谷川俊太郎「トロムソコラージュ」(「現代詩手帖」2009年12月号)
谷川俊太郎「トロムソコラージュ」(初出『トロムソコラージュ』2009年05月)もまた「注解」と関係づけて読むことができる。--と、書いてしまうと、これもまた論理の暴走、はなはだしい「誤読」になってしまうのだが、「誤読」であることを承知の上で、やっぱり私は関係づけて読みたいのだ。
「注解」が成り立つためには「テキスト」が先行する必要がある。そして「注解」にはふたつの方法がある。
ひとつは「テキスト」のことばだけ頼りに、「テキスト」自身を語らせること。「テキスト」のあることばが別のことばとどういう関係にあるかを浮かび上がらせることで「テキスト」の構造を明らかにし、その内部へはいっていくことを容易にするという方法。
もうひとつは、「テキスト」以外のことばをつかって、「テキスト」を外部からみつめなおすこと。「テキスト」を「外部」の力で解放し、その構造を解明すること。
前者の場合でも、実は、そこには「テキスト」以外のことばがはいってくる。Aという文章とBという文章には、なになにという関係がある、その関係からこういうことがいえる--と分析する場合、そこには「テキスト」以外の「なになにという関係がある」などの「注解する者」のことばが含まれる。
そういう意味では「注解」は「テキスト」以外のことばを含まないことには成り立たないと言い換えることかできる。そして、そのことから「拡大解釈」して(論理を暴走させて)、「テキスト」に対して「テキスト」以外のことばをぶつけることは「注解する」という行為であると定義しなおすことができる。
この4行が「正確」に語っているように、この谷川の詩は「ノルウェーのトロムソ」で「コラージュ」として書かれたものである。トロムソに行って、そこで谷川はトロムソにないことばをぶつけている。
きのう読んだ國米隆弘は日本語に対してギリシャ語(かなあ?)をぶつけた。谷川はトロムソに対して、谷川自身の「日本語」をぶつけていることになる。
これはまあ、しかし、なかなかむずかしい。
書き出しにもどる。
トロムソは谷川の「注解」をすなおに受け入れてくれない。トロムソの風景は谷川のの日本語ときちんと重なってくれない。つまり、うまく描写できない。描写をつづけると、それがどんな風景なのかわからなくなる。「風景」と「日本語」が齟齬をきたしてしまう。「太陽」からはじまる行が特徴的だ。
太陽はどんな状態にある? 特定できる? できない。こういうことを指して私は、「風景」と「日本語」が齟齬をきたす、というのだけれど。
ほんとうにトロムソを「注解」する、つまり、トロムソのことをだれかにわかるように説明するというのなら、こういう日本語では困る。「注解」になっていない。説明になっていない。わからなくさせているだけである。
しかし、これは谷川のことばのつかい方が間違っている--ということではないのだ。トロムソに来て、谷川の日本語は孤立している。風景とさえ一体になることができない。風景が日本語を拒んでいるのだ。「水たまり」「路地」などは「日本語」にきちんと対応しているのかもしれない。けれど、そこには日本の「水たまり」「路地」とは違うものがある。何か、ずれ、がある。そのずれが重なり、拡大して、「太陽」の描写になってしまう。
谷川の日本語は「正確」である。なにひとつ間違えていない。だからこそ、その日本語がトロムソの風景とは合致できず、奇妙なものになる。日本語が「正確」でなければ、たぶん、もっと簡単に「太陽」を描写することができる。日本人が読めば、その「太陽」がどういう状態にあるか、はっきりわかるように(誤解のないように)描写できる。いいかえると、「流通する」形、通俗的なことばとして描写することができる。多くの旅行案内かなにかのように。けれども自分自身に対して「正確」な「日本語」を求めている谷川は、そういう「流通言語」を書くことができない。
自分の知らないもの、トロムソに対して「日本語」をぶつけるということは、とてもむずかしいことなのだ。どんなことばがトロムソときちんと向き合えるか、谷川は手さぐりをしているのである。
そして、ここから、詩がはじまる。
