監督・脚本 イエジ・スコリモフスキ 出演 アルトゥル・ステランコ、キンガ・プレイス、イエジー・フェドロヴィチ、バルバラ・コウォジェイスカ
あらゆる映像が美しい。とりわけ雨を含んだというか、湿気を含んだ空気の感じがすばらしい。
いちばん印象に残っているのは、川を流れてくる死んだ牛である。死んでしまった牛がこの映画のように横向きに浮いて流れるかどうか私は知らないが、異様さに引きつけられる。これは私が知っているもの? それとも知らないもの? そのわからなさを、雨の色、川面の色、川面にうつる風景、空の色、空気の色が、これは「現実」である、とささやきかける。雨の色や空気の色はたしかに私の知っているものだ。だから、その川を流れてくる牛もまた現実だと映像は告げるのである。
映画の主人公は病院の火葬場(?)で働く男である。男には病気の祖母がいる。男は祖母の面倒をみながら働いている。この男の楽しみは、寮に住む看護婦を覗き見ることである。長い間、ただ覗き見をしていた男が、祖母が死んで、祖母ののんでいた眠り薬が残ったために、ふと思いついてしまう。覗き見するだけではなく、女に眠り薬をのませ、部屋に侵入することを。「覗き見」ではなく、もっと近くで女をじかに見ることを。
女は寝る前にお茶(コーヒー?)をのむ。砂糖をいれてのむ。その砂糖に眠り薬を混ぜる。そのために、女が砂糖をいれているジャムの空き瓶を調べる。同じジャムを買ってくる。中身を捨てて、眠り薬をまぜた砂糖をつめる。女がつかっている砂糖の量にあわせて、瓶ごとすりかえてしまう。--こういう手順をとてもていねいにていねいに描写していく。死んだ牛が川上からゆっくり流れてくる。それが、あ、牛だとわかるように、空き瓶を調べ、同じメーカーのジャムをスーパーで買って……という動作が、ことばもなく、ただたんたんと同じスピード、牛を運ぶ川の水の流れのスピードのように、緊密に動いていく。
どんなものでも、激しく動いているものは、それが何かわからないときがある。けれど、ゆったりと動いていると、それが何であるか少しずつ、しだいにわかってくるときがある。緊密に動くと、その動きがこころのなかに根付いて、見ている対象と一体化してしまう--そんな感じで、そこで起きていることがわかってくるときがある。
この映画は、それに似ている。
女が眠る。眠ったのを確認して、男は女の部屋にしのびこむ。懐中電灯の明かりで、そっと眠った女を見る。遠くからはわからない肌の感じ。それを確かめるように男は女の枕元へ近づいていく。
男は女を犯すのか。
男は、そんなことはしない。何をするか。眠り薬のために、途中で終わってしまったペディキュア。その足の指に、そっと紅い色を塗りはじめる。まるで女そのものよりも、ペディキュアの紅い色に引き寄せられているかのようだ。(これは、あとで重要な色だったということがわかるのだが、それは映画のお楽しみ。)あるいは、看護婦の制服のとれかけたボタンを針と糸でつくろう。あるいはパーティーのあとの汚れたままの食器類を洗って片付ける。あるいは落ちてこわれた鳩時計をなおす……。
途中に、パーティーの残りの料理と酒とで、「ひとりパーティー」というか、女といっしょに踊っているような気持ちになるシーンもあるが、そのときでも、男は女に触れているわけではない。男は頭のなかでは女に触れているが、現実には女には触れていない。
男が女に触れるのは、先に書いたペディキュアのシーンと、退職金で買った指輪を女の指にはめようとするときだけである。誕生日のプレゼントとして、男は女のために指輪を買った。それを、女が眠っているあいだに、そっとその指に残していこうとする。そうすることで、愛を伝えようとする。
……これは、結局、うまくいかない。
うまくいかないのだが、そのうまくいかないことが切ない。男の愛は、いわば異常なものだが、その異常さが、とてもとてもゆっくり進むので、知らず知らずに男が感じていること、考えていることがスクリーンからつたわってくるのである。その男の感情がしらずしらずに私をのみこんでしまうのだ。指輪のシーンなど、思わず、うまく指にはまりますように、と思わず祈ってしまうのである。サイズが合わずに指からするりと落ちる。そうすると、男が「しまった」と思うより先に、私の方が「あ、しまった」と思ってしまう。床板の隙間にはさまり、とれなくなると「どうしよう」と焦ってしまう。私は当事者ではなく、たんなる映画の観客なのに、まるで看護婦の部屋にいて、女の指にそっと触れ、転がり落ちた指輪をどうすれば拾えるだろうと考えてしまう。
