チャーリー・カウフマン監督「脳内ニューヨーク」(★★★★★)
監督・脚本 チャーリー・カウフマン
出演 フィリップ・シーモア・ホフマン、ミシェル・ウィリアムズ、サマンサ・モートン、キャスリーン・キーナー、エミリー・ワトソン、ダイアン・ウィースト
おもしろいシーンがいろいろある。
エミリー・ワトソンがサマンサ・モートンの「役」を演じながら、「三角関係になり、サマンサ・モートンが泣く」という「ストーリー」を考え出し、それに対してサマンサ・モートンが「私は泣かないわ」と抗議する。けれどもフリップ・シーモア・ホフマンは、サマンサ・モートンが泣くというストーリー展開を採用してしまう。
このシーンが、この映画をいちばん象徴している。
芝居の演出家であるフリップ・シーモア・ホフマンは、突然舞い込んできた大金でオリジナルの芝居を考える。舞台はニューヨーク。実物大のニューヨーク。そして登場人物も現実そのまま。自分の現実をそのまま「舞台」にしてしまう。
ストーリーは収拾がつかない。いつまでいっても終わらない。現実の状況が次々にかわっていくので、それにあわせ芝居もかわっていくからである。
ここまでなら、それは単なるドタバタ喜劇。
しかし、チャーリー・カウフマンはこれをどたばた喜劇にせずに、一種変わった「哲学」というか、「文学」に変えてしまう。現実と芸術(虚構)の関係を考える「哲学」にしてしまう。
その象徴的なシーンが最初に指摘したエミリー・ワトソンのシーンである。現実の世界では、フリップ・シーモア・ホフマンとサマンサ・モートンが愛し合っている。芝居のなかでは老人(?)がホフマンを演じ、エミリー・ワトソンがサマンサ・モートンを演じている。その現実と虚構の関係が崩れ、サマンサ・モートンは老人と親しくなるし、フリップ・シーモア・ホフマンはエミリー・ワトソンとセックスをしてしまう。芝居が現実に越境してきて、現実を変えてしまうのである。サマンサ・モートンは、越境してきた虚構(エミリー・ワトソン)に、自分自身の現実を破壊されてしまう。サマンサ・モートンが虚構になり、エミリー・ワトソンが現実になってしまう。
これが非常に、非常に、非常におもしろいのだ。
ふつう、現実を整理し、きちんとした「ストーリー」にしたものが「芸術」である。「私小説」を考えるといい。「私小説」のなかに書かれているのは作家の現実の一部。その一部がある感動を引き起こすようにして整えられている。虚構のことばを、現実が鍛え、整える。そういう関係で私小説は成り立っている。
はずである。
はずである、と書くのは、実はそれだけではないからだ。
大江健三郎の『新しい人よ目覚めよ』について以前書いたとき指摘したことだが、現実が「私小説」に反映するだけではなく、書かれた「文学」が実際の生活に反映し、現実を整える、美しい形にするということが起きるのだ。現実があって、それが「私小説」として書かれるだけではなく、そこに書かれてしまった「にんげん」が現実の人間にはねかえってきて、現実の人間の「思想」を鍛えるということがあるのだ。現実の人間の「感情」を育てるということがあるのだ。
実際にサマンサ・モートンは泣かなかったかもしれない。けれどエミリー・ワトソンに、サマンサ・モートンは泣く、と指摘されて、そのことばによって、サマンサ・モートンは自分自身の「こころ」を発見する。自分のこころなのに、それをエミリー・ワトソンに発見してもらって、あ、自分は泣きたかったんだとわかる。
この映画のなかで起きていることはすべてそれである。
この映画の最後の方で、ホフマン役の老人が死んでしまう。代役はどうするか。そのとき、ダイアン・ウィーストが女性であるにもかかわらず、ホフマンの役を買って出る。そんなの、むりじゃない? 特に、この芝居のように、「そっくりさん」が現実を芝居にするという劇ではむりじゃない? サマンサ・モートンとエミリー・ワトソンを見比べるといいのだが、メイキャップを度外視してもふたりは「そっくり」である。非常に似ている。フィリップ・シーモア・ホフマンとダイアン・ウィーストは、まず「性(男か女か)」が違う。「そっくりさん」は演じられない。
ところが。
それをダイアン・ウィーストはやってのける。どうやってかというと、フリップ・シーモア・ホフマンのやりたいこと、芝居の「理念」をきちんと言語化し、芝居の方向性を決定する。「演出」をのっとるのである。