わからないもの、はじめて見るもの(触れるもの)に対して、自分自身のことばをぶつけていく。そこにあるものが自分のどのことばときちんと対応しているのか、ひとつひとつ点検する。自分自身のことばを解体して、まだどんな関係も持っていない状態にして、それが状況と合致して動くかどうか確かめてみる。
「注解する」とは、実は、そこにあるもの(テキスト)を「解体する」のではなく、自分自身のことばを「解体する」ことなのだ。「テキスト」が解体されるのではなく、自分自身が解体される--それが「注解」のほんとうの姿なのだ。
岡井隆の「注解」にはしばしば岡井の日常(日常と思われるもの)が噴出してきたが、それは岡井が「解体」されて、「文学」以外の土台があらわになるということでもある。「テキスト」は解体されずに、岡井自身が解体されるのだ。「日常」だけではない。岡井がたとえば誰それの「注解」を引用する。そのとき、岡井は、そういう文献を読んでいる人間であると「解体」される。そういう「知識」をもっている人間として見えてくる。どんなときでも「注解」で明らかになるのは、「テキスト」ではなく、「注解する者」の全体である。
谷川も次々に「解体」しはじめる。トロムソがどんな場所なのか、そこに何があるのかさっぱりわからないまま、谷川が「ばらばら」に右往左往する。
谷川がトロムソで「戦車」を見たかどうかも、わからない。戦車ではなく「小鳥」を見かけ、そこから時間をさかのぼって(?)戦車が登場したのかもしれない。小鳥を描写するために戦車は谷川の日本語のなかから呼び出されたのかもしれない。
ここでもトロムソは描写されない。ただ谷川の日本語が「解体」される。それは谷川自身が解体されることである。谷川の「哲学」が解体されることである。「一」に対してどんな考えを持っているか。「宇宙」に対してどんな考えを持っているか。そういうことが明らかになるけれど、トロムソは明らかにならない。
「宇宙」や「死者」に対する「哲学」が「解体」され、わかりやすい形になるというだけではなく、「哲学」とは関係ないようなものまで「解体」される。「なんだ 神田 パンダが 咬んだ」という1行がもっている音楽。音楽に対する感性のようなもの、音に対する「好み」のようなものも「解体」されてくる。見えてくる。
そして、そういう「好み」が見えてくるとき、それは「好み」ではなく、それもまた「哲学」であるということがわかってくる。
「肉体」にしっかりしみついていて、そのままでは見えないものが、トロムソという「他者」に出会って、自己解体しはじめる。「他者」を理解しようとして、「他者」を「注解」しようとして、自己解体をはじめる。
詩とは、自己解体してしまったことばが、自己から「自由」になって、どこまでもどこまでも暴走していくとき輝くのだ。
自己解体して、さらに自己解体して、もう一度自己解体して、ふと、何も解体するものがなくなったかなあというような、「空白」に「流通言語」が入り込んでくる。最初に引用した行のことである。
あ、そうなんだ。詩人が「流通言語」を手にいれ、何かを読者にわかるように書くまでには「時間」がかかる。「解体」には時間がかかるのだ。
でも、こういう「流通言語」は、谷川にあっては、一瞬のこと。さらに「自己解体」をつきすすめるための、ほんの小さな「土台」。作品は、このあと、どんどん突き進んでゆく。
おかしいえね。おもしろいねえ。
谷川がせっかく「一」ということばをつかってくれているので、以前書いたことを、ここで繰り返しておこう。きょう書いていることがらを別の言い方で書き直してみよう。
「注解する」。そのとき谷川という「一」は「解体」して「多」になる。谷川のなかから小鳥の名前を覚えたくないという谷川があらわれる。宇宙は一であると考える谷川があらわれる。「なんだ 神田 パンダが 咬んだ」ということば遊びをする谷川があらわれる。谷川は、いくつもの谷川になってゆく。「一」から「多」になる。その運動は延々とつづく。そして、そのことばの運動を最後まで追いかけると「多」であるはずの谷川が「一」として見えてくる。「多」になればなるほど、谷川は「一」に近づく。
ほら、岡井の「一」と「多」の矛盾と同じことが、谷川にも起きていることがわかる。ね。岡井の『注解する者』のなかに展開されている「哲学」は誰にでもあてはめることができる「万能哲学」(?)でしょ?
