詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(127 )

2010-04-12 23:30:48 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「第三の神話」は長い詩である。こういう長い詩は、私は適当にページを跳びながら読む。行を飛ばして、あっちへ行ったり、こっちへ来たり。
 次の部分が、とても好きだ。

さわらのさしみとなすで神々の饗宴となった
深い深い夢はわれわれをみる
われわれは夢をみない
化学はもう物理として説明する方がよい
ポエトリとは何事ぞ
早く物理をやるべきだ

 「さわらのさしみとなす」。この音の動きはとても美しい。「さ行」は、ほんとうは「さ行+し行」だと思うけれ。「さ」わら「さ」しみの頭韻とのあと、さ「し」み、な「す」とつづくと、その響きがとても美しくなる。「し」が「す」に支えられて、「さ行」から飛び出して、というか、ちょっと離れた場所できらきら輝いているように感じる。その印象が、「さ行+し行」という印象に重なる。
 「深い深い夢はわれわれをみる/われわれは夢をみない」の対になっている行は、私をちょっと立ち止まらせる。深い深い夢はわれわれを「夢」みる--ではない、ということが、私を立ち止まらせる。夢は直接、われわれを見る。夢自身の「肉眼」でわれわれを見る。
 あ、そうか、夢にも「肉眼」があるのか、と、はっと驚く。
 「われわれ」のことは知らないが、私は「肉眼」ではな夢を見ない。夢を見るとき、私は眼を閉じているからね。
 でも、夢がわれわれをみるとき、夢は「肉眼」を閉じないのだ。夢はわれわれを夢見たりしないのだ。
 そして、その夢って何? われわれが見た夢?
 何かわからなくなるね。わからなくなるけれど、不思議なことに、何かを納得してしまう。
 そしてすぐに、

化学はもう物理として説明する方がよい

 これは、そうだねえ。そのとおりだねえ。化学反応式なんて、物理だもんねえ。
 納得しながら、「さわらのさしみ」から「物理」まで、このスピードがものすごい。何に納得したのかわからないような、ことばのスピードだ。「意味」ではなく、たぶん、スピードに納得させられているんだなあ、と感じる。
 「ポエトリ」が出てくるのは、まあ、西脇が詩人だからなんだろうなあ。


旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社

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又重勝彦「浅川詩篇 柳の木」

2010-04-12 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
又重勝彦「浅川詩篇 柳の木」(「ヴェガ」3、2010年03月30日発行)

 又重勝彦「浅川詩篇 柳の木」もまた東北弁(?)で書かれている。安利麻慎のように、学校教科書ことばと向き合い、ことばの奥、ことばの可能性を切り開くという作品とは違うのだが、自分自身のなかへ踏み行っていくという点では共通している。

おれは柳の下さ入(へ)って幹ばなでたよ。
柳の木あったに堅(か)てごと忘れてらったじぇ。
(柳なでて頭治ったことあのだ)
あやあ、いつからそこさ居た。
しゅんなくな、しゅんなくなと柳の幹ばおりてくる、
光りかがやく蛾の幼虫よ。
(まんつ女の中指さ似ているもんだな)
黄緑の絹糸のたば切んなぐったみてな、
お前(め)の艶っこ。
まんつ美(うつぐ)しごと、
秋のお愛子(めご)さんだよ。
(誰か来る話し声したった)
隠れろ、人っこ来るじぇ。
ほら、そこさウロあるべ。中さ入(へ)ってろ。
おれはもは来(こ)ねよ。
(おれも人から隠れるのだ)
ああ、あのときおれは、
人であることを忘れてらったなあ。
あのまま人でなくなってもいがったのにさあ。

