詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

チャーリー・カウフマン監督「脳内ニューヨーク」(★★★★★)

2009-12-15 21:24:22 | 映画
チャーリー・カウフマン監督「脳内ニューヨーク」(★★★★★)

監督・脚本 チャーリー・カウフマン 
出演 フィリップ・シーモア・ホフマン、ミシェル・ウィリアムズ、サマンサ・モートン、キャスリーン・キーナー、エミリー・ワトソン、ダイアン・ウィースト

 おもしろいシーンがいろいろある。
 エミリー・ワトソンがサマンサ・モートンの「役」を演じながら、「三角関係になり、サマンサ・モートンが泣く」という「ストーリー」を考え出し、それに対してサマンサ・モートンが「私は泣かないわ」と抗議する。けれどもフリップ・シーモア・ホフマンは、サマンサ・モートンが泣くというストーリー展開を採用してしまう。
 このシーンが、この映画をいちばん象徴している。
 芝居の演出家であるフリップ・シーモア・ホフマンは、突然舞い込んできた大金でオリジナルの芝居を考える。舞台はニューヨーク。実物大のニューヨーク。そして登場人物も現実そのまま。自分の現実をそのまま「舞台」にしてしまう。
 ストーリーは収拾がつかない。いつまでいっても終わらない。現実の状況が次々にかわっていくので、それにあわせ芝居もかわっていくからである。
 ここまでなら、それは単なるドタバタ喜劇。
 しかし、チャーリー・カウフマンはこれをどたばた喜劇にせずに、一種変わった「哲学」というか、「文学」に変えてしまう。現実と芸術(虚構)の関係を考える「哲学」にしてしまう。
 その象徴的なシーンが最初に指摘したエミリー・ワトソンのシーンである。現実の世界では、フリップ・シーモア・ホフマンとサマンサ・モートンが愛し合っている。芝居のなかでは老人(?)がホフマンを演じ、エミリー・ワトソンがサマンサ・モートンを演じている。その現実と虚構の関係が崩れ、サマンサ・モートンは老人と親しくなるし、フリップ・シーモア・ホフマンはエミリー・ワトソンとセックスをしてしまう。芝居が現実に越境してきて、現実を変えてしまうのである。サマンサ・モートンは、越境してきた虚構(エミリー・ワトソン)に、自分自身の現実を破壊されてしまう。サマンサ・モートンが虚構になり、エミリー・ワトソンが現実になってしまう。
 これが非常に、非常に、非常におもしろいのだ。

 ふつう、現実を整理し、きちんとした「ストーリー」にしたものが「芸術」である。「私小説」を考えるといい。「私小説」のなかに書かれているのは作家の現実の一部。その一部がある感動を引き起こすようにして整えられている。虚構のことばを、現実が鍛え、整える。そういう関係で私小説は成り立っている。
 はずである。
 はずである、と書くのは、実はそれだけではないからだ。
 大江健三郎の『新しい人よ目覚めよ』について以前書いたとき指摘したことだが、現実が「私小説」に反映するだけではなく、書かれた「文学」が実際の生活に反映し、現実を整える、美しい形にするということが起きるのだ。現実があって、それが「私小説」として書かれるだけではなく、そこに書かれてしまった「にんげん」が現実の人間にはねかえってきて、現実の人間の「思想」を鍛えるということがあるのだ。現実の人間の「感情」を育てるということがあるのだ。

 実際にサマンサ・モートンは泣かなかったかもしれない。けれどエミリー・ワトソンに、サマンサ・モートンは泣く、と指摘されて、そのことばによって、サマンサ・モートンは自分自身の「こころ」を発見する。自分のこころなのに、それをエミリー・ワトソンに発見してもらって、あ、自分は泣きたかったんだとわかる。
 この映画のなかで起きていることはすべてそれである。
 この映画の最後の方で、ホフマン役の老人が死んでしまう。代役はどうするか。そのとき、ダイアン・ウィーストが女性であるにもかかわらず、ホフマンの役を買って出る。そんなの、むりじゃない? 特に、この芝居のように、「そっくりさん」が現実を芝居にするという劇ではむりじゃない? サマンサ・モートンとエミリー・ワトソンを見比べるといいのだが、メイキャップを度外視してもふたりは「そっくり」である。非常に似ている。フィリップ・シーモア・ホフマンとダイアン・ウィーストは、まず「性(男か女か)」が違う。「そっくりさん」は演じられない。
 ところが。
 それをダイアン・ウィーストはやってのける。どうやってかというと、フリップ・シーモア・ホフマンのやりたいこと、芝居の「理念」をきちんと言語化し、芝居の方向性を決定する。「演出」をのっとるのである。
 フリップ・シーモア・ホフマンは自分が何をほんとうにやりたかったのかわからないまま、芝居をつくりはじめてしまっていた。その「わからないもの」を役中のダイアン・ウィーストがきちんと「先取り」して形にする。それを聞いて、フリップ・シーモア・ホフマンは自分がやりたかったことをはっきり理解する。サマンサ・モートンがエミリー・ワトソンに「泣く」と指摘されて自分の感情を発見したように、フリップ・シーモア・ホフマンはダイアン・ウィーストに指摘されて彼の「芝居哲学」を発見するのである。

 すべての「真理」(サマンサ・モートンにとっての「泣く」という感情、フリップ・シーモア・ホフマンにとっての芝居哲学)は、外部からやってくる。彼ら自身の内部から自発的に発生するのではない。これは、芝居を演じている役者たちも同じである。彼らは自分の感情・哲学を発見して演じるのではなく、脚本の中に書かれている自分以外の感情を発見して、それを演じるのである。そして、その「自分以外のもの」を発見するためにこそ、あらゆる「芸術」はある。
 小説を読む。そして、そこに書かれている何かを、あ、これは自分がいいたくていえなかったことだと発見することがある。これこそ自分の気持ちだと感じることがある。それは、自分だけでは絶対に発見できない。確認できない。他人に触れること、他人のことばをとおして見つけ出すものなのだ。

 この映画は、そういうことを象徴して終わる。
 芝居は完成しない。役者たちは次々に死んでゆく。フリップ・シーモーア・ホフマンは、誰かもわからない女性の肩に頭をもたせ掛け「アイ・ラブ・ユー」と言って死ぬ。まったくの他人--その存在が人間を支えている。その誰だかわからない人間、ほんとうの「他者」に「アイ・ラブ・ユー」ということ。このとき「アイ・ラブ・ユー」は日本語では「ありがとう」かもしれない。そうやって、人間は一生を終わるのだ。常に「他人」に、見ず知らずの「他人」が「わたし」を発見させてくれる。そういう「他人」にどれだけ会えるか、一期一会の出会いを生きることができるか。
 そんなことを語りかけて終わる。

 この映画のテーマは、とても「哲学的」であり「文学的」だ。しかし、そう感じさせないリアルなおもしろさで映画は進む。チャーリー・カウフマンの脚本の力、演出の力がすごい。役者たちの力もすごい。演技派がそろわないと完成しなかった映画である。



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佐藤文夫「国語の時間」

2009-12-15 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
佐藤文夫「国語の時間 「こむ」の使い方」(「現代詩手帖」2009年12月号)

 佐藤文夫「国語の時間 「こむ」の使い方」(初出『津田沼』2009年04月)もまた岡井隆の『注解する者』と強引に結びつけることができる。「脈絡」を「誤読」することができる。

はじめてできた恋人 わたしはあなたに 惚れこむ
やっと就職 新聞配達 そまつなお店に 住みこむ
息子は大学をでて派遣会社にヤットコサ 滑りこむ
サラリーマンは昼休み慌ただしく定食を 喰いこむ
老人は☎で騙され 息子のために大金を 振りこむ

 本文にはルビがついているものもあるのだが省略した。「……こむ」という脚韻(?)と行の形を整えるようにして書かれているスタイルを優先した。
 引用したような「……こむ」という行が、延々とつづく。「延々と」という印象は、たぶん、それに先立つことばがあまりに散文的すぎて想像力を刺戟しないからである。音楽というものが、「……こむ」の前に書かれていることばのなかには、まったくない。(と、私は感じる。)こういう音楽のないことばというのは私はとても苦手だ。「流通言語」というのはたいてい音楽を欠いているが、それが書き留められた形でつづくと、なんとも苦しくなる。
 あ、悪口から書きはじめてしまった。

 この詩は、音楽や発想の自由さという点では岡井のやっている「注解」とは無縁のものである。そういう一見「無縁」のものも、岡井の作品と強引に結びつけて考えることができる。不思議なことに。
 「……こむ」ということばのもとに、さまざまな「多」が集められる。動詞の「連用形」だけではなく、その「動詞」にかかわる形で「多」が集められる。その「多」は1行目をのぞけば「社会」である。それも佐藤が独自にみつめた「社会」というよりも「流通する社会」である。「流通言語」風にいえば「流通社会」である。そこには佐藤個人の「肉体」が関係していない。きのう読んだ谷川の作品と対比すると、そのことがよくわかる。谷川の作品は、どの行にも谷川が「多」となってあらわれていたが、佐藤の作品には、「多」としての佐藤は存在せず、「社会」が「多」となって流通している。安直なジャーナリズムに描写されている状況、批評がそのまま並べられているだけである。
 「……こむ」の使い方も「流通」している動詞の使い方の範疇を逸脱していない。誰でもが想像できる範囲の動きしかしていない。あまりにも安直な動詞なので、かえってびっくりするくらいである。
 
