詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

イエジ・スコリモフスキ監督「アンナと過ごした4日間」(★★★★)

2009-12-20 12:00:16 | 映画
監督・脚本 イエジ・スコリモフスキ 出演 アルトゥル・ステランコ、キンガ・プレイス、イエジー・フェドロヴィチ、バルバラ・コウォジェイスカ

 あらゆる映像が美しい。とりわけ雨を含んだというか、湿気を含んだ空気の感じがすばらしい。
 いちばん印象に残っているのは、川を流れてくる死んだ牛である。死んでしまった牛がこの映画のように横向きに浮いて流れるかどうか私は知らないが、異様さに引きつけられる。これは私が知っているもの? それとも知らないもの? そのわからなさを、雨の色、川面の色、川面にうつる風景、空の色、空気の色が、これは「現実」である、とささやきかける。雨の色や空気の色はたしかに私の知っているものだ。だから、その川を流れてくる牛もまた現実だと映像は告げるのである。
 映画の主人公は病院の火葬場(?)で働く男である。男には病気の祖母がいる。男は祖母の面倒をみながら働いている。この男の楽しみは、寮に住む看護婦を覗き見ることである。長い間、ただ覗き見をしていた男が、祖母が死んで、祖母ののんでいた眠り薬が残ったために、ふと思いついてしまう。覗き見するだけではなく、女に眠り薬をのませ、部屋に侵入することを。「覗き見」ではなく、もっと近くで女をじかに見ることを。
 女は寝る前にお茶(コーヒー?)をのむ。砂糖をいれてのむ。その砂糖に眠り薬を混ぜる。そのために、女が砂糖をいれているジャムの空き瓶を調べる。同じジャムを買ってくる。中身を捨てて、眠り薬をまぜた砂糖をつめる。女がつかっている砂糖の量にあわせて、瓶ごとすりかえてしまう。--こういう手順をとてもていねいにていねいに描写していく。死んだ牛が川上からゆっくり流れてくる。それが、あ、牛だとわかるように、空き瓶を調べ、同じメーカーのジャムをスーパーで買って……という動作が、ことばもなく、ただたんたんと同じスピード、牛を運ぶ川の水の流れのスピードのように、緊密に動いていく。
 どんなものでも、激しく動いているものは、それが何かわからないときがある。けれど、ゆったりと動いていると、それが何であるか少しずつ、しだいにわかってくるときがある。緊密に動くと、その動きがこころのなかに根付いて、見ている対象と一体化してしまう--そんな感じで、そこで起きていることがわかってくるときがある。
 この映画は、それに似ている。
 女が眠る。眠ったのを確認して、男は女の部屋にしのびこむ。懐中電灯の明かりで、そっと眠った女を見る。遠くからはわからない肌の感じ。それを確かめるように男は女の枕元へ近づいていく。
 男は女を犯すのか。
 男は、そんなことはしない。何をするか。眠り薬のために、途中で終わってしまったペディキュア。その足の指に、そっと紅い色を塗りはじめる。まるで女そのものよりも、ペディキュアの紅い色に引き寄せられているかのようだ。(これは、あとで重要な色だったということがわかるのだが、それは映画のお楽しみ。)あるいは、看護婦の制服のとれかけたボタンを針と糸でつくろう。あるいはパーティーのあとの汚れたままの食器類を洗って片付ける。あるいは落ちてこわれた鳩時計をなおす……。
