詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(121 )

2010-04-01 12:13:06 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 西脇は時空間を自在に旅する。「プレリュード」に、その特徴がくっきりと出ている。

伊豆の岩に仙人草が咲いていた時分は
九月の初めで
人間の没落もまだ早い頃であつた。
十月の間はまだ望みもなく
すべて見当がつかなかつた。
青黒い蜜柑のなる林の中で
老人とばくちうちの話をして
日の暮れるのを待つていた。
(略)
十一月にはいつてから毎晩ボオドレエルの
夢を見たが奇蹟の予言とは思えなかつた
湖水を渡つて西下し始めた。
夕暮の空は野ばらに染まつた。
われわれはまだ何物かに近づいて行つた
のだということを知らなかつた。
ここでまた六月に少しもどりたいのだ
シモツケソウとウツボグサが岩の中から
ねじれ出ている川合村見た
染物やの男神愛染が坐つている
藍壺の存在もアポカリップスであつた
のだと思うと悲しみもますものだ。

 九月、十月、十一月と「時」が「常識的」に流れる。その流れにしたがって、風景が動く。時間と空間が一致している。
 そのあと、唐突に、

ここでまた六月に少しもどりたいのだ

 と時間が逆流する。そして、それにあわせて、突然「川合村」という固有名詞と「場」が出てくる。
 なぜ、ことばがこんなふうに動くのか。
 それは私にはわからないのだが、この1行に、私はなぜか安心した。ほっとした。そうだったのか、とふいに、こころのなかにあったわだかまりが消えた。
 これに先立つ行。さーっと読んでしまうが、何かしらひっかかるものがある。

湖水を渡つて西下し始めた。
夕暮の空は野ばらに染まつた。

 湖水を渡った太陽が、湖水のの向こう、西の方に落ち始める。そのとき夕暮れは「野ばら」の色に染まった--という風に風景を思い描くのだが、これって変じゃない? 十一月に野ばら? 花はもちろん咲いていないし、葉っぱだって、もう落ちてしまっていない? 秋の夕暮れを、野ばらにたとえるのは奇妙じゃない? 
 「比喩」というのは、「いま」「ここ」にないものをもってきて、「いま」「ここ」を強く印象づけるものだから、十一月に存在しない野ばらをもってきても不思議はないといえば不思議はないけれど、そんなことをすると、「いま」「ここ」にいるという存在の根拠のようなものが崩れてしまわないだろうか。秋の夕暮れは、秋の花の比喩でないと、秋という印象が壊れてしまわないだろうか。
 --というのは、たぶん「学校教科書」の「詩学」。
 西脇は、そんなふうには考えないのだ。

 壊れてしまっていいのだ。
 安直な(?)連想を破壊し、ありえないことばの運動、それが引き起こす乱調が、西脇の「詩学」だからである。
 破壊にこそ意識を向けさせるために、ここでは、それが破壊であるとわかるように「六月」がひっぱりだされてきている。「野ばら」も「六月」も西脇の、「わざと」書いたことばなのだ。

 なぜ、破壊するか。
 西脇のことばを借用すれば「何物かに近づいて行」くためである。教科書のことばの運動ではたどりつけないものに近づくためである。破壊の瞬間、その破壊のすきまから「何物」かが見える。
 で、その「何物か」とは何か。
 わからない。私には、わからないけれど、次の行が大好きだ。

染物やの男神愛染が坐つている
藍壺の存在もアポカリップスであつた

 「あいぞめ」を中心とする音のゆらぎ。「あいつぼ」と出会って「アポカリップス」という音が「存在」させられる。「あ」の響き、「ざじずぜぞ」、「あいつぼ」「アポカリップス」。
 何かが確実に「解体」した、という印象がある。その「解体」を経て、ことばは、再び十一月へもどる。

十一月になつてから前兆がますます
はげしくなつて足なみも乱れていた。

 乱れても存在してしまう「ことば」。乱れるから「自在」という感じがする。「自由」がそこに噴出してくる。



西脇順三郎絵画的旅
新倉 俊一
慶應義塾大学出版会

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志賀直哉(5)

