長田弘「カシコイモノヨ、教えてください」(「現代詩手帖」2009年12月号)
岡井隆の「文体」の外にあるもの、岡井隆の「文体」とは違った世界はどこにあるか。いろいろあるかもしれないが、すぐに思い浮かぶのは長田弘の世界である。
「カシコイモノヨ、教えてください」(初出『世界はうつくしいと』2009年04月発行)。この作品でも、「他者」が引用され、そのことばと長田は向き合っている。その「向き合い」を「注解」と呼ぶことはできるが、「注解」の仕方がまったく違う。
この作品のなかの、もっとも「注解」的な部分は、
である。「カシコイモノ」「ゴクラク」を長田は長田の知っていることばで言い換えている。こうした、ことばをことばで言い換えることが「注解」になり、同時に、「別個」な存在の出会い、衝突という意味では「詩」になるのだが、その言い換え方、出会いのあり方が岡井の場合と大きく違う。
岡井は「単語」で「注解」はしない。「文章」で「注解」をする。これに対して長田は「単語」で「注解」する。
「文章」と「単語」は、どう違うか。「概念」のあり方が違う。プラトンのことばで言えば、「イデア」のあり方が違う。「文章」のなかにある「概念」は「運動」である。「文章」のなかでは「概念」は固定していない。運動している。何かを壊し、否定し、同時に何かを生み出している。そこには、ある意味では「未生」の「概念」が動いている。生まれようとしてうごめいている。ところが「単語」のなかでは、それは「運動」していない。「独立」して、「概念」そのものとして存在している。
言い換えよう。
岡井は、「注解」するとき、その「解答」をもっているようであって、ほんとうはもっていない。もっていないというのはいいすぎになるかもしれないが、「注解」しながら、ことばを「解答」の方へと動かしていく。ところが長田は「解答」しか提出しない。その「解答」がどうやって生まれてきたか、その「解答」の結果、「注解されるもの」はどう変わるのか、ということは語らない。
もっと言えば、長田の場合、「注解」することによって、「注解されるもの」が変わってしまうということはない。
岡井の場合、そうではない。岡井の場合だって、だれかに「注解」を求められ、それを説明するとき「解答」は想定されていて、その「解答」が揺らぐということは基本的にはないのだが、「注解」をする過程で、わきから(たとえば聴講生から)、想定外の質問が飛び出してきて、それに対して答えるために「気分」がずれていく。岡井のなかで「気分」が揺らぐ。その「気分」の揺らぎが「解答」に微妙に反映する。そして、その「反映」が、岡井の「肉体」そのものにも返ってくる。奇妙な疲労感や、不思議な解放感となって、「解答」に微妙な「気分」のにおいが残ることになる。この「気分のにおい」を「不純物」ととりあえず定義しておくと……。
長田の詩には、そういう「不純物」はない。
先行することば「コノカシコイモノ」と長田の注釈「ことば」がぶつかるとき、その「ふたつ」のことば、ことばが抱える「概念」(イデア)は、互いに不純物を取り去って、より透明に、より純粋になっていく。
そこが違うのだ。
「イデア」と「存在」の関係はむずかしい。
「イデア」というのは、たぶん人間の思考する力のなかにだけ存在し、現実には存在しない。けれども、何か具体的なものと一緒になって、目の前にあらわれてくる。そして、その目の前にあらわれてきたものは、さまざまに形を変える(変化していく)、というか、実はどんなものをとうしてもあらわれることができる。そしてさらに、そのさまざまに形を変えるもののなかにあっても、「イデア」そのものはまったくかわらない。
書きはじめると、どんどんややこしくなって、自分でもよくわからなくなるけれど……。長田の作品に戻って説明しなおすと。
と長田は書いているが、「コノカシコイモノとは、路傍の石だ」と書いても「イデア」としてはなんの変化もないのだ。「ゴクラクが、踏みつけられる石だ」と書いても「イデア」はなんの変化もない。「コノカシコイモノとは、ゴクラだ」と書き直しても、「イデア」はまったくかわらない。
長田にとって「イデア」とは「永遠普遍の一(いち、ひとつ)」なのだ。それに対して現実は「多」である。「一」と「多」が出会う「場」として「現実」があり、「多」が出会えば出会うほど、その「一」は純粋に、より完璧な「一」に近づいてゆくのだ。