 途中に、パーティーの残りの料理と酒とで、「ひとりパーティー」というか、女といっしょに踊っているような気持ちになるシーンもあるが、そのときでも、男は女に触れているわけではない。男は頭のなかでは女に触れているが、現実には女には触れていない。
 男が女に触れるのは、先に書いたペディキュアのシーンと、退職金で買った指輪を女の指にはめようとするときだけである。誕生日のプレゼントとして、男は女のために指輪を買った。それを、女が眠っているあいだに、そっとその指に残していこうとする。そうすることで、愛を伝えようとする。
 ……これは、結局、うまくいかない。
 うまくいかないのだが、そのうまくいかないことが切ない。男の愛は、いわば異常なものだが、その異常さが、とてもとてもゆっくり進むので、知らず知らずに男が感じていること、考えていることがスクリーンからつたわってくるのである。その男の感情がしらずしらずに私をのみこんでしまうのだ。指輪のシーンなど、思わず、うまく指にはまりますように、と思わず祈ってしまうのである。サイズが合わずに指からするりと落ちる。そうすると、男が「しまった」と思うより先に、私の方が「あ、しまった」と思ってしまう。床板の隙間にはさまり、とれなくなると「どうしよう」と焦ってしまう。私は当事者ではなく、たんなる映画の観客なのに、まるで看護婦の部屋にいて、女の指にそっと触れ、転がり落ちた指輪をどうすれば拾えるだろうと考えてしまう。
 スクリーンで展開されるスピードに、そのゆったりした流れに、のみこまれいっしょに流れていることに気がつく。そして、そのとき、それがただたんにスピードがゆったりしているからだけではなく、そこに「空気」そのものがとりこまれているからだということにも気がつく。女の部屋。使い込まれた家具の伝えてくる落ち着いた時間の美しさ。(これは「長江哀歌」がとてもていねいに描き出したものにつながる。)その窓。破れた硝子。そこにも存在する「時間」。そして、窓の外の冷たく湿った感じ。車が通りすぎるとき、ふいに車のライトが部屋を照らしながら駆け抜ける。そのときの光の動き。どんな世界も、ふいの侵入者を防ぐことはできない--ゆったりしているけれど、そこに「緊張感」もある。あ、カメラがすごいのだ、映像がすごいのだ、とそういうときにあらためて気がつく。
 この映画に描かれていることがほんとうにあるかどうかわからない。映画は作り物だから、もちろん嘘であってもかまわないのだが、それが嘘ではないと感じさせるのはカメラの力だ。男が女の部屋にしのびこむのを私は現実に見たことがないし、女の部屋にしのびこんで寝顔を見るということもしたことはないが、いまスクリーンで繰り広げられていることを「現実」と感じるばかりか、まるで「男」になったような気持ちにさえなってしまうのは、カメラがとらえるあらゆる映像のなかに「空気」がしっかりととらえられているからだとわかる。
 雨の色、雨にぬれた木の色、土の色、破れた納屋の扉、使い込まれ汚れがしみついたさまざまなもの。汚れながら、それを美しく磨き、つかう繰り返しによって生まれてくる時間の美しさ。そういうもの、存在が必然的にかかえこんでしまう「過去」とそれをつつむ「空気」そのものが、私をスクリーンのなかにぐいと引き込んだのだとわかる。
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谷川俊太郎「しゃがむ」