2010-04-01 12:01:44 | 志賀直哉
 「菰野」(「志賀直哉小説選、昭和六十二年五月八日発行)

 私はときどき不思議なことばにひっかかる。98ページの終わりの方。

時間は少しおそかつたが、延ばせば、又気が変りさうなので小さな荷物を持つて、兎に角家を出た。

 この行の「兎に角」に傍線が引いてある。そのことばが気に入ったのだ。「兎に角に志賀直哉の「正直」を感じたのだ。「兎に角」は「意味」がない--というと言い過ぎだけれど、そのことばがなくても、「家を出た」という事実はかわらない。でも、志賀直哉は、そのことばを書きたかった。
 このことばに私がひっかかった理由は、今となっては、ちょっとわからないところがある。
 本を読んだのは、実は、きょうではない。このことばについて書こうと思うことがあって、そこに傍線を引いたのだが、今は、その理由を正確に思い出すことはできない。だから、今から書くことは、そのことばにひっかかったときとは違った感想かもしれないのだが……。

 「兎に角」ということばは余分である。ふつう、余分なことばは、ことばの運動を妨げる。余分なことばが入ると、それだけことばは遠回りすることになる。「兎に角」というのは4音節だが、4音節にしろ、遠回りすることにかわりはない。簡潔な文章で有名な志賀直哉が、4音節とは言え、遠回りするのはおかしい。
 --頭で考えるとそうなるのだが、不思議なことに、この4音節のことばは逆に働く。遠回りではなく、ぐずぐずしているものを駆り立てる。
 たしかに「兎に角」は、なにはさておき、ということだかから、行動を駆り立てるものには違いない。
 ここで、私は、ちょっとうなったのである。(今、思うと。)
 自分自身を駆り立てるようにして動く。そのことをわざわざ4音節のことばをつかって書くということに、なぜか、うなってしまったのである。
 これが志賀直哉ではなく、冗漫な文体の作家の文章なら、うならない。あらら、余分なことばを書いて、文章がだらけている、と感じたかもしれない。けれど、志賀直哉の文章では、なんといえばいいのだろう、文体に紛れ込んでくるかもしれないものを拒絶するために、「兎に角」がつかわれていて、そのことばをバネにして、ことばが動く。
 そういうことが、「肌」につたわってきた。「肉体」に伝わってきた。
 それに驚き、たぶん、私は傍線を引いたのだ。

 この「兎に角」は最後の方にも出てくる。 111ページである。

 兎に角、もう帰らうと思つた。此不愉快な仕事を我慢してする必要はない。自分は矢張り此事件で慢性的に疲れてゐるのだ。

 ここでも「兎に角」は「拒絶」である。
 この小説は、弟とその金銭をめぐるトラブルを題材にしているのだが、そのトラブルを志賀直哉は引き受けるのではなく、拒絶しようとしている。
 その拒絶の「意思」が、そういう、文体の細部に、ことばの細部に影響しているのかもしれない。--と書くと、うがちすぎた見方になるかもしれないが、どうもそんな気がする。

 私の読み方は、うがちすぎはうがちすぎなのだろうけれど、そんなふうに志賀直哉のことばは、いつも志賀直哉自身の「気分」に強く支配されているところがある。そして、その「気分」の支配--支配されていることばに、私は「正直」を感じるのだ。





志賀直哉随筆集 (岩波文庫)
志賀 直哉,高橋 英夫
岩波書店

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鈴木正枝『キャベツのくに』(2)

2010-04-01 00:00:00 | 詩集
鈴木正枝『キャベツのくに』(2)(ふらんす堂、2010年03月08日発行)

 鈴木正枝の詩には「同時に/私も」が隠れている。ことばにならない形でひそんでいる。そして、それは、見えなければ見えないほど、不思議な輝きを発揮する。
 「風の日」。

