詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋亜綺羅「四匹の黒犬が黙る--ことばと文字の連想ゲーム」

2010-04-21 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
秋亜綺羅「四匹の黒犬が黙る--ことばと文字の連想ゲーム」(「ココア共和国」2、2010年04月01日発行)

 秋亜綺羅のことばは基本的に「書きことば」である。
 「四匹の黒犬が黙る--ことばと文字の連想ゲーム」は副題に「文字」ということばが出てくるが、この作品は「文字」なしには成立しえない。タイトルそのものがこの作品を語っているのだか、「黙」という文字は「黒」と「犬」と「四つの、」からできている。それで「四匹の黒犬」が集まれば「黙る」ということになる。
 作品には、そういう仕掛け(?)がいっぱい書かれている。そして、その仕掛け(?)部分には、傍点が打ってあるのだが、ここでは省略して引用する。

淋しいという文字は木がふたりで住んでいるのにいるのにどうして淋しいのか、なんてことじゃなくて、妹とふたりで海で溺れたときの淋しかったことを考えているのだ。ぼくは次の夏、ひとりで溺れ死ぬ気だったとき、弱いものだけが泳ぎ方を知ればいいのだ、と思った。

 きのうの「日記」にも書いたが、秋亜綺羅のことばは高踏的なところがない。そういう意味では「書きことば」であって、書きことばではないのかもしれない。
 冒頭の「淋しい」ということば。そのセンチメンタルな感じ。そして、その漢字は誰もが知っているものだ。サンズイに木がふたつ。--その「ふたつ」にひそむ「矛盾」。「ふたつ(ふたり)」は孤立(孤独)ではない。だから「さびしい」という感覚をわりふりには何かが違っているという、かすかな印象が「矛盾」のようにして入り込む。そして、その「矛盾」は、でも、「淋しい」のは「ふたり」いるのに「ふたり」であると感じられないからだ、と気がつくと、不思議な気持ちになる。
 もしかしたら、サンズイは涙? ふたりが涙を流せば、それは「淋しい」ではなく、また別の感じになるかもしれない。左側の木だけが涙を流していて、右側の木は流していない。ふたりの間には「同じ感覚」が共有されていない。だから、よけい「淋しい」。
 あ、もしかすると「淋しい」は「沐」と「木」が組み合わさったもの?
 なんてことが、私の頭のなかにはちらりとかすめるが、秋亜綺羅は、そんなところにはまりこまない。同じところにとどまらない。
 サンズイは「林」(大地)から離れて「海」へ、サンズイだらけというか、水がいちばん多い場所へと飛躍していく。そして、そこで「淋」と同じ構造の「文字」を見つける。サンズイのとなりに、同じ文字が並んでいる漢字。「溺れる」。
 でも、この文字は不思議だね。淋しいがサンズイ+木+木なのに、溺れるはサンズイ+弱。「弓」の下の部分にニスイ(?)がついた単独の漢字はない。「弱」は最初から「ふたり」なのである。「ふたつ(ふたり)」に見えて、ほんとうは「ひとり」、切っても切れない関係にある。
 あ、また「淋しい」へもどっていこうとする強力な引力、「意味」の重力のようなものを感じてしまうなあ。
 そういうとき、秋亜綺羅は、どうするか。

エイ、ホー。エイ、ホー。エイ、ホー。そういうわけでぼくは泳げるようになったけれど、過去にも未来にもいける泳法なんて未だ知らない。

 重くならないように、ぱっと、状況を換えてしまう。「文字」にとらわれていたので、「文字」から音へと飛躍してしまう。「ことば」は「文字」であらわすこともできるが、「音」でもあらわすことができるのだ。
 「エイ、ホー。エイ、ホー。エイ、ホー。」これは掛け声であって、掛け声ではない。すぐに「泳法」という「文字」にかわる。「漢字」になって、そこで「意味」をもつ。

 秋亜綺羅の「ことば」の特徴は「意味」を次々に渡り歩く--そんなふうに言い換えてもいいかもしれない。「意味」をちらつかせながら、「意味」から「意味」へと軽々と飛び回る。
 「意味」に重い、軽いはないかもしれない。ことばにも重い軽いはないかもしれない。けれど、秋亜綺羅のことばは「軽い」という印象と共にある。
 それは、いま引用した部分には「未来」ということばと「未」だ知らないということばの関係--未来とは単に未だ来ないだけではない、未だ知らないものが未来だという問題、過去が既知だとてれば未来は未知であるという問題、あるいは「意味」も含まれているのだが、そういうことを「エイ、ホー」「泳法」という軽さが吹き飛ばしてしまうところにもあらわれている。
 秋亜綺羅はあくまで軽さを選びとるのだ。

 ちょっと脱線したが……。
 「エイ、ホー」から「泳法」への転換。そこに、私は、最初に書いたことがら、秋亜綺羅のことばは基本的に「書きことば」である、ということの証拠のようなものを見る。
 「泳法」というのはむずかしいことばではないが、たぶん、ひとは日常的に、口語としてはつかわない。口語では「泳ぎ方」という。クロールだとか、バタフライだとか、そういう具体的な泳ぎ方が話題になっているときなら「泳法」は耳で聞いてわかるけれど、そうではない場合は、一瞬、何のことかわからないだろう。でも、漢字なら、「書きことば」ならわかる。あ、「泳ぎ」に関することだ、とすぐわかる。
 秋亜綺羅は、たぶん、生まれつき、どのことばの方がわかりやすいか、ということを知っているのだ。そして、そのわかりやすいことばを次々につかみながら、つかみとったあと、「意味」というものを考えはじめているのだ。土台から作り上げて建築物をつくるのではなく、まだそこに存在しないものをつかみとりながら、つかみとったものを次々に土台にしていくのだ。

 秋亜綺羅のことばは「書きことば」だから、どんどん飛躍する。暴走する。そこには漢字だけではなく、カタカナもまぎれこむ。

ただし、自分の手相を忘れて相手の手相しか視なくなったタロちゃんという名まえの友だちは、オナニストでしかない。ぼくの初恋のすずめちゃんチロちゃんは舌を切られて死んだ。きみには、自白する自由がある。千口ちゃん。

 ここには何が書かれているか。「意味」は何も書かれていない。ただ、「書きことば」は「文字」をかりながら、「文字」があることによってはじめて可能な運動をすることができるという、その可能性だけが書かれている。
 その可能性を書いているだけなのである。そして、その可能性を明るみに出すことだけが、詩の仕事なのである。
 「意味」なんていらない。ことばは、「意味」を捨てて、動いていける。「意味」という「書物」を捨てて、「意味」という「故郷」をすてて、「意味」と「故郷」が持たなかったものをつかみ取りながら、むさぼり食いながら、ことばの「街」を肉体化する--それが秋亜綺羅が寺山修司から引き継いだものだ。




ココア共和国 vol.2
秋 亜綺羅,響 まみ
あきは書館

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