2009-12-20 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「しゃがむ」(「びーぐる」5、2009年10月20日発行)

 きのう、谷川俊太郎の「ホルンのこだま」について触れた。そして、最後に、

 「ぼく」とは「こと」である。孤独な旅を繰り返す「こと」である。「こと」を積み重ねて、「ぼく」は「ぼく」に「なる」。

 と書いた。この最後の部分はちょっと説明不足だった。というよりも、そのことばを書いたとき、私は意識のどこかで、「しゃがむ」という詩を思い出していたのかもしれない。

みちばたにぼくはしゃがんでいる
ひとりでしゃがんでいる
しゃがんでいるだけ

ぼくはなにもしていない
めはじべたをみているけど
みみはかぜをきいているけど

ぼくにはなまえがある
でもぼくはだれでもない
ただいきているだけ

いまぼくはたんぽぽみたい
みみずみたい かまきりみたい
ちょうちょみたい とべないけど

みちばたでぼくはたちあがる
そしたらにんげんになった
りんごかじりたくなった

 「にんげんになった」は正確には(?)人間にもどった、だろう。
 「ぼく」から「きもち」が出て行って、「ホルンのこだま」で「ぼく」が「かわになった」ように、この詩では「ぼく」は「たんぽぽ」「みみず」「かまきり」「ちょうちょ」になった。けれども、たんぽぽもみみずもかまきりもちょうちょも、どこへもたどりつけず、「ぼく」にもどってきた。「孤独」な旅を終えてもどってきた。そのとき、たんぽぽ、みみず、かまきり、ちょうちょが抱えてもどってきた「孤独」--それがそのまま「ぼく」の「孤独」にいままでとは違った影を、陰影を、あるいは輝きかもしれないが、なにかしらの変化をもたらす。それを受け入れるために、「ぼく」は「にんげん」に「なる」しかないのである。
 「ぼく」は「ぼく」に「なる」。けれど、その「ぼく」は「それまでのぼく」とは少し違っている。あるいは、まったく違っている。その「ぼく」は「それまでのぼく」につながっているだけではない。「それまでのぼく」とだけつながっているのなら、「にんげんになった」ではなく「ぼくにもどった」と正確に書くことができる。
 でも、「ぼくにもどった」のではない。
 「旅の孤独」「孤独な旅」をかかえてもどってきたとき、「ぼく」は、そういう旅をする「ぼく以外の他者」ともつながってしまう。「ぼく以外の他者」、ただし、同じ孤独な旅、旅の孤独を知っている「他者」とつながりながら、そういう旅の孤独を知っているひとを「にんげん」と呼び、その「にんげんになった」。「にんげんになる」。

 谷川にとって、「なる」ことが「ある」ことなのである。
 「かわ」になる。「たんぽぽ」になる。「かまきり」になる。「なる」はまた「旅」することであり、それは「孤独」を知ることでもある。「孤独」を知り、「孤独」同士が結びつく。ただし、この結びつきは、離れたままの結びつきである。離れたままの結びつきというのは矛盾表現だが、「肉体」そのものは離れて別々のところにあるが、孤独は互いを呼び合っている。そういう結びつき。離れていないと呼び合うことはできない。そういう結びつき。そういう呼び合うことができるということが、たぶん、人間の証なのだ。時空を超えて呼び合うのだ。そういうことができるように「なった」とき、できるように「なる」とき、谷川は谷川として「ある」。そしてその谷川は谷川ではなく、「詩人」という普遍的な存在である。谷川という個別の肉体をもちながら、その内部で「普遍」になる。

 あ、こんなことは、書いてもつまらないね。
 あ、いや、正直に書こう。きのうの「日記」を書いたとき、いま書いたようなことを書こうと考えていた。そして実際に書いたのだけれど、書きながら私は実はほかのことが気になっていた。もっと違うことを書きたい、と詩を引用した瞬間に思ったのだ。
 以下は、その、急に思い立ったことがら。
 (私はいつでも結論も、論理の組み立て?も考えずに、ただ書きはじめる。だから、この詩はおもしろいと思って書きはじめながら、最終的にとてもつまらないと書いたり、逆に否定するつもりで書きはじめて、そうではなくとんでもない傑作なのだと気づき、そう書くこともある。そういうときも、私は書き直しはしない。ただ、書きすすめるだけである。)

*

 この詩でおもしろいのは、「なる」ということばの、そういう面倒くさい(?)働きよりも、実は、最初の3行かもしれない。
 いや、そこにも「なる」がほんとうは書かれている。どこにも書かれないないが「なる」がある。

みちばたにぼくはしゃがんでいる
ひとりでしゃがんでいる
しゃがんでいるだけ

 「ぼく」の様子がただ書かれているだけ--というのは、表面的にはそうである。でも、その表面的なことがらを超えて、私は「誤読」する。ここに、谷川の「肉体」を見てしまう。「たんぽぽ」になり「ちょうちょ」になり、そして「ぼく」にもどり「にんげん」になった「孤独」よりも、もっと生々しい「肉体」、むきだしの「肉体」を感じてしまう。