チッとベルがなって
玄関のドアを開けると
誰もいない
サッと入られてしまった
気配がある

ひとり?
声が言う
先回りして
もう椅子に座っているのだ
背もたれに脱ぎ捨てられたTシャツが
少しずつふくらんでくる

私は場所をなくしてしまった
ふりかえると
長く伸びた指先が
静かにページをくっている

本は読まれているのね
その時まで私が
そうしていたように
その同じ場所で
読み手が変わったことに
気づかない
そのままで

 サッと入ってきた風。そのとき、「同時に/私も」風になる。それだけではない。その風にページがくられる本。その本を見つめるとき、「同時に/私も」本になる。「当時に」風「も」本「も」「私」なのである。「私」が複数になり、相互に行き来する。それは互いに寄り添い、互いを護り、互いを育てる--というのではなく、互いに寄り添い、互いに、同時に(瞬時に)自分が自分であることを「交換」しつづける。

 それにしても、「本は読まれているのね」からの7行はなんと美しいのだろう。本は読まれていることを意識せずに、誰が読んでいるかを気にせずに、そのページのなかで、ことばを動かしている。
 この7行を、鈴木は「風」が、私と同じように本を読む、という形で書いているけれど、その美しい夢そのもののなかでは、「風が」ではなく、「私も」風と同じように読み、そのとき本は「私を(も)」、風がページをくっているかのように、何も気にせずにことばを動かしているのだ。
 風「も」本「も」私--私は、私であり、風で(も)あり、本で(も)あるのだから、この本の姿は鈴木の「夢」そのもので(も)あるのだ。
 鈴木のことばは、私が(谷内が)読むときも、風が読むときも、そしてまた別の誰かが読むときも、同じようにことばでありつづける。誰か特別な人が読むからといって、ことば自身が運動をかえるわけではない。かわらない。
 そして、かわらないからこそ、そこで何かがかわる。
 読んだ人と、そのことばのありかたが、少しかわる。(大きくかわる、かもしれない。)

 「試み」という詩も、とても好きだ。

今夜こそ
机の前に正座して
肩をゆすり
さびしさを取り出して
机の上に置いてみよう

 この「さびしさ」は「私」そのものである。だから、この行のあとには、ほんとうは、

同時に/私も
取り出して
机の上に置いてみよう

を書き加えることができる。もちろん、そんなことをすれば、ことばの運動が重くなる。動きにくくなる。だから鈴木はそんなことばを書かないが、書かないけれど、鈴木の肉体の中に、それが隠れている。

今夜こそ
机の前に正座して
肩をゆすり
さびしさを取り出して
机の上に置いてみよう
少し痛むかもしれないが
月明かりのなかで
両手で触れて
確かめてみよう
いつも心臓の近くに
無言で端座している
さびしさに
初めて気づいたふりをし
もの珍しそうなふりをし
半分苦笑しながら
掌にのせて
重さなど量ってみよう

 「さびしさ」に触れるということは、「肉体」のなかの、まだことばにならない私に「も」触れることである。そして、そういう私に触れることは、さびしさを入れていた「私」という器に「も」触れることである。ここでも相互交流がある。「も」は、相互交流を必然的に引き起こすのである。
 詩はつづく。

いっそのこと
刃物で切り刻んで
深夜の下水に
流してしまおう
夜明け前
その分だけ軽くなり
その分だけさびしくなる

 「さびしさ」を捨てたら、その分だけ「さびしく」なる。これは、結局、さびしさが減ったのか? 増えたのか? わからない。「わからない」ことが、たぶん大切なのだ。
 「も」ということばは、違うものをいっしょに存在させることばである。
 風「も」本「も」私「も」、あるいはチューリップの球根「も」私「も」。違う存在だから「も」ということばで並べることができる。そして、違うということが明確になるから、それが融合し、ひとつになるとき、それは美しくなる。ひとつではみえなかった「深み」が出てくる。

 たぶん、同じことばの繰り返しになるのだが……。

 「同時に/私も」という形での運動、そのことばの運動を最終的に引き受けるのは「なる」である。「その分だけ軽くなり/その分だけさびしくなる」という最後の2行で繰り返されている「なる」。「同時に/私も/……になる」。「私も/……になる」から、そのとき「私」と「……」は同じものである。融合し、区別のつかないものである。同じものであるから、より強く、支えあい、護りあい、まっすぐに育つ。



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