フリップ・シーモア・ホフマンは自分が何をほんとうにやりたかったのかわからないまま、芝居をつくりはじめてしまっていた。その「わからないもの」を役中のダイアン・ウィーストがきちんと「先取り」して形にする。それを聞いて、フリップ・シーモア・ホフマンは自分がやりたかったことをはっきり理解する。サマンサ・モートンがエミリー・ワトソンに「泣く」と指摘されて自分の感情を発見したように、フリップ・シーモア・ホフマンはダイアン・ウィーストに指摘されて彼の「芝居哲学」を発見するのである。
すべての「真理」(サマンサ・モートンにとっての「泣く」という感情、フリップ・シーモア・ホフマンにとっての芝居哲学)は、外部からやってくる。彼ら自身の内部から自発的に発生するのではない。これは、芝居を演じている役者たちも同じである。彼らは自分の感情・哲学を発見して演じるのではなく、脚本の中に書かれている自分以外の感情を発見して、それを演じるのである。そして、その「自分以外のもの」を発見するためにこそ、あらゆる「芸術」はある。
小説を読む。そして、そこに書かれている何かを、あ、これは自分がいいたくていえなかったことだと発見することがある。これこそ自分の気持ちだと感じることがある。それは、自分だけでは絶対に発見できない。確認できない。他人に触れること、他人のことばをとおして見つけ出すものなのだ。
この映画は、そういうことを象徴して終わる。
芝居は完成しない。役者たちは次々に死んでゆく。フリップ・シーモーア・ホフマンは、誰かもわからない女性の肩に頭をもたせ掛け「アイ・ラブ・ユー」と言って死ぬ。まったくの他人--その存在が人間を支えている。その誰だかわからない人間、ほんとうの「他者」に「アイ・ラブ・ユー」ということ。このとき「アイ・ラブ・ユー」は日本語では「ありがとう」かもしれない。そうやって、人間は一生を終わるのだ。常に「他人」に、見ず知らずの「他人」が「わたし」を発見させてくれる。そういう「他人」にどれだけ会えるか、一期一会の出会いを生きることができるか。
そんなことを語りかけて終わる。
この映画のテーマは、とても「哲学的」であり「文学的」だ。しかし、そう感じさせないリアルなおもしろさで映画は進む。チャーリー・カウフマンの脚本の力、演出の力がすごい。役者たちの力もすごい。演技派がそろわないと完成しなかった映画である。
監督・脚本 チャーリー・カウフマン
出演 フィリップ・シーモア・ホフマン、ミシェル・ウィリアムズ、サマンサ・モートン、キャスリーン・キーナー、エミリー・ワトソン、ダイアン・ウィースト
おもしろいシーンがいろいろある。
エミリー・ワトソンがサマンサ・モートンの「役」を演じながら、「三角関係になり、サマンサ・モートンが泣く」という「ストーリー」を考え出し、それに対してサマンサ・モートンが「私は泣かないわ」と抗議する。けれどもフリップ・シーモア・ホフマンは、サマンサ・モートンが泣くというストーリー展開を採用してしまう。
このシーンが、この映画をいちばん象徴している。
芝居の演出家であるフリップ・シーモア・ホフマンは、突然舞い込んできた大金でオリジナルの芝居を考える。舞台はニューヨーク。実物大のニューヨーク。そして登場人物も現実そのまま。自分の現実をそのまま「舞台」にしてしまう。
ストーリーは収拾がつかない。いつまでいっても終わらない。現実の状況が次々にかわっていくので、それにあわせ芝居もかわっていくからである。
ここまでなら、それは単なるドタバタ喜劇。
しかし、チャーリー・カウフマンはこれをどたばた喜劇にせずに、一種変わった「哲学」というか、「文学」に変えてしまう。現実と芸術(虚構)の関係を考える「哲学」にしてしまう。
その象徴的なシーンが最初に指摘したエミリー・ワトソンのシーンである。現実の世界では、フリップ・シーモア・ホフマンとサマンサ・モートンが愛し合っている。芝居のなかでは老人(?)がホフマンを演じ、エミリー・ワトソンがサマンサ・モートンを演じている。その現実と虚構の関係が崩れ、サマンサ・モートンは老人と親しくなるし、フリップ・シーモア・ホフマンはエミリー・ワトソンとセックスをしてしまう。芝居が現実に越境してきて、現実を変えてしまうのである。サマンサ・モートンは、越境してきた虚構(エミリー・ワトソン)に、自分自身の現実を破壊されてしまう。サマンサ・モートンが虚構になり、エミリー・ワトソンが現実になってしまう。
これが非常に、非常に、非常におもしろいのだ。
ふつう、現実を整理し、きちんとした「ストーリー」にしたものが「芸術」である。「私小説」を考えるといい。「私小説」のなかに書かれているのは作家の現実の一部。その一部がある感動を引き起こすようにして整えられている。虚構のことばを、現実が鍛え、整える。そういう関係で私小説は成り立っている。