みちばたにぼくはしゃがんでいる

 こう書き出したとき、谷川はまだ何を書いていいかわからないでいる。(こういう「断定」を「誤読」というのだが、こうやって「誤読」するのが、私の趣味である。癖である。)何を書いていいかわからないから、1行目をくりかえす。言いなおす。「ひとりでしゃがんでいる」。それでも、谷川はまだ「ぼく」になれない。まだまだ大人の谷川、詩人ではなく、詩を書きはじめたばかりの谷川である。そして、もう一度「しゃがんでいるだけ」と書いてみる。
 ことばをくりかえす。そうすると、そのことばが「肉体」を整える。「肉体」が少しずつ、「しゃがんでいる」こどもにもどっていく。そして、「肉体」がこどもにもどってしまうと、そこからことばが動きはじめる。

ぼくはなにもしていない

 これは「しゃがんでいる」を「内側」からみつめたことばである。「外側」から見れば「なにもしていない」わけではない。なにもしていない、ということは、まあ、ありえない。外側から見れば「しゃがんでいる」。「肉体」の形をそういうふうに描写できる。
 けれど、なにもしていない。
 これは、「こころ」「きもち」が何もしていないということだ。

 この、「肉体」から「こころ」「きもち」への切り替え、そのために、まず谷川は「肉体」そのものを「しゃがませる」。ことばが「肉体」に働きかけ、「肉体」がことばを完全に反芻し終えたとき、その「肉体」が自分自身のことばを語りはじめる。
 そういう変化を引き起こすための、最初の3行。
 それは、2連目に取り込んでしまって、次のように書きはじめてもよかったはずである。

みちばたにしゃがんで、ぼくはなにもしていない
めはじべたをみているけど
みみはかぜをきいているけど

 1行目は少し長くなるけれど、そう書いても詩全体の「意味」はかわらない。「意味」はかわらないけれど、谷川はそんなふうには書かない。長い1行目、ことばがなんとなく未整理でうるさいのは、私がかってに書き換えたからで、谷川自身がかきなおせばもっと自然な行になるだろうけれど、たとえそうであっても、谷川はそんなふうには書かない。いや、書けない。
 詩は「意味」ではないからだ。「意味」を書くものではないから、きょうの日記の前半で、私が書いたような「なる」だの「ある」だのは、まあ、どうでもいいことなのだ。

 谷川は、どうなふうにして「こども」の「ぼく」になったか。
 想像力を働かせて、記憶をたどって……ということはできるが、私は、ことばをくりかえすことでと言いたい。
 何が書けるかわからない。何が書きたいか、わからない。
 そういうとき、谷川は、まず書けることばを書き出す。そして、それを繰り返し、自分の「肉体」になじませる。ことばが「肉体」に形をあたえる。「肉体」がしゃがんで、それをことばが「しゃがんでいる」と描写するのではない。「しゃがんでいる」ということばがまず最初にあり、それを「肉体」が描写するのである。
 谷川のことばは、いつでも、そういう運動の形をとる。
 何かがあり、それをことばが描写するのではない。何かがあって、それをことばが描写しているように見えても、実は、ことばが書かれ、それを実際のものごとが描写するのである。
 名作「父の死」でも同じだ。父・谷川徹三が死ぬ。そして葬儀がある。そういう一連の現実をことばで描写しているのではない。逆なのだ。ことばが書かれ、それを現実が描写しているのだ。--これは、そんなことはありえない、と反論がありそうだけれど、実際に、そうなのだ。ことばが書かれ、それにあわせて現実が整えられていくのだ。そういう逆転したことが文学と生活のなかでは起きる。
 大江健三郎の私小説でも同じである。大江の生活があり、それをことばが描写しているだけではない。ことばが書かれることで、生活が整えられていく。整理しなおされ、生活が美しく動きはじめる。
 「父の死」のそれぞれの1行は、現実をもとにして出発しているけれど、いったん出発してしまうと、ことばが現実に働きかけ、現実を整え、美しく動かしはじめる。

 「しゃがむ」の書き出しは、そういう谷川とことば、現実のあり方を映し出している。谷川は「ぼく」という少年を描写しているのではない。谷川の少年を描写することばは谷川の「肉体」に働きかけ、谷川を「少年」に整え(?)、そこから少年の現実を動かしはじめる。常にことばが現実を美しく動かしていく。
 この運動のなかにある、書かれていない「なる」こそ、谷川の詩のいのちかもしれない。



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谷川 俊太郎
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