坂本久刀『貂(てん)』(詩遊社、2009年11月20日発行)
坂本久刀『貂(てん)』は「自分史」とも言える詩集である。あとがきに「私は徳島の農家の五男に生まれた。/五歳の時、兄たちが供した養子の話に、キャラメルを貰った嬉しさだけで北海道に連れて行かれた。そこはオホーツク沿岸の屯田兵の開拓村の魚屋だった。」とある。それ以後の出来事をつづっている。
「自分史」が「自分詩」になっているかと言えば、なってはいない。ことばが自由に動き回るという楽しさがない。「自分史」だから、それはしようがないといえばいえるのか--どうかは難しい問題である。きのう読んだ大石陽次の『ちゅうちゅうまんげのぼうめいて』は祖母の語りを再現したものだ。それは「事実」を書いているだけだと思うけれど、不思議なのびやかさがあった。ことばが生きていた。坂本のことばには、そののびやかな動きがない。少なくとも、私には「自由」を感じることができなかった。
そのかわり、一点、強く響いてくるものがあった。「自由」とは違ったものが、そこにあった。
「義兄(あに)の一言」は養父が死んだ時のことを書いている。
「運命」。そのことばを、たぶん坂本はすでに知っていた。けれども、その「意味」を真剣に考えたことはなかっただろうと思う。「運命」ということはば、誰でも、そうかもしれない。聞いて、知っている。簡単に「運命」ということばをつかいもするに、「運命」を占ったりもするが、「意味」をじっくり考えることはない。
その考えたことのなかった「運命」の「意味」がこのときはじめてわかったのではないだろうか。
自分の力ではどうすることもできないものを受け入れる。そして、受け入れたことを納得するために「運命」ということばが必要なのだ。--というか、その「ことばが必要」ということ、ことばによって何かを納得していくということが「生きる」ということを知ったと言うべきなのか。
ちょっと、どう区別していいかわからない。
坂本はこのとき人間が生きていくときには自分の力ではどうすることもできないものがある、「運命」があると知る。と同時に、坂本は、「運命」を信じ、それを生きる力にする(あるいは、あきらめるための理由にする)というよりも、自分を納得させることばそのものによって自分を支える。「運命」という事実(?)ではなく、「運命」ということばが坂本の生きる力を支える。
このときから坂本は詩を書きはじめているのだと私には思える。
「運命」というものがある。それは何かはよくわからない。それは自分の力、人間の力を超越している。そういうものによって人間は動かされている。坂本も動いている。その動きを、誰かがあたえることば(運命ということばのように、自分よりも先に意味がきまっていることば)ではなく、なんとか自分の見つけ出したことばで語り、その語るということで、自分自身の「生きる」という意味が決定される。--そんなことを坂本は考えたのではないだろうか。
あ、人間は、いつでも「この一言」を探している。それは、ふいにどこからかやってくる。そして、ひとを思いもかけないところへ動かしていく。そういう瞬間がある。その瞬間こそが、詩であると私は思う。
ことばが人間を助ける瞬間、ことばが人間を、いま、ここからどこか別のところへ運ぶ瞬間--そこに、詩のすべてがあると思う。
坂本の書いている多くのことばに、私は詩を感じることはできないが、この作品の、引用した部分には、とても正直な詩が隠れていると感じた。
坂本久刀『貂(てん)』は「自分史」とも言える詩集である。あとがきに「私は徳島の農家の五男に生まれた。/五歳の時、兄たちが供した養子の話に、キャラメルを貰った嬉しさだけで北海道に連れて行かれた。そこはオホーツク沿岸の屯田兵の開拓村の魚屋だった。」とある。それ以後の出来事をつづっている。
「自分史」が「自分詩」になっているかと言えば、なってはいない。ことばが自由に動き回るという楽しさがない。「自分史」だから、それはしようがないといえばいえるのか--どうかは難しい問題である。きのう読んだ大石陽次の『ちゅうちゅうまんげのぼうめいて』は祖母の語りを再現したものだ。それは「事実」を書いているだけだと思うけれど、不思議なのびやかさがあった。ことばが生きていた。坂本のことばには、そののびやかな動きがない。少なくとも、私には「自由」を感じることができなかった。
そのかわり、一点、強く響いてくるものがあった。「自由」とは違ったものが、そこにあった。
「義兄(あに)の一言」は養父が死んだ時のことを書いている。
医者がきたときは既に死んでいた
酒好きだった養父(ちち)は脳溢血だった
五歳で養子にきた私は涙が溢れでた
翌日になっても止まらない
四年前、戦地より復員していた
寡黙な義兄(あに)がそっと言った
「これは養父(とう)さんの運命だよ」
この一言で涙が止まり心が軽くなった
「運命」。そのことばを、たぶん坂本はすでに知っていた。けれども、その「意味」を真剣に考えたことはなかっただろうと思う。「運命」ということはば、誰でも、そうかもしれない。聞いて、知っている。簡単に「運命」ということばをつかいもするに、「運命」を占ったりもするが、「意味」をじっくり考えることはない。
その考えたことのなかった「運命」の「意味」がこのときはじめてわかったのではないだろうか。
自分の力ではどうすることもできないものを受け入れる。そして、受け入れたことを納得するために「運命」ということばが必要なのだ。--というか、その「ことばが必要」ということ、ことばによって何かを納得していくということが「生きる」ということを知ったと言うべきなのか。
ちょっと、どう区別していいかわからない。
坂本はこのとき人間が生きていくときには自分の力ではどうすることもできないものがある、「運命」があると知る。と同時に、坂本は、「運命」を信じ、それを生きる力にする(あるいは、あきらめるための理由にする)というよりも、自分を納得させることばそのものによって自分を支える。「運命」という事実(?)ではなく、「運命」ということばが坂本の生きる力を支える。
このときから坂本は詩を書きはじめているのだと私には思える。
「運命」というものがある。それは何かはよくわからない。それは自分の力、人間の力を超越している。そういうものによって人間は動かされている。坂本も動いている。その動きを、誰かがあたえることば(運命ということばのように、自分よりも先に意味がきまっていることば)ではなく、なんとか自分の見つけ出したことばで語り、その語るということで、自分自身の「生きる」という意味が決定される。--そんなことを坂本は考えたのではないだろうか。
この一言で涙が止まり心が軽くなった
あ、人間は、いつでも「この一言」を探している。それは、ふいにどこからかやってくる。そして、ひとを思いもかけないところへ動かしていく。そういう瞬間がある。その瞬間こそが、詩であると私は思う。
ことばが人間を助ける瞬間、ことばが人間を、いま、ここからどこか別のところへ運ぶ瞬間--そこに、詩のすべてがあると思う。
坂本の書いている多くのことばに、私は詩を感じることはできないが、この作品の、引用した部分には、とても正直な詩が隠れていると感じた。