詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大森寿美男監督・脚本「風が強く吹いている」(★)

2009-12-07 11:52:34 | 映画
大森寿美男監督・脚本「風が強く吹いている」(★)

脚本・監督 大森寿美男 出演 小出恵介、林遣都

 林遣都(たぶん)の走り方がとても美しいという評判に誘われて見に行った。目の手術以後、「走ってはだめ」と念押しされているので、走る快感をせめて映画からだけでも味わいたいと思って、見に行った。たしかに走り方が美しい。走っている気持ちになれる。だから、まあ、いい映画なのかもしれないが、私は最後の最後で大笑いをしてしまった。一緒に劇場に居合わせたひとは、きっと理由がわからなかったと思う。どちらかといえば、いちばん感動的なシーン、余韻(?)にひたるシーンで、私は涙が出るくらい笑いころげてしまった。
 ストーリーは箱根駅伝をめざす大学の陸上部の奮闘。予餞会に出て、最終的には駅伝にも出る。そして、最後の最後、アンカーがゴール直前で剥離骨折を起こし、はらはらどきどき、というものだ。そのはらはらどきどきはいいのだが、その最後の最後。
 実況放送をしているアナウンサー。風にメモ(資料)がとばされる。そして、「風が強く吹いています」と叫ぶのだ。なんだ、これは。これって、映画の台詞ではなく、小説の台詞じゃないか。
 映画のタイトルも(小説のタイトルも)、この1行をつかっている。
 でもねえ、こういう「余韻」というか感動の残し方は小説特有のもの。映画ではありません。映画は台詞で成り立っているのではなく、映像。風が強く吹いているなら吹いているでいいけれど、そんなことを台詞で説明しないとわからないなら、もうそれは映画ではない。映画であることを放棄している。
 役者を走るところから鍛えて、せっかく「肉体」に存在感をもたせたのに、それをわざわざ「ことば」でぶち壊すという監督の気持ちが(「頭の構造が」、あるいは「ばかさ加減」が、と読み替えてくださいね)さっぱりわからない。
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鈴木志郎康「笑う青首大根」

2009-12-07 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
鈴木志郎康「笑う青首大根」(「現代詩手帖」2009年12月号)

 「現代詩手帖」12月号は年鑑。多くの批評(総まとめ)とアンソロジーが掲載されている。
 2009年の大事件は、岡井隆の『注解する者』(思潮社)である。10年、20年、いやきっと30年-50年に一度の大事件である。「対談」や「アンケート」でも高く評価されているが、私には、その評価はまだまだ低すぎるように思えてならない。岡井のことばの「射程」の広さが正当に評価されているとは思えない。『注解する者』は谷川俊太郎の『父の死』以来の、詩の(あるいは日本文学の)思想をひっくりかえす大詩集である。
 何がすごいか。
 文学の評価というのは「文体」に対する評価である。「文体」が統一されているかどうか。統一された独自の文体をもっているかどうか、が「作者」に対する批評の基準である。
 岡井は、この詩集では、まったく逆のことをやっている。「文体」を統一しない。どんな「文体」でも引き込んでしまう。そして、引き込みながら、それに対して「注釈する」という「態度」を「文体」に置き換えてしまう。
 異質なもの(存在)の出会い、結合を「詩」と定義することがあるが、岡井がやっているのは「異質な文体」の「出会い」の演出である。「異質な文体」が出会うこと、衝突することで「詩」を発生させている。
 そして、その「異質な文体」の出会いを書き留めるということを「新しい文体」にしている。単に「異質な文体」どうしを立ち会わせるのではなく、それをしっかりと結合させ、その結合させる力、いわば「粘着力」を「新しい文体」にしている。

 岡井のやったことを「批評」の基準(新しい批評の出発点)にすると、「年鑑」に収録されている多くの詩(実験的な詩、いわゆる言語の可能性を追求した「現代詩」)の「思想」がどこにあるかは簡単にわかる。
 たとえば鈴木志郎康「笑う青首大根」。(作品の初出は「読売新聞」2009年11月18日)その書き出しの2連。