 しかし、これもまた「注解」なのである。「……こむ」という「一」が社会を「多」に解体し、その解体された「多」がもう一度「一」として「範疇」にくくられる。「一」になる。ことばの運動として「注解」の動きをそのまま引き継いでいる。そこには岡井の思想と通じるものがある、
 はずである。

 ……はずである、けれど、ねえ、おもしろくないですねえ。佐藤の作品は。申し訳ないけれど、私は、この作品がおもしろいとはまったく思わない。とてもつまらないと思う。
 で、なぜ、それではそういうつまらないものを50年に一度の大傑作『注解する者』と結びつけて書いているかというと。
 だれもが「注解」する。あらゆることがらに対して「注解」しないではいられない。そこに人間のおもしろさがあるのだけれど、「注解」すれば、だれもがおもしろいことばを書けるかというとそうではない。
 そのことをはっきりさせておきたいのだ。

 岡井の「注解」もしばしば日常的な、卑近な部分に触れることがある。家人との戯れ言のようなものが紛れ込んだりする。それは一見すると「流通家庭」(?)のような雰囲気である。どこにでもある夫婦のやりとり、しかも年月を経てきて「まるく」なりつつ、同時に「ちくり」も含んでいるという味わいの定着したやりとりである。しかし、それはやはり「流通社会」ではない。そこには不思議な岡井の個人的年月、岡井の「肉体」がにおいとして存在している。そういう「日常」においても岡井が「多」として動いている。
 岡井の書いている「流通家庭」は「流通家庭」ではなく、芭蕉が俳句に持ち込んだ「俗」のようなものである。それは「雅」を破壊して、「雅」のあり方を鍛える。そういう存在としての「俗」である。「俗」の美がそこにある。
 ことばは不思議なもので、「流通言語」にも「詩的言語」にもなる。それを区別するのは、「文学」の「肉体」である。そういう「肉体」と無縁なことばは、どんなふうに「注解」のためにつかおうと、それは「受験参考書」のようなものになってしまう。
「受験参考書」と文学としての「注解」の違いは、どこにあるか。
 「受験参考書」が「注解」するのはあくまで「テキスト」であって、「注解する者」の「肉体・思想」ではない。「テキスト」が解体され、それをどんなふうに読めば「答え」にたどりつけるか、適当に処理できるかというのが「受験参考書」の「注解」の仕方である。
 ところが「文学」においては、「テキスト」を「注解」するふりをしながら、「テキスト」はほうりだしたままである。実際には、「注解する者」の「肉体・思想・ことば」が「解体」され、それが無限にひろがり(「多」になること)、無限を獲得することで「一」になる。
 そして、そのときほうりだしておいた「テキスト」は、知らずに「一」の内部にはいってしまっている。「自分自身」を解体したはずなのに、「テキスト」が自分自身のなかに知らずに組み込まれている。「テキスト」と「私」という「一」が一体になってしまっている。それは「一」の内部にはいっているというより、「一」が「テキスト」をつつみこんでしまった、抱擁してしまった、という感じなのである。

 「注解」は抱擁、愛でなければならないのだ。
 愛というのは、なんといえばいいのだろう、ちょっと恥ずかしいけれど、自分がどうなってもかまわない覚悟で、つまりどこまでもどこまでも自分を解体しながら、相手をつつみこむようにして、相手と一緒に生きる覚悟のことである。そこには「流通言語」がはいってくる余地はない。「流通言語」をどこまでも拒絶し、ただひたすら「私」を解体することなのだ。

 岡井の『注解する者』の「思想・肉体」は、すぐれた作品のすぐれた点を指摘するのにも有効な「基準」にもなるし、つまらない作品の、そのつまらなさを指摘するときの「基準」にもつかえる。どんな作品に対しても、それが岡井の作品のどの部分と連続するか、あるいはどんなふうに連続しないかという判断の「ものさし」になってくれる力がある。岡井の『注解する者』を中心にして、現在書かれている詩の一大チャート図をつくることができる。
 おもしろい作品にであったとき、私は、これは岡井の作品とどこでつながっているのだろうと考えてしまう。つまらない作品のときは、これは岡井の作品のどこを踏み外してしまっているのだろうか、と考えてしまう。



 岡井の作品について、あるいは岡井の作品に結びつける形で、強引にことばを動かしつづけてしまった。きょうの「日記」で一応、『注解する者』への言及は中止する。
 あと一点、岡井の『注解する者』に関係づけて書きたい問題がある。「歴史的かなづかい」のことである。けれど、ちょっと適当な作品に出会えなかったので省略。何かのきかいがあれば、それについて書こうと思う。

詩集 津田沼
佐藤文夫
作品社

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