スクリーンで展開されるスピードに、そのゆったりした流れに、のみこまれいっしょに流れていることに気がつく。そして、そのとき、それがただたんにスピードがゆったりしているからだけではなく、そこに「空気」そのものがとりこまれているからだということにも気がつく。女の部屋。使い込まれた家具の伝えてくる落ち着いた時間の美しさ。(これは「長江哀歌」がとてもていねいに描き出したものにつながる。)その窓。破れた硝子。そこにも存在する「時間」。そして、窓の外の冷たく湿った感じ。車が通りすぎるとき、ふいに車のライトが部屋を照らしながら駆け抜ける。そのときの光の動き。どんな世界も、ふいの侵入者を防ぐことはできない--ゆったりしているけれど、そこに「緊張感」もある。あ、カメラがすごいのだ、映像がすごいのだ、とそういうときにあらためて気がつく。
この映画に描かれていることがほんとうにあるかどうかわからない。映画は作り物だから、もちろん嘘であってもかまわないのだが、それが嘘ではないと感じさせるのはカメラの力だ。男が女の部屋にしのびこむのを私は現実に見たことがないし、女の部屋にしのびこんで寝顔を見るということもしたことはないが、いまスクリーンで繰り広げられていることを「現実」と感じるばかりか、まるで「男」になったような気持ちにさえなってしまうのは、カメラがとらえるあらゆる映像のなかに「空気」がしっかりととらえられているからだとわかる。
雨の色、雨にぬれた木の色、土の色、破れた納屋の扉、使い込まれ汚れがしみついたさまざまなもの。汚れながら、それを美しく磨き、つかう繰り返しによって生まれてくる時間の美しさ。そういうもの、存在が必然的にかかえこんでしまう「過去」とそれをつつむ「空気」そのものが、私をスクリーンのなかにぐいと引き込んだのだとわかる。
あらゆる映像が美しい。とりわけ雨を含んだというか、湿気を含んだ空気の感じがすばらしい。
いちばん印象に残っているのは、川を流れてくる死んだ牛である。死んでしまった牛がこの映画のように横向きに浮いて流れるかどうか私は知らないが、異様さに引きつけられる。これは私が知っているもの? それとも知らないもの? そのわからなさを、雨の色、川面の色、川面にうつる風景、空の色、空気の色が、これは「現実」である、とささやきかける。雨の色や空気の色はたしかに私の知っているものだ。だから、その川を流れてくる牛もまた現実だと映像は告げるのである。
映画の主人公は病院の火葬場(?)で働く男である。男には病気の祖母がいる。男は祖母の面倒をみながら働いている。この男の楽しみは、寮に住む看護婦を覗き見ることである。長い間、ただ覗き見をしていた男が、祖母が死んで、祖母ののんでいた眠り薬が残ったために、ふと思いついてしまう。覗き見するだけではなく、女に眠り薬をのませ、部屋に侵入することを。「覗き見」ではなく、もっと近くで女をじかに見ることを。
女は寝る前にお茶(コーヒー?)をのむ。砂糖をいれてのむ。その砂糖に眠り薬を混ぜる。そのために、女が砂糖をいれているジャムの空き瓶を調べる。同じジャムを買ってくる。中身を捨てて、眠り薬をまぜた砂糖をつめる。女がつかっている砂糖の量にあわせて、瓶ごとすりかえてしまう。--こういう手順をとてもていねいにていねいに描写していく。死んだ牛が川上からゆっくり流れてくる。それが、あ、牛だとわかるように、空き瓶を調べ、同じメーカーのジャムをスーパーで買って……という動作が、ことばもなく、ただたんたんと同じスピード、牛を運ぶ川の水の流れのスピードのように、緊密に動いていく。
どんなものでも、激しく動いているものは、それが何かわからないときがある。けれど、ゆったりと動いていると、それが何であるか少しずつ、しだいにわかってくるときがある。緊密に動くと、その動きがこころのなかに根付いて、見ている対象と一体化してしまう--そんな感じで、そこで起きていることがわかってくるときがある。