きょうこそは岡井の『注解する者』とは無関係なことを書こうと思いながら、なぜか、岡井の作品について触れてしまう。書かずにはいられなくなる。10年間は岡井の作品に触れながら書きつづけてしまうだろうなあ、というような気持ちになる。
谷川俊太郎「トロムソコラージュ」(初出『トロムソコラージュ』2009年05月)もまた「注解」と関係づけて読むことができる。--と、書いてしまうと、これもまた論理の暴走、はなはだしい「誤読」になってしまうのだが、「誤読」であることを承知の上で、やっぱり私は関係づけて読みたいのだ。
「注解」が成り立つためには「テキスト」が先行する必要がある。そして「注解」にはふたつの方法がある。
ひとつは「テキスト」のことばだけ頼りに、「テキスト」自身を語らせること。「テキスト」のあることばが別のことばとどういう関係にあるかを浮かび上がらせることで「テキスト」の構造を明らかにし、その内部へはいっていくことを容易にするという方法。
もうひとつは、「テキスト」以外のことばをつかって、「テキスト」を外部からみつめなおすこと。「テキスト」を「外部」の力で解放し、その構造を解明すること。
前者の場合でも、実は、そこには「テキスト」以外のことばがはいってくる。Aという文章とBという文章には、なになにという関係がある、その関係からこういうことがいえる--と分析する場合、そこには「テキスト」以外の「なになにという関係がある」などの「注解する者」のことばが含まれる。
そういう意味では「注解」は「テキスト」以外のことばを含まないことには成り立たないと言い換えることかできる。そして、そのことから「拡大解釈」して(論理を暴走させて)、「テキスト」に対して「テキスト」以外のことばをぶつけることは「注解する」という行為であると定義しなおすことができる。
今は二〇〇六年十月のいつか
ここはノルウェーのトロムソ
今ここをこんなふうに決めるまでに
どれだけの時間がかかったことか
この4行が「正確」に語っているように、この谷川の詩は「ノルウェーのトロムソ」で「コラージュ」として書かれたものである。トロムソに行って、そこで谷川はトロムソにないことばをぶつけている。
きのう読んだ國米隆弘は日本語に対してギリシャ語(かなあ?)をぶつけた。谷川はトロムソに対して、谷川自身の「日本語」をぶつけていることになる。
これはまあ、しかし、なかなかむずかしい。
書き出しにもどる。
私は立ち止まらないよ
私は水たまりの絶えない路地を歩いていく
五百年前に造られた長い回廊を
読んでいる本のページの上を
居眠りしている自分自身を歩いていくよ
太陽は陽気に照っている
または鉛色の雲の向こうに隠れている
または夕焼けに自己満足している
そして星は昼も夜も彼方にびっしりだ
私は立ち止まらないよ
トロムソは谷川の「注解」をすなおに受け入れてくれない。トロムソの風景は谷川のの日本語ときちんと重なってくれない。つまり、うまく描写できない。描写をつづけると、それがどんな風景なのかわからなくなる。「風景」と「日本語」が齟齬をきたしてしまう。「太陽」からはじまる行が特徴的だ。
太陽は陽気に照っている
または鉛色の雲の向こうに隠れている
または夕焼けに自己満足している
太陽はどんな状態にある? 特定できる? できない。こういうことを指して私は、「風景」と「日本語」が齟齬をきたす、というのだけれど。
ほんとうにトロムソを「注解」する、つまり、トロムソのことをだれかにわかるように説明するというのなら、こういう日本語では困る。「注解」になっていない。説明になっていない。わからなくさせているだけである。
しかし、これは谷川のことばのつかい方が間違っている--ということではないのだ。トロムソに来て、谷川の日本語は孤立している。風景とさえ一体になることができない。風景が日本語を拒んでいるのだ。「水たまり」「路地」などは「日本語」にきちんと対応しているのかもしれない。けれど、そこには日本の「水たまり」「路地」とは違うものがある。何か、ずれ、がある。そのずれが重なり、拡大して、「太陽」の描写になってしまう。
谷川の日本語は「正確」である。なにひとつ間違えていない。だからこそ、その日本語がトロムソの風景とは合致できず、奇妙なものになる。日本語が「正確」でなければ、たぶん、もっと簡単に「太陽」を描写することができる。日本人が読めば、その「太陽」がどういう状態にあるか、はっきりわかるように(誤解のないように)描写できる。いいかえると、「流通する」形、通俗的なことばとして描写することができる。多くの旅行案内かなにかのように。けれども自分自身に対して「正確」な「日本語」を求めている谷川は、そういう「流通言語」を書くことができない。
自分の知らないもの、トロムソに対して「日本語」をぶつけるということは、とてもむずかしいことなのだ。どんなことばがトロムソときちんと向き合えるか、谷川は手さぐりをしているのである。
そして、ここから、詩がはじまる。
わからないもの、はじめて見るもの(触れるもの)に対して、自分自身のことばをぶつけていく。そこにあるものが自分のどのことばときちんと対応しているのか、ひとつひとつ点検する。自分自身のことばを解体して、まだどんな関係も持っていない状態にして、それが状況と合致して動くかどうか確かめてみる。
