又重勝彦「浅川詩篇 柳の木」(「ヴェガ」3、2010年03月30日発行)
又重勝彦「浅川詩篇 柳の木」もまた東北弁(?)で書かれている。安利麻慎のように、学校教科書ことばと向き合い、ことばの奥、ことばの可能性を切り開くという作品とは違うのだが、自分自身のなかへ踏み行っていくという点では共通している。
おれは柳の下さ入(へ)って幹ばなでたよ。
柳の木あったに堅(か)てごと忘れてらったじぇ。
(柳なでて頭治ったことあのだ)
あやあ、いつからそこさ居た。
しゅんなくな、しゅんなくなと柳の幹ばおりてくる、
光りかがやく蛾の幼虫よ。
(まんつ女の中指さ似ているもんだな)
黄緑の絹糸のたば切んなぐったみてな、
お前(め)の艶っこ。
まんつ美(うつぐ)しごと、
秋のお愛子(めご)さんだよ。
(誰か来る話し声したった)
隠れろ、人っこ来るじぇ。
ほら、そこさウロあるべ。中さ入(へ)ってろ。
おれはもは来(こ)ねよ。
(おれも人から隠れるのだ)
ああ、あのときおれは、
人であることを忘れてらったなあ。
あのまま人でなくなってもいがったのにさあ。
自分の中に入ってくる、踏み行っていく--そのことが「人であることを忘れ」ることなのだ。人であることを忘れ、では何になるか。「いのち」というものになる。「自然」というものになる。その自然と、現実の自然、東北の柳、そしてそこにいる一匹の蛾の幼虫と一体になる。
蛾の幼虫。それを私ははっきりと思い出すことができないが、蛾や蝶の幼虫は、蝶に比べると「美しい」とは言えない。そして、その判断(美の判定)は、実は、私がほんとうに感じていることではないかもしれない。蝶は美しい、蛾は蝶ほどは美しくない、そしてその「美」の前の幼虫はもっと美しくない。美しくない幼虫をへて、蝶は美しい姿になる--というようなことを繰り返し繰り返し聞かされて(読んで)、それを自分の感覚と思い込んでいるだけなのかもしれない。それは自分の「肉眼」で感じていることではなく「頭」で「考え」たことなのかもしれない。
ひとは誰でも「頭」で考えてしまう。なんでもかんでも「肉眼」で感じるのは、とても大変である。いちいち感じる前に「頭」で考え、「頭」で自分の感覚をととのえてしまう。封じ込んでしまう。なぜか。その方が都合がいいのだ。蛾の幼虫が美しい? どうして? 蝶に比べても美しいか。何を基準に、蛾の幼虫が美しいなどというのだ。誰か、蛾の幼虫が美しいと言っている人間を知っているか。いったい、そんなことがどの本に書いてあるのか。ね、そんなふうに詰問されたら、答えるのが面倒でしょう? 人と会って語り合い、こころを通わせあうのが面倒になるでしょ? いいや、蛾の幼虫は醜い、汚い、毛虫に刺されたらかぶれるじゃないか--などと、適当に「頭」が知っていることをつないで、自分の「感覚」にしてしまう。そういうことを、私は「頭」で考える、というのだけれど。
でも、これは、結局、自分を隠すことだね。自分の中にある「自然」(肉眼)を他人の「頭」で押し殺してしまうことだね。そういうことが繰り返されると、肉体は反乱する。悲鳴を上げる。そして「頭」に対して抗議する。そして、「頭」が痛くなる。
堅てごと
と又重は書いているが、「頭」が感じる型苦しさは、そういうことだろうと思う。「堅てごと」というのは、肉体に深く根ざした、とてもいいことばだと思う。
そういう苦しさを、又重といっしょに生きている自然・柳が救ってくれた。柳に「頭」があるかどうか、よくわからないが、たぶん、ない。「頭」で自分をととのえるというようなことをしない。そういういのちがある--そのことが、又重を「頭」の苦しさから救ってくれた。
そういうことがあったのだ。
そして、その柳の周りには、又重とは別のいのちも生きている。蛾の幼虫。蛾の幼虫に「頭」があるかどうかも、私にはわからないが、又重は、まあ、そんなことは考えない。ただ「肉眼」で見つめる。そうすると、女の中指に似ている。
うーん。
中指、か。又重は、何を見たんだろう。わからないけれど、又重は、実際に、女の中指を見たことがあるのだ。それを美しいと感じたことがあるのだ。この美しさは、私の「頭」ではたどりつけない。誰かが(文豪の誰かが)女の中指はしなやかで美しいと書いたか。あるいは、古今集の時代に、親指は無骨だが中指は美しいという感性が確立されたか……なんてことは、まったくわからない。ただ、あ、又重はほんとうに肉眼で中指を見たことがあるのだ。それを美しい、かわいい、と感じたことがあるのだ、とわかり、
いやあ、(あやあ、というべきか)、
どきどきする。
「頭」で何かを整理することを忘れてしまう。
女の中指を見たい、と思ってしまうのだ。透明な皮膚、そのなかに肉がある、血があるというような感じがわかる中指。見るだけではなく、触ってみたい、と思ってしまうのだ。ふいに、欲望が私を突き動かすのだ。
黄緑の絹糸のたば切んなぐったみてな、
これもいいなあ。
蛾の幼虫は、蚕の幼虫に似ているだろうか。よくわからないが、又重はきっと蚕を知っている。そして絹を知っている。その艶やかさも。絹糸が束ねられているのも見たことがある。その束が断ち切られている。それのようだ、という。
この比喩には、やはり実感がある。「頭」を捨てて、「肉眼」でつかんだ実感がある。 いいなあ、ほんとうにいいなあ。
ああ、あのときおれは、
人であることを忘れてらったなあ。
あのまま人でなくなってもいがったのにさあ。
あ、私も「人であることを忘れて」、又重の詩を読んでいた。又重が「人であることも忘れて」詩を読んでいた。又重は「人でなくなって」いた。
このとき、「人」というのは、「頭」でつきあえる相手、という意味だけれど。
では、「人」ではないとしたら、又重は何になっていたのか。「人以前のもの」、「いのち」になっていた。まだ「人」に形成される前の「いのち」、「人以外のものになれるいのち」にまでさかのぼっていた。「いのち」の源流にいたのだ。
その、一瞬の、「肉眼」の「肉」そのものとしての、「いのち」の生々しさ。
そこから、又重は「蛾の幼虫」にも「柳」にもなることができた。