この映画は、それに似ている。
女が眠る。眠ったのを確認して、男は女の部屋にしのびこむ。懐中電灯の明かりで、そっと眠った女を見る。遠くからはわからない肌の感じ。それを確かめるように男は女の枕元へ近づいていく。
男は女を犯すのか。
男は、そんなことはしない。何をするか。眠り薬のために、途中で終わってしまったペディキュア。その足の指に、そっと紅い色を塗りはじめる。まるで女そのものよりも、ペディキュアの紅い色に引き寄せられているかのようだ。(これは、あとで重要な色だったということがわかるのだが、それは映画のお楽しみ。)あるいは、看護婦の制服のとれかけたボタンを針と糸でつくろう。あるいはパーティーのあとの汚れたままの食器類を洗って片付ける。あるいは落ちてこわれた鳩時計をなおす……。
途中に、パーティーの残りの料理と酒とで、「ひとりパーティー」というか、女といっしょに踊っているような気持ちになるシーンもあるが、そのときでも、男は女に触れているわけではない。男は頭のなかでは女に触れているが、現実には女には触れていない。
男が女に触れるのは、先に書いたペディキュアのシーンと、退職金で買った指輪を女の指にはめようとするときだけである。誕生日のプレゼントとして、男は女のために指輪を買った。それを、女が眠っているあいだに、そっとその指に残していこうとする。そうすることで、愛を伝えようとする。
……これは、結局、うまくいかない。
うまくいかないのだが、そのうまくいかないことが切ない。男の愛は、いわば異常なものだが、その異常さが、とてもとてもゆっくり進むので、知らず知らずに男が感じていること、考えていることがスクリーンからつたわってくるのである。その男の感情がしらずしらずに私をのみこんでしまうのだ。指輪のシーンなど、思わず、うまく指にはまりますように、と思わず祈ってしまうのである。サイズが合わずに指からするりと落ちる。そうすると、男が「しまった」と思うより先に、私の方が「あ、しまった」と思ってしまう。床板の隙間にはさまり、とれなくなると「どうしよう」と焦ってしまう。私は当事者ではなく、たんなる映画の観客なのに、まるで看護婦の部屋にいて、女の指にそっと触れ、転がり落ちた指輪をどうすれば拾えるだろうと考えてしまう。
スクリーンで展開されるスピードに、そのゆったりした流れに、のみこまれいっしょに流れていることに気がつく。そして、そのとき、それがただたんにスピードがゆったりしているからだけではなく、そこに「空気」そのものがとりこまれているからだということにも気がつく。女の部屋。使い込まれた家具の伝えてくる落ち着いた時間の美しさ。(これは「長江哀歌」がとてもていねいに描き出したものにつながる。)その窓。破れた硝子。そこにも存在する「時間」。そして、窓の外の冷たく湿った感じ。車が通りすぎるとき、ふいに車のライトが部屋を照らしながら駆け抜ける。そのときの光の動き。どんな世界も、ふいの侵入者を防ぐことはできない--ゆったりしているけれど、そこに「緊張感」もある。あ、カメラがすごいのだ、映像がすごいのだ、とそういうときにあらためて気がつく。
この映画に描かれていることがほんとうにあるかどうかわからない。映画は作り物だから、もちろん嘘であってもかまわないのだが、それが嘘ではないと感じさせるのはカメラの力だ。男が女の部屋にしのびこむのを私は現実に見たことがないし、女の部屋にしのびこんで寝顔を見るということもしたことはないが、いまスクリーンで繰り広げられていることを「現実」と感じるばかりか、まるで「男」になったような気持ちにさえなってしまうのは、カメラがとらえるあらゆる映像のなかに「空気」がしっかりととらえられているからだとわかる。
雨の色、雨にぬれた木の色、土の色、破れた納屋の扉、使い込まれ汚れがしみついたさまざまなもの。汚れながら、それを美しく磨き、つかう繰り返しによって生まれてくる時間の美しさ。そういうもの、存在が必然的にかかえこんでしまう「過去」とそれをつつむ「空気」そのものが、私をスクリーンのなかにぐいと引き込んだのだとわかる。