はずである。
はずである、と書くのは、実はそれだけではないからだ。
大江健三郎の『新しい人よ目覚めよ』について以前書いたとき指摘したことだが、現実が「私小説」に反映するだけではなく、書かれた「文学」が実際の生活に反映し、現実を整える、美しい形にするということが起きるのだ。現実があって、それが「私小説」として書かれるだけではなく、そこに書かれてしまった「にんげん」が現実の人間にはねかえってきて、現実の人間の「思想」を鍛えるということがあるのだ。現実の人間の「感情」を育てるということがあるのだ。
実際にサマンサ・モートンは泣かなかったかもしれない。けれどエミリー・ワトソンに、サマンサ・モートンは泣く、と指摘されて、そのことばによって、サマンサ・モートンは自分自身の「こころ」を発見する。自分のこころなのに、それをエミリー・ワトソンに発見してもらって、あ、自分は泣きたかったんだとわかる。
この映画のなかで起きていることはすべてそれである。
この映画の最後の方で、ホフマン役の老人が死んでしまう。代役はどうするか。そのとき、ダイアン・ウィーストが女性であるにもかかわらず、ホフマンの役を買って出る。そんなの、むりじゃない? 特に、この芝居のように、「そっくりさん」が現実を芝居にするという劇ではむりじゃない? サマンサ・モートンとエミリー・ワトソンを見比べるといいのだが、メイキャップを度外視してもふたりは「そっくり」である。非常に似ている。フィリップ・シーモア・ホフマンとダイアン・ウィーストは、まず「性(男か女か)」が違う。「そっくりさん」は演じられない。
ところが。
それをダイアン・ウィーストはやってのける。どうやってかというと、フリップ・シーモア・ホフマンのやりたいこと、芝居の「理念」をきちんと言語化し、芝居の方向性を決定する。「演出」をのっとるのである。
フリップ・シーモア・ホフマンは自分が何をほんとうにやりたかったのかわからないまま、芝居をつくりはじめてしまっていた。その「わからないもの」を役中のダイアン・ウィーストがきちんと「先取り」して形にする。それを聞いて、フリップ・シーモア・ホフマンは自分がやりたかったことをはっきり理解する。サマンサ・モートンがエミリー・ワトソンに「泣く」と指摘されて自分の感情を発見したように、フリップ・シーモア・ホフマンはダイアン・ウィーストに指摘されて彼の「芝居哲学」を発見するのである。
すべての「真理」(サマンサ・モートンにとっての「泣く」という感情、フリップ・シーモア・ホフマンにとっての芝居哲学)は、外部からやってくる。彼ら自身の内部から自発的に発生するのではない。これは、芝居を演じている役者たちも同じである。彼らは自分の感情・哲学を発見して演じるのではなく、脚本の中に書かれている自分以外の感情を発見して、それを演じるのである。そして、その「自分以外のもの」を発見するためにこそ、あらゆる「芸術」はある。
小説を読む。そして、そこに書かれている何かを、あ、これは自分がいいたくていえなかったことだと発見することがある。これこそ自分の気持ちだと感じることがある。それは、自分だけでは絶対に発見できない。確認できない。他人に触れること、他人のことばをとおして見つけ出すものなのだ。
この映画は、そういうことを象徴して終わる。
芝居は完成しない。役者たちは次々に死んでゆく。フリップ・シーモーア・ホフマンは、誰かもわからない女性の肩に頭をもたせ掛け「アイ・ラブ・ユー」と言って死ぬ。まったくの他人--その存在が人間を支えている。その誰だかわからない人間、ほんとうの「他者」に「アイ・ラブ・ユー」ということ。このとき「アイ・ラブ・ユー」は日本語では「ありがとう」かもしれない。そうやって、人間は一生を終わるのだ。常に「他人」に、見ず知らずの「他人」が「わたし」を発見させてくれる。そういう「他人」にどれだけ会えるか、一期一会の出会いを生きることができるか。
そんなことを語りかけて終わる。
この映画のテーマは、とても「哲学的」であり「文学的」だ。しかし、そう感じさせないリアルなおもしろさで映画は進む。チャーリー・カウフマンの脚本の力、演出の力がすごい。役者たちの力もすごい。演技派がそろわないと完成しなかった映画である。
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