青首大根が笑っていたんですよ。
笑いごとすり下ろしてしまいました。
夕飯にサンマと一緒に食べました。

青首大根の奴、
わたしの米を研ぐ手つきを、
先ず笑った。
年寄りの似合いの手つき、
ということで、
笑っちゃいました、ということ。

 大根が笑うということは、現実にはありえない。現実にはありえないけれど、ことばでなら、そういうことがらが書ける。現実にはありえない--現実にとって完全な「異質なもの」が、ことばによって、現実、日常と結合されている。
 そして、その結合を、鈴木は「ということ」(2連目に、2回出てくる)ということばで「くくっている」。この「くくり」は「注解」である。
 「青首大根が笑う」って、どういうこと? 「それは、こういうこと」と「説明」(注解・注釈)するというかたちで、ありえないのに、あるものにしてしまう。大根が笑うということはありえないが、大根が笑うと考えることはありうる。「頭のなか」では何でもありえる。それが「間違い」であっても、ありえる。「ものの見方」として、ありえる。
 詩は、そういう「間違い」を「間違い」の領域を超えて(越境して)、可能性として具体化してしまうことである。ことばの運動として確立してしまうことである。
 そういう運動を確立するには、ことばの「肉体」を鍛えないと、できない。鈴木は、その「肉体」を鍛えるのに、「日常」に密着するということをやっている。
 「大根が笑う」ということは「非日常」だが、そういうことをことばとして定着させ、文体にしっかり組み込むために、「日常」の描写を正確(?)に確立するという方法をとっている。「日常」を描きながらことばの「肉体」を鍛えている。「日常」なら、どこまでも書き切れるという「体力」を文体に持たせている。

 3連目。

今朝の、
夜明けの、
薄明かりの、
部屋で、
わたしが腰をぐらぐらさせながら、
足を踏みしめるのも怪しく、
立ち上がって
三度目の便所に行くのを。
ほら、両手を衝くぞ、
と、わたしは布団に両手を衝く。
ほら、寝間着の腰がぐらぐらするぞ、
と、わたしは腰をぐらつかせる。
ほら、足が上がらないからひきずるぞ、
と、わたしは足を床にひきずる。
青首大根の奴は茄子の頭を叩いて、
大笑いしたってわけ、
聞こえない声で。

 「今朝の、/夜明けの、/薄明かりの、」と「部屋」を描写するために、ことばを繰り返す。特別なことばではなく、だれもがつかう「日常」のことばで。そして、そのあとも「便所へ行く」という「日常」のことを、具体的に、だれの「日常」にも通じることばで描写する。「日常」が鈴木のことばが暴走しないように鍛える。--と、みせかけて、一方で暴走させるのだけれど。
 つまり。
 寝ていて、便所に行く。そのとき、まず立ち上がる。そういうことは「日常」なので、ふつうはことばにしない。ことばにしないで「肉体」がかってにやってしまう。「肉体」のなかに、ことばが吸収されてしまっていて(思想になってしまっていて)、ことばにならない(わざわざ思想として表明されない)。そういうものを、鈴木は、まず、「肉体」からひっぱりだしてしまう。
 そして、それを単に、立ち上がるのに両手を布団につき、それから腰をぐらぐらさせて、やがて足をひきずる--という一連の行為を簡単に描写するのではなく、「意識」と「行為」との2回で繰り返す。
 このとき、鈴木は「意識」を「青首大根」に、さらりと置き換えている。「青首大根」が鈴木を「意識」を先取りし、それを鈴木が「肉体」で反復し、「事実」として「現実」のなかに確定する。
 「ほら、」と「と、」の繰り返しによって、「ことば」(意識)が具体的な「肉体」になる。この反復運動は、「注釈」そのものに似ている。「意識」を「肉体」が「注解」することによって、「意識」が「肉体」をもち、現実に存在しはじめる。
 あ、簡単に言い換えると、鈴木の朝の便所へ行く姿と、そのときの苛立ち、それを受け入れ生きている、苦労(?)しながら、その苦労を「笑い」のなかで吸収、消化しようとする姿がリアルに見えてくる、ということなのだけれど。(わからなかったものが、「注解」を受け入れることによって、わかるようになった、ということだけれど。)

 そして、そんなふうに「ほら、」「と、」の繰り返し(鈴木の発明--ここに、この詩のいちばん美しい部分がある)を、読んでみると--つまり、「意識」を「肉体」が「注解」するということをことばで「現像」してみると、「注解」こそが「世界」を広げる方法であることがわかってくる。
 私たちは「注解」しながら、現実を拡大している。深めている。耕している。

 「注解」のなかに、いったい何を持ち込めるか。
 問題は、そこにある。
 鈴木は「日常」(食べる)と「肉体」を持ち込んだ。
 岡井は、「注解」に持ち込むべきものを限定しなかった。なんでも。ことばにできるもの、いや、ことばになったもの、言ってしまったこと、言われてしまったこと、書かれてしまっていること、なんでも取り込んだ。聴講生の質問も、そのとき一緒にいたテレビ局の人の指示も、家人のことばも、だれそれの有名な解説も、全部、区別せずに持ち込んだ。
 そして、そういう「雑多」なのもを結合させながら、そこに「違和感」を感じさせない。つまり「統一感」のある「文体」を作り上げた。
 あらゆるものを取り込みながら、なんでもやってしまうというのは「小説」の「文体」の特権なのだが、それを詩でやってしまった。

 鈴木のやっていることは、岡井のやったことの「一部」というのではないけれど、(そうではなくて、鈴木は鈴木で独自にその文体を確立したのだけれど)、岡井の「文体」の射程は、鈴木のことばの射程をのみこんでしまっている。
 私には、そんなふうに思える。 
 そういう感想を書かずにはいられないほど、岡井の「文体」は強靱、巨大である。



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