 自分の中に入ってくる、踏み行っていく--そのことが「人であることを忘れ」ることなのだ。人であることを忘れ、では何になるか。「いのち」というものになる。「自然」というものになる。その自然と、現実の自然、東北の柳、そしてそこにいる一匹の蛾の幼虫と一体になる。
 蛾の幼虫。それを私ははっきりと思い出すことができないが、蛾や蝶の幼虫は、蝶に比べると「美しい」とは言えない。そして、その判断(美の判定)は、実は、私がほんとうに感じていることではないかもしれない。蝶は美しい、蛾は蝶ほどは美しくない、そしてその「美」の前の幼虫はもっと美しくない。美しくない幼虫をへて、蝶は美しい姿になる--というようなことを繰り返し繰り返し聞かされて(読んで)、それを自分の感覚と思い込んでいるだけなのかもしれない。それは自分の「肉眼」で感じていることではなく「頭」で「考え」たことなのかもしれない。
 ひとは誰でも「頭」で考えてしまう。なんでもかんでも「肉眼」で感じるのは、とても大変である。いちいち感じる前に「頭」で考え、「頭」で自分の感覚をととのえてしまう。封じ込んでしまう。なぜか。その方が都合がいいのだ。蛾の幼虫が美しい? どうして? 蝶に比べても美しいか。何を基準に、蛾の幼虫が美しいなどというのだ。誰か、蛾の幼虫が美しいと言っている人間を知っているか。いったい、そんなことがどの本に書いてあるのか。ね、そんなふうに詰問されたら、答えるのが面倒でしょう? 人と会って語り合い、こころを通わせあうのが面倒になるでしょ? いいや、蛾の幼虫は醜い、汚い、毛虫に刺されたらかぶれるじゃないか--などと、適当に「頭」が知っていることをつないで、自分の「感覚」にしてしまう。そういうことを、私は「頭」で考える、というのだけれど。
 でも、これは、結局、自分を隠すことだね。自分の中にある「自然」(肉眼)を他人の「頭」で押し殺してしまうことだね。そういうことが繰り返されると、肉体は反乱する。悲鳴を上げる。そして「頭」に対して抗議する。そして、「頭」が痛くなる。

堅てごと

と又重は書いているが、「頭」が感じる型苦しさは、そういうことだろうと思う。「堅てごと」というのは、肉体に深く根ざした、とてもいいことばだと思う。
 そういう苦しさを、又重といっしょに生きている自然・柳が救ってくれた。柳に「頭」があるかどうか、よくわからないが、たぶん、ない。「頭」で自分をととのえるというようなことをしない。そういういのちがある--そのことが、又重を「頭」の苦しさから救ってくれた。
 そういうことがあったのだ。
 そして、その柳の周りには、又重とは別のいのちも生きている。蛾の幼虫。蛾の幼虫に「頭」があるかどうかも、私にはわからないが、又重は、まあ、そんなことは考えない。ただ「肉眼」で見つめる。そうすると、女の中指に似ている。
 うーん。
 中指、か。又重は、何を見たんだろう。わからないけれど、又重は、実際に、女の中指を見たことがあるのだ。それを美しいと感じたことがあるのだ。この美しさは、私の「頭」ではたどりつけない。誰かが(文豪の誰かが)女の中指はしなやかで美しいと書いたか。あるいは、古今集の時代に、親指は無骨だが中指は美しいという感性が確立されたか……なんてことは、まったくわからない。ただ、あ、又重はほんとうに肉眼で中指を見たことがあるのだ。それを美しい、かわいい、と感じたことがあるのだ、とわかり、
 いやあ、(あやあ、というべきか)、
 どきどきする。
 「頭」で何かを整理することを忘れてしまう。
 女の中指を見たい、と思ってしまうのだ。透明な皮膚、そのなかに肉がある、血があるというような感じがわかる中指。見るだけではなく、触ってみたい、と思ってしまうのだ。ふいに、欲望が私を突き動かすのだ。
 
黄緑の絹糸のたば切んなぐったみてな、

 これもいいなあ。
 蛾の幼虫は、蚕の幼虫に似ているだろうか。よくわからないが、又重はきっと蚕を知っている。そして絹を知っている。その艶やかさも。絹糸が束ねられているのも見たことがある。その束が断ち切られている。それのようだ、という。
 この比喩には、やはり実感がある。「頭」を捨てて、「肉眼」でつかんだ実感がある。 いいなあ、ほんとうにいいなあ。

ああ、あのときおれは、
人であることを忘れてらったなあ。
あのまま人でなくなってもいがったのにさあ。

 あ、私も「人であることを忘れて」、又重の詩を読んでいた。又重が「人であることも忘れて」詩を読んでいた。又重は「人でなくなって」いた。
 このとき、「人」というのは、「頭」でつきあえる相手、という意味だけれど。
 では、「人」ではないとしたら、又重は何になっていたのか。「人以前のもの」、「いのち」になっていた。まだ「人」に形成される前の「いのち」、「人以外のものになれるいのち」にまでさかのぼっていた。「いのち」の源流にいたのだ。
 その、一瞬の、「肉眼」の「肉」そのものとしての、「いのち」の生々しさ。
 そこから、又重は「蛾の幼虫」にも「柳」にもなることができた。



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