別なことばで大胆に言いなおすと、長田の書いている作品は「純粋詩」である。これに対して岡井の書いている作品は「不純詩・渾沌詩」である。
岡井のことばは「純粋」へは向かわない。「一」へは向かわない。逆に「多」へ向かう。どこまでもどこまでも「多」へ向かい、そしてもしあるとき、その運動が完成するとしたら、岡井の言及した「多」のすべてが実は「一」だったということがわかる--そういうことばの運動である。
あらゆる「多」のなかに「一」を見る長田。逆に「一」のなかにさまざまな「多」を見る岡井。--そう言いなおした方がいいのかもしれない。それは最終的には、どちらも「多」が「一」であり、「一」が「多」であるという哲学にたどりつき、その瞬間、融合するものだが、運動の方向がまったく逆である。
どちらがいいというのではない。ただ、私には、岡井の運動の方がより画期的に見える。新しく見える。不純物というと「悪口」にきこえるかもしれないが、不純なもの、未整理なもの、渾沌をすべてのみこみ、やがて新しい「ビッグバン」を引き起こすためのすさまじい運動の出発点に思える。
何度でも書くけれど、岡井の詩集は「大事件」である。
岡井は巨大な「ビッグバン」、新しい宇宙創世へ向けて、日本語のさまざまな「地層」を凝縮した。それは、ぐいぐい押さえつけられて、マグマになって噴火する。その噴火が「ビッグバン」。
クリスマスプレゼントを買うのをやめて、自分自身に岡井の『注解する者』をプレゼントしよう。「何がほしい?」と聞いてくれる人があったら「岡井隆の詩集『注解する者』がほしい」と言おう。詩に関心があるのなら。日本語に関心があるのなら。
岡井隆の「文体」の外にあるもの、岡井隆の「文体」とは違った世界はどこにあるか。いろいろあるかもしれないが、すぐに思い浮かぶのは長田弘の世界である。
「カシコイモノヨ、教えてください」(初出『世界はうつくしいと』2009年04月発行)。この作品でも、「他者」が引用され、そのことばと長田は向き合っている。その「向き合い」を「注解」と呼ぶことはできるが、「注解」の仕方がまったく違う。
夜、覆刻ギュツラフ訳聖書を開き、
ヨアンネスノ タヨリ ヨロコビを読む。
北ドイツ生まれの、宣教の人ギュツラフが、
日本人の、三人の遭難漂流民の助けを借りて、
遠くシンガポールで、うつくしい木版で刷った
いちばん古い、日本語で書かれた聖書。
ハジマリニ カシコイモノゴザル。
カシコイモノ ゴクラクトトモニゴザル。
コノカシコイモノワゴクラク。
コノカシコイモノとは、ことばだ。
ゴクラクが、神だ。福音がわたしたちに
もたらすものは、タヨリ ヨロコビである。
今日、ひつようなのは、一日一日の、
静かな冒険のためのことば、祈ることばだ。
ヒトノナカニ イノチノアル、
コノイノチワ ニンゲンノヒカリ。
コノヒカリワ クラサノナカニカガヤク。
だから、カシコイモノヨ、教えてください。
どうやって祈るかを、ゴクラクをもたないものに。
この作品のなかの、もっとも「注解」的な部分は、
コノカシコイモノとは、ことばだ。
ゴクラクが、神だ。
である。「カシコイモノ」「ゴクラク」を長田は長田の知っていることばで言い換えている。こうした、ことばをことばで言い換えることが「注解」になり、同時に、「別個」な存在の出会い、衝突という意味では「詩」になるのだが、その言い換え方、出会いのあり方が岡井の場合と大きく違う。
岡井は「単語」で「注解」はしない。「文章」で「注解」をする。これに対して長田は「単語」で「注解」する。
「文章」と「単語」は、どう違うか。「概念」のあり方が違う。プラトンのことばで言えば、「イデア」のあり方が違う。「文章」のなかにある「概念」は「運動」である。「文章」のなかでは「概念」は固定していない。運動している。何かを壊し、否定し、同時に何かを生み出している。そこには、ある意味では「未生」の「概念」が動いている。生まれようとしてうごめいている。ところが「単語」のなかでは、それは「運動」していない。「独立」して、「概念」そのものとして存在している。
言い換えよう。
岡井は、「注解」するとき、その「解答」をもっているようであって、ほんとうはもっていない。もっていないというのはいいすぎになるかもしれないが、「注解」しながら、ことばを「解答」の方へと動かしていく。ところが長田は「解答」しか提出しない。その「解答」がどうやって生まれてきたか、その「解答」の結果、「注解されるもの」はどう変わるのか、ということは語らない。