「注解する」とは、実は、そこにあるもの(テキスト)を「解体する」のではなく、自分自身のことばを「解体する」ことなのだ。「テキスト」が解体されるのではなく、自分自身が解体される--それが「注解」のほんとうの姿なのだ。
岡井隆の「注解」にはしばしば岡井の日常(日常と思われるもの)が噴出してきたが、それは岡井が「解体」されて、「文学」以外の土台があらわになるということでもある。「テキスト」は解体されずに、岡井自身が解体されるのだ。「日常」だけではない。岡井がたとえば誰それの「注解」を引用する。そのとき、岡井は、そういう文献を読んでいる人間であると「解体」される。そういう「知識」をもっている人間として見えてくる。どんなときでも「注解」で明らかになるのは、「テキスト」ではなく、「注解する者」の全体である。
谷川も次々に「解体」しはじめる。トロムソがどんな場所なのか、そこに何があるのかさっぱりわからないまま、谷川が「ばらばら」に右往左往する。
私は立ち止まらないよ
でも戦車はね ひっそり佇んでいるのがいい
木陰でね 少し錆びて
小鳥たちが止まりにくるよ
小鳥たちは色んな名前をもっているけど
私は覚えないよ 覚えたくないよ
だって小鳥は名前じゃないから
谷川がトロムソで「戦車」を見たかどうかも、わからない。戦車ではなく「小鳥」を見かけ、そこから時間をさかのぼって(?)戦車が登場したのかもしれない。小鳥を描写するために戦車は谷川の日本語のなかから呼び出されたのかもしれない。
小鳥は一羽一羽がいのちなんだから
一は始まりの数だというけれど
終わりの数でもあるんだよ
私は一なんだ
誰かは知らないあなたも一だよ
だって宇宙そのものが一なんだから
球場に集まる何万人もほんとは一と数えていいのだ
だがね もしそこで誰かが自爆したら
死傷者をまとめて一とは数えられないね
名前が血を流すとき一は統計に呑みこまれる
ここでもトロムソは描写されない。ただ谷川の日本語が「解体」される。それは谷川自身が解体されることである。谷川の「哲学」が解体されることである。「一」に対してどんな考えを持っているか。「宇宙」に対してどんな考えを持っているか。そういうことが明らかになるけれど、トロムソは明らかにならない。
一の私らをバラバラにするのはなんだ
なんだ 神田 パンダが 咬んだ
私は暇だ ダダ ダダ 大好き
「宇宙」や「死者」に対する「哲学」が「解体」され、わかりやすい形になるというだけではなく、「哲学」とは関係ないようなものまで「解体」される。「なんだ 神田 パンダが 咬んだ」という1行がもっている音楽。音楽に対する感性のようなもの、音に対する「好み」のようなものも「解体」されてくる。見えてくる。
そして、そういう「好み」が見えてくるとき、それは「好み」ではなく、それもまた「哲学」であるということがわかってくる。
「肉体」にしっかりしみついていて、そのままでは見えないものが、トロムソという「他者」に出会って、自己解体しはじめる。「他者」を理解しようとして、「他者」を「注解」しようとして、自己解体をはじめる。
詩とは、自己解体してしまったことばが、自己から「自由」になって、どこまでもどこまでも暴走していくとき輝くのだ。
自己解体して、さらに自己解体して、もう一度自己解体して、ふと、何も解体するものがなくなったかなあというような、「空白」に「流通言語」が入り込んでくる。最初に引用した行のことである。
今は二〇〇六年十月のいつか
ここはノルウェーのトロムソ
今ここをこんなふうに決めるまでに
どれだけの時間がかかったことか
あ、そうなんだ。詩人が「流通言語」を手にいれ、何かを読者にわかるように書くまでには「時間」がかかる。「解体」には時間がかかるのだ。
でも、こういう「流通言語」は、谷川にあっては、一瞬のこと。さらに「自己解体」をつきすすめるための、ほんの小さな「土台」。作品は、このあと、どんどん突き進んでゆく。
おかしいえね。おもしろいねえ。
谷川がせっかく「一」ということばをつかってくれているので、以前書いたことを、ここで繰り返しておこう。きょう書いていることがらを別の言い方で書き直してみよう。
「注解する」。そのとき谷川という「一」は「解体」して「多」になる。谷川のなかから小鳥の名前を覚えたくないという谷川があらわれる。宇宙は一であると考える谷川があらわれる。「なんだ 神田 パンダが 咬んだ」ということば遊びをする谷川があらわれる。谷川は、いくつもの谷川になってゆく。「一」から「多」になる。その運動は延々とつづく。そして、そのことばの運動を最後まで追いかけると「多」であるはずの谷川が「一」として見えてくる。「多」になればなるほど、谷川は「一」に近づく。
ほら、岡井の「一」と「多」の矛盾と同じことが、谷川にも起きていることがわかる。ね。岡井の『注解する者』のなかに展開されている「哲学」は誰にでもあてはめることができる「万能哲学」(?)でしょ?
きょうこそは岡井の『注解する者』とは無関係なことを書こうと思いながら、なぜか、岡井の作品について触れてしまう。書かずにはいられなくなる。10年間は岡井の作品に触れながら書きつづけてしまうだろうなあ、というような気持ちになる。
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