西脇の詩は「誤読」を誘う。とても「誤読」したくなる。そして、「誤読」したあと、いや、これは「誤読」ではないかもしれない--とさらに、「誤読」したくなる。よするに、西脇の書いたときの思いとは関係なしに、私の好き勝手に読みたくなる。好き勝手に読んで、ああ、西脇はおもしろい、といいたくなる。
「阿修羅王のために」の後半。
土の落ちかかつた土壁の穴から
庭が曲つて見える
梅と桜と桃が同時に咲いていた
この古い都を出てみると
黒い畑の中に白い光りのこぶしの木が
一本立つている
薬師寺のお祭に
諸国から集まつた数百の高僧にとならんで
管長の新しい説教をきいた
「庭が曲つて見える」。うーん。なぜ、西脇はこんなに「曲がる」が好き? でも、この「曲がつて見える」の「曲が」るって、なんだろう。木の枝が曲がるならわかるが、庭が曲がる? 穴をとおしてだから、光の屈折でゆがんで? 違うね。これは、西脇独特の用語なのだ。まっすぐ(常識)を破壊する形で、ということだ。常識(流通概念)を破壊して存在するものに、西脇は詩を感じている。
「土の落ちかかつた土壁」そのものが、すでに「破壊」に接している。「破壊」にはさびしい美がある。それはやはり、常識から逸脱する(常識を破壊する)ものである。
こういう感覚は、どことなく、伝統的な日本の感性とも通い合う。俳句の美にも通じるものを感じる。
そこで……。
管長の新しい説教をきいた
この「主語」はなんだろう。「われわれ」だろうか。(引用部分にはないが、この詩には「われわれ」ということばがある。)西脇は、知人たちと奈良へ来ている。「薬師寺のお祭」に来ている。だから、「われわれ」が、管長の新しい説教をきいた。そう読むのが常識なのかもしれない。
けれども、私は、瞬間的に「われわれ」ちは違う「主語」を思ってしまった。「こぶしの木」、畑のなかの一本のこぶしの木が、管長の新しい説教をきいた。そう思ってしまった。そして、あ、俳句だ、と思った。
もちろん、こぶしを「きいた」の「主語」にするとき、そのこぶしには「私」が投影されている。「私」はこぶしになって、説教をきいている。そこには、実は、こぶしも、高僧も、私も、区別はない。それが俳句である。
なぜ、そんなふうに感じたのか。
西脇は「破壊」を美として書いているが、その破壊は単なる破壊ではない。それは破壊であると同時に、そこから新しい生成がはじまっている。破壊と生成は同じものである。矛盾したものが、あるものの、一瞬の形のなかに(運動のなかに)存在する。それは俳句の遠心・求心と同じ運動である。
西脇は「西欧」と触れ合って詩を動かしたが、そこには東洋もどっしりと腰を降ろしている。
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