もっと言えば、長田の場合、「注解」することによって、「注解されるもの」が変わってしまうということはない。
岡井の場合、そうではない。岡井の場合だって、だれかに「注解」を求められ、それを説明するとき「解答」は想定されていて、その「解答」が揺らぐということは基本的にはないのだが、「注解」をする過程で、わきから(たとえば聴講生から)、想定外の質問が飛び出してきて、それに対して答えるために「気分」がずれていく。岡井のなかで「気分」が揺らぐ。その「気分」の揺らぎが「解答」に微妙に反映する。そして、その「反映」が、岡井の「肉体」そのものにも返ってくる。奇妙な疲労感や、不思議な解放感となって、「解答」に微妙な「気分」のにおいが残ることになる。この「気分のにおい」を「不純物」ととりあえず定義しておくと……。
長田の詩には、そういう「不純物」はない。
先行することば「コノカシコイモノ」と長田の注釈「ことば」がぶつかるとき、その「ふたつ」のことば、ことばが抱える「概念」(イデア)は、互いに不純物を取り去って、より透明に、より純粋になっていく。
そこが違うのだ。
「イデア」と「存在」の関係はむずかしい。
「イデア」というのは、たぶん人間の思考する力のなかにだけ存在し、現実には存在しない。けれども、何か具体的なものと一緒になって、目の前にあらわれてくる。そして、その目の前にあらわれてきたものは、さまざまに形を変える(変化していく)、というか、実はどんなものをとうしてもあらわれることができる。そしてさらに、そのさまざまに形を変えるもののなかにあっても、「イデア」そのものはまったくかわらない。
書きはじめると、どんどんややこしくなって、自分でもよくわからなくなるけれど……。長田の作品に戻って説明しなおすと。
コノカシコイモノとは、ことばだ。
ゴクラクが、神だ。
と長田は書いているが、「コノカシコイモノとは、路傍の石だ」と書いても「イデア」としてはなんの変化もないのだ。「ゴクラクが、踏みつけられる石だ」と書いても「イデア」はなんの変化もない。「コノカシコイモノとは、ゴクラだ」と書き直しても、「イデア」はまったくかわらない。
長田にとって「イデア」とは「永遠普遍の一(いち、ひとつ)」なのだ。それに対して現実は「多」である。「一」と「多」が出会う「場」として「現実」があり、「多」が出会えば出会うほど、その「一」は純粋に、より完璧な「一」に近づいてゆくのだ。
別なことばで大胆に言いなおすと、長田の書いている作品は「純粋詩」である。これに対して岡井の書いている作品は「不純詩・渾沌詩」である。
岡井のことばは「純粋」へは向かわない。「一」へは向かわない。逆に「多」へ向かう。どこまでもどこまでも「多」へ向かい、そしてもしあるとき、その運動が完成するとしたら、岡井の言及した「多」のすべてが実は「一」だったということがわかる--そういうことばの運動である。
あらゆる「多」のなかに「一」を見る長田。逆に「一」のなかにさまざまな「多」を見る岡井。--そう言いなおした方がいいのかもしれない。それは最終的には、どちらも「多」が「一」であり、「一」が「多」であるという哲学にたどりつき、その瞬間、融合するものだが、運動の方向がまったく逆である。
どちらがいいというのではない。ただ、私には、岡井の運動の方がより画期的に見える。新しく見える。不純物というと「悪口」にきこえるかもしれないが、不純なもの、未整理なもの、渾沌をすべてのみこみ、やがて新しい「ビッグバン」を引き起こすためのすさまじい運動の出発点に思える。
何度でも書くけれど、岡井の詩集は「大事件」である。
岡井は巨大な「ビッグバン」、新しい宇宙創世へ向けて、日本語のさまざまな「地層」を凝縮した。それは、ぐいぐい押さえつけられて、マグマになって噴火する。その噴火が「ビッグバン」。
クリスマスプレゼントを買うのをやめて、自分自身に岡井の『注解する者』をプレゼントしよう。「何がほしい?」と聞いてくれる人があったら「岡井隆の詩集『注解する者』がほしい」と言おう。詩に関心があるのなら。日本語に関心があるのなら。
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