢゃきがいな物言いしなさんな母の訓えの今も守れぬ

あの 女の人の

 「そんなにがいに抱き締めんとって」

あのとき あの人は
守っていたといってよいのだろうか
守っていなかったといってよいのだろうか
「おなご」としての「母の訓え」を

 「守っていた」も「守っていない」もないのである。両方なのだ。両方につかえるのだ。どんなときでも、ことばは両方の意味を持つ。反対の意味を持つ。「嫌い、嫌い、大嫌い」といいながら「好き、好き、大好き」という「思い」を伝えることもこともできる。小松が書いているように「そんなにがいに抱き締めんとって」をうれしい抗議こともできる。「がいに」抱き締められるからこそ、その「がいに」に愛そのものを感じ、うれしい声になるのだ。
 「文字」のなかには「感情」が見えにくいが、「声」のなかには「こころ」はくっきりと浮かび上がる。
 小松は「ことば」を「文字」で再現しながら、耳は「声」を聞いているのだ。そして、その「声」こそが「標準語」のなかで失われたものなのだ。

 「そんなに乱暴に抱き締めないで」という訴えも、うれしい抗議にもなれば、きびしい抗議にもなる。ことばであるかぎり、それは同じである。「土佐方言」だけが「うれしい抗議」になるわけではない。
 なるわけではないけれど、小松は、「標準語」を除外する。「乱暴に抱き締めないで」では、だめ。「がいに抱き締めんとって」のときだけ、そこには、あたたかい、うれしい抗議がありうると、「がいに」考える。
 なぜなら。
 「乱暴に」には「我意」も「雅意」も「文字」として当てられないから。「土佐方言」だけが(?)、「がいに」を「我意に」であると、優雅な意識(雅意?)で振りあてることができる。愛するときの人間のこころは、どんなに我が儘であっても、それは優雅である--とまで言っていいのかどうかわからないけれど、愛するときの人間のこころは、絶対に「乱暴」とは違うものだ。人が人を愛するときのこころは、雅につうじる洗練された美しさにつながっている。そして、そのことを「土佐方言」の「がいに」は教えてくれる。方言はもともと「口語」であるけれど、「口語」もまた意識の奥底で「文字」をもっている。「概念」をもっている。
 小松は、その「ことば」の概念を、失われた「哲学」「思想」を、「方言」のなかからひっぱりだし、「いま」と結びつけようとしている。結びつけることで、世界そのもの(現代そのもの)を批判している。「肉体化」したことばを排除してしまった「標準語」の世界、「流通」を第一としたことばしか認めない「時代」を批判している。

 口語(方言)「がいに」のなかの「雅意に、我意に」という「意味」は見えにくい。すぐにその「概念」を思い浮かべることができるひとはほとんどいないだろう。それは、その「概念」が希薄になっているからではない。そうではなく、その「概念」は意識する必要がないほどことば(口語・方言)にしみついてしまっているのだ。「無意識」にまで「高められている」のだ。
 こういう「無意識にまで高められた概念」こそ「思想」である。そして、それが「ことばの肉体」というものである。それは、けっして「誤読」されない。

 「乱暴に抱き締めないで」ということばは、嫌いで言っているのか好きで言っているのかわからないことがあっても、「そんなにがいに抱き締めんとって」という「声」を聞くとき、その声を「うれしい抗議」か「きびしい抗議」か聞き間違えることは絶対にない。「目」(肉眼ではなく、頭の目)は「ことば」を「誤読」する。けれど、耳(「肉耳」ということばがないのは、耳はいつでも「肉耳」だからである)は、「肉声」の意味を「誤聴」することはない。
 私は書き出しのほうで、小松は「がいにことばを追いかける」とわざと書いた。「がいに抱き締めんとって」には「きびしい抗議」もあるはずなのに、小松は強引に「うれしい抗議」だけを追いかけている--とわざと批判した。しかし、そんなことはないのだ。小松は「がいに抱き締めんとって」ということばを「文字」で読んだのではないのだから。ちゃんと「耳」(肉耳)で聞いたのだから。
 ね、だから。
 と、年上の(たぶん)人をからかって(?)はいけないのかもしれないけれど、ちょっとからかいたい。ちゃちゃをいれたい。
 ね、だから、ほら、次の行がとってもとってもかわいいでしょ? かわいい「おのろけ」がいいでしょ?(これが書きたくて、私は「がいに」、先に引用するとき、一部を省略したんです。)

 「そんなにがいに抱き締めんとって」

こんな用例も可能ではなかろうか
この 女の人のうれしい抗議の声
わたしも いつかどこかで
体験したように思われてきて

 うーん、「いつかどこかで/体験した」んですね。「ように思われてきて」なんて、わざとごまかしているけれど、「いつ」「どこ」だって、ちゃんと覚えているでしょ? 「頭」ではなく「肉体」が。だから、ついつい、ことばになるんです。もらしちゃんですよ。本音を。
 いいなあ、こういう瞬間。こういう瞬間のことば。
口語(方言)のなかにしっかり組み込まれた「思想」は、いつでも「体験」をとおして「肉体」化される。そして、「無意識」にぽろっとこぽれる。そして、それがさらに「ひと」に受け継がれる。あ、それこそ、愛なんだなあ、と思う。「ひと」と「ひと」をつなぐものなんだなあ、と思う。ことばのなかには、いつでも愛があるんだなあ、と自然に感じてしまう。



詩集 のうがええ電車―続・土佐方言の語彙をめぐって
小松 弘愛
花神社

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