ヨシフ・ブロツキイ、たなかあきみつ訳「満潮」(「ロシア文化通信 群 GUN」34、2009年07月31日発行)
冬になると冬の詩を読みたくなる。厳しい冬をことばはどんなふうに追うことができるか。そして追い越すことができるか。
ヨシフ・ブロツキイ、たなかあきみつ訳「満潮」のⅠの部分。
何が、「厳しさ」を印象づけるのだろう。私は、2度出てくる「面」という文字に北の、冬の「厳しさ」が凝縮されているように感じた。「鏡面」「だんな面」。それは同じ読み方ではないし、意味するところも違うのだけれど、そうか、「北」の印象は「面」なのか、と思った。この「面」は「立体」に対しての「面」である。「立体」にも「面」はあるが、「鏡面」「おやじ面」は「立体」ではない。
いや、「鏡面」はその底に「水」を持っているから「立体」の一部である、「おやじ面」は「頭」に、そして「体」につながっているから「立体」の一部である--という反論かあるかもしれない。が、問題は、そこなのだ。「鏡面」には「水」がある、「おやじ面」には「頭」がある。けれども、それは「水」に、あるいは「頭」に触れることを拒絶した「面」である。「面」の力で、人間が(鳥が)、「面の背後の立体」に触れること、その内部へ入っていって一体になることを拒絶する。ロープのような線ではなく、広がりとして拒絶する。「線」としての拒絶なら、「線」をまたぐ、あるいはくぐることができる。けれど「面」はまたぐこともくぐることもできない。そういう絶望的な拒絶--そういう印象が、「北」の人間に対する姿勢だ。
そういう意識が反映されているかどうか、よくわからない。たぶん「深読み」のしすぎ、「誤読」なのだろうけれど、「面」の印象は他のことばのなかにも隠れている。たとえば「黒雲のぼろぼろの帳」の「帳」に。あるいは、「水平線」の「コート」の比喩に。「面」で何かが押し寄せてくる。「面」で行く手をさえぎられる。
「面」で、たとえば「布」でやさしく包む、ということもできるかもしれない。けれども、「北」では「面」では不十分である。「立体」、「布」ではなく、たとえば「布」と「布」のあいだに「綿」や「羽」などをいれて、それを「立体」にしないことには、何ものをも包めない。守れない。
「面」こそが「包む」のに、そのとき「面」は「面」ではない--という矛盾。「面」が「立体」になったときのみ、「面」のつつむということが有効になる--「面」がいったん否定されて、別なものになることで「面」として機能する。この何かしら、奇妙な
ことがら。そういうものが、どこかにある。論理的に(?)説明しようとすると、とても面倒なことがらが、世界には存在する。「北」の厳しい「冬」にもそういうものが存在する。
厳しさに向き合い、生き抜くためには「正気」ではだめ。「狂気」が必要なのだ。「狂気」のような、何か逸脱していく力がないと、厳しい「拒絶」しか存在しない「北」の「冬」は生き抜けない。「狂気」のなかにある、熱、それしか人間には頼るものがない。
そう思って読むと、最後の1行は、まさに狂気、そして狂気の熱気だ。
この熱さが、北の厳寒と拮抗して、さらに状況は厳しくなる。
冬になると冬の詩を読みたくなる。厳しい冬をことばはどんなふうに追うことができるか。そして追い越すことができるか。
ヨシフ・ブロツキイ、たなかあきみつ訳「満潮」のⅠの部分。
世界の北部でわたしは隠れ家を探した、
風の部分で探した、そこでは鳥たちが岩場から飛びすさり、
魚たちに映りこみ、舞いおりてはついばむ
きいきい叫びつつさざ波の鏡面を。
たとえ錠がかかろうと、ここでは正気づくべきではない。
家の中はがらんとして、しかも舞台には営倉がある。
朝から窓には黒雲のぼろぼろ帳が垂れこめている。
土地はわずか、ましてやひとけはない。
この緯度帯にあっては水はだんな面。だれひとり
指を空間に突きたてないだろう、《出て行け!》とわめくために。
水平線はおのれをコートのように裏返しにする、
砕けやすい波のたすけを得て。
そしておのれの脱いだズボンとは区別できない、
吊りさがるジャケットとは--すなわちぎりぎりの感懐とは区別ができない
あるいはあかりは暗くなる--おまえはそれらのフックに触れる、
さっと手をひっこめて《復活せり!》と宣うために。
何が、「厳しさ」を印象づけるのだろう。私は、2度出てくる「面」という文字に北の、冬の「厳しさ」が凝縮されているように感じた。「鏡面」「だんな面」。それは同じ読み方ではないし、意味するところも違うのだけれど、そうか、「北」の印象は「面」なのか、と思った。この「面」は「立体」に対しての「面」である。「立体」にも「面」はあるが、「鏡面」「おやじ面」は「立体」ではない。
いや、「鏡面」はその底に「水」を持っているから「立体」の一部である、「おやじ面」は「頭」に、そして「体」につながっているから「立体」の一部である--という反論かあるかもしれない。が、問題は、そこなのだ。「鏡面」には「水」がある、「おやじ面」には「頭」がある。けれども、それは「水」に、あるいは「頭」に触れることを拒絶した「面」である。「面」の力で、人間が(鳥が)、「面の背後の立体」に触れること、その内部へ入っていって一体になることを拒絶する。ロープのような線ではなく、広がりとして拒絶する。「線」としての拒絶なら、「線」をまたぐ、あるいはくぐることができる。けれど「面」はまたぐこともくぐることもできない。そういう絶望的な拒絶--そういう印象が、「北」の人間に対する姿勢だ。
そういう意識が反映されているかどうか、よくわからない。たぶん「深読み」のしすぎ、「誤読」なのだろうけれど、「面」の印象は他のことばのなかにも隠れている。たとえば「黒雲のぼろぼろの帳」の「帳」に。あるいは、「水平線」の「コート」の比喩に。「面」で何かが押し寄せてくる。「面」で行く手をさえぎられる。
「面」で、たとえば「布」でやさしく包む、ということもできるかもしれない。けれども、「北」では「面」では不十分である。「立体」、「布」ではなく、たとえば「布」と「布」のあいだに「綿」や「羽」などをいれて、それを「立体」にしないことには、何ものをも包めない。守れない。
「面」こそが「包む」のに、そのとき「面」は「面」ではない--という矛盾。「面」が「立体」になったときのみ、「面」のつつむということが有効になる--「面」がいったん否定されて、別なものになることで「面」として機能する。この何かしら、奇妙な
ことがら。そういうものが、どこかにある。論理的に(?)説明しようとすると、とても面倒なことがらが、世界には存在する。「北」の厳しい「冬」にもそういうものが存在する。
たとえ錠がかかろうと、ここでは正気づくべきではない。
厳しさに向き合い、生き抜くためには「正気」ではだめ。「狂気」が必要なのだ。「狂気」のような、何か逸脱していく力がないと、厳しい「拒絶」しか存在しない「北」の「冬」は生き抜けない。「狂気」のなかにある、熱、それしか人間には頼るものがない。
そう思って読むと、最後の1行は、まさに狂気、そして狂気の熱気だ。
《復活せり!》と宣う
この熱さが、北の厳寒と拮抗して、さらに状況は厳しくなる。
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