詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

古谷鏡子『入らずの森』

2009-12-16 00:00:00 | 詩集
古谷鏡子『入らずの森』(砂子屋書房、2009年11月10日発行)

 古谷鏡子『入らずの森』には「空」がたくさん登場する。目次をみただけでも「空のなかのへ水のなかへ」「そらの日」「そらの目」「そらが空からやってきた」と「空」「そら」が並んでいる。古谷は「空」についていつも考えているのだ。
 「空」はもちろん「青空」の「空」でもあるが、そこには別の感覚がまぎれこんでいる。

虚空 空無 空なるあらゆる事象
辞書のなかでひたすら言葉がからまわりしている
それぞれの名前にはそれぞれの顔と文字
そらにはどんな文字を幽閉することができるだろうか
どんな言葉も
そらんじて
どんな文字も
雲散霧消して
魚のように逃げていく
              (「訪問者」)

 「空」は「そら」であり「くう」である。そこには何もない。--というのはほんとうか。「雲散霧消」ということばが出てくるが、「空」には何もないように見えて「雲」があり「霧」がある。そして、そこにはもっとほかのものもある。「鳥」「風」「光」も。
 「空」は「そら」であり「くう」である。そこには何もない。--ということを古谷は別な形で言い換えもしている。

青い空のはるかむこうのことについて
にんげんは
いとも簡単に
無限という言葉を発明した
かぎりなく遠い空かぎりなく無言の闇 これで当分のあいだは安心
そして
有限の人生を生きるかれらは無限という言葉に懸想して日を送る
永遠の恋人よ と

 「空」は「そら」であり「くう」であり、同時に「無限」である。では、そのとき、たとえば「雲散霧消」した「雲」「霧」そして「鳥」は? あるいは「風」「光」は? それは人間が「無限」ということばを発明したのと同じように、「雲」「霧」「鳥」「風」「光」ということば(発明されたことば)とともに、そのことばを発したときだけ存在する。
 ことばが「無限」のなかに「有限」のものを存在させるのだ。そこにはもちろん「人間」も、つまり「わたし」(古谷)も含まれる。「無限」にさらされながら、「無限」と直面しながら、古谷はていねいに「わたし」という人間を動かしている。「わたし」が「無限」のなかに存在するものに「名前」をあたえながら、「わたし」と「他者」との「有限」をつくり、そのなかでさらにことばを鍛えている。ことばが何をなづけることができるか、と考えている。何かに名前をつけ、その何かといっしょに生きる--そのときのことばの運動が詩である。
 この「無限」と「わたし」の通路を、古谷は「窓」というふうに呼ぶこともある。

その朝
不意の目覚めのように 窓はあった
鉛色の活字がいっぱいつまった壁をくりぬいて
窓はあった
        (「窓という幻想」)

 「鉛色の活字」とは「ことば」であるかもしれない。ことばががいっぱいつまった壁--それを「くりぬいて」窓があった。「窓」は「ことば」をくりぬいた部分。それは、まだ「ことば」が存在していない部分ということかもしれない。
 詩とは、まだ「ことば」になっていないところをとおって、新しく「ことば」を発見(発明)することであり、そのとき通る場所を古谷は「窓」と呼ぶのだ。

 そうだとすれば、古谷は、まだことばになっていない「世界」をとおって、その「ことばになっていない世界」を「ことば」にしようとしている。
 この行為はたしかに詩と呼ぶにふさわしい行為である。
 詩はいつでも、まだことばになっていない世界をことばにする。そしてそのことばは、まだ生まれていないことばである。「生まれていないことば」で何かを名付ける--というのは矛盾である。矛盾だから、そこに詩がある。真実がある。思想がある。
 「生まれていないことば」。それを探すために何をするか。それを生み出すために何をするか。
 古谷は、いま、ここにあることばをていねいに点検する。見つめなおす。
 いま、ここにあることばのなかに、「空」(くう)を探そうとするのだ。
 「そらが空からやってきた」の書き出し。

図書館の
エレヴェーターのなかでそらと出会った
小さな箱のなかで
わたしはそらの眼の凝視に耐えられない
わたしはそらに背をむける
視線にたじろいで顔をそむける

 「図書館の/エレヴェーター」が象徴的である。「ことばの保管庫」としての「図書館」。そこにはあらゆることばがある。その「ことば」の地層をくりぬいてエレベーターは上り下りする。それは「鉛色の活字がいっぱいつまった壁をくりぬいて」できた「窓」に似ている。
 それは「空」ではない。そして「空(くう)」でもない。
 それを古谷は「そら」と呼んでいる。「音」にしてしまえば「空(そら)」となってしまうけれど、「空」と書かずに「そら」と書くことで、「空(そら)」でも「空(くう)」でもないものと向き合う。「そら」のなかでは「空(そら)」と「空(くう)」が出会いながら、その両方でもないまったく新しいもの、古谷だけが発見したものに出会う。その存在は、他者にとっては「空(くう)」であるけれど、つまりまだ定義されていないことばの運動領域であるけれど、古谷はそれを「そら」と書くことで定着させようとしているのだ。

 ことばの遊びにすぎない。--そんなふうに見えるかもしれない。同義反復(?)にしか見えないかもしれない。
 しかし、これは同義反復に見えたとしてもつづけていかなければならない運動なのである。進んだか進まないかわからない距離だけれど、そこを進むしかない。ことばのなかに「空(くう)」を見つけ、それを「空(そら)」に変え、その「空」のなかに鳥を飛ばせ、風を吹かせ、音を響かせ、そして、そんなふうにひろがった「空間」のなかに人間を動かして時間を重ね、ひとの世界は広がっているのだから。
 「ことば」。いま、ここにある「ことば」。それは、何か物足りない。自分の「こころ」を正確にはいいあらわしてはくれない。その、少し不満な、でもどうしていいかわからないものをなんとかしようとして、次々にことばは生まれ、詩は生まれてくるのだから。こういうことは古谷だけではなく、古人からずーっとつづいている「文学」の伝統である。古谷は、そういう「王道」を歩いている。
 「花の散るなかで」はそういうことに身を寄せて書かれている。

はなが散っている
はら はら ひら ひら はらり はらり
擬態のことばは
優しすぎてものたりない そこで古人はいう
花吹雪 花筏 散花

 「空・そら・くう」、まだ存在しない何かを生み出すために、それをはっきり見るために、ひとはことばを発明する。「花吹雪」「花筏」。そして、無残にも、ことばは乱暴を働くこともある。「散花」。
 詩はつづいている。

花吹雪 花筏 散花
花誘うあらしの戦場(にわ)にどれほどのいのちが散り
立ちあがることもできない風雪のなか
そうやってひとの身は古り 日を経てきた

 そういう「乱暴」がおこなわれることもある。だからこそ、そういう「乱暴」に対抗しうることばを見つけ出さなければならない。そういうことを胸の奥のどこかに秘めながら、古谷のことばは動いている。そう感じさせるていねいさ、「肉体」のやわらかさが、静かな音楽として響いてくる。



眠らない鳥―詩集
古谷 鏡子
花神社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする