詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(122 )

2010-04-07 11:33:53 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 西脇の詩は「誤読」を誘う。とても「誤読」したくなる。そして、「誤読」したあと、いや、これは「誤読」ではないかもしれない--とさらに、「誤読」したくなる。よするに、西脇の書いたときの思いとは関係なしに、私の好き勝手に読みたくなる。好き勝手に読んで、ああ、西脇はおもしろい、といいたくなる。
 「阿修羅王のために」の後半。

土の落ちかかつた土壁の穴から
庭が曲つて見える
梅と桜と桃が同時に咲いていた
この古い都を出てみると
黒い畑の中に白い光りのこぶしの木が
一本立つている
薬師寺のお祭に
諸国から集まつた数百の高僧にとならんで
管長の新しい説教をきいた

 「庭が曲つて見える」。うーん。なぜ、西脇はこんなに「曲がる」が好き? でも、この「曲がつて見える」の「曲が」るって、なんだろう。木の枝が曲がるならわかるが、庭が曲がる? 穴をとおしてだから、光の屈折でゆがんで? 違うね。これは、西脇独特の用語なのだ。まっすぐ(常識)を破壊する形で、ということだ。常識(流通概念)を破壊して存在するものに、西脇は詩を感じている。
 「土の落ちかかつた土壁」そのものが、すでに「破壊」に接している。「破壊」にはさびしい美がある。それはやはり、常識から逸脱する(常識を破壊する)ものである。

 こういう感覚は、どことなく、伝統的な日本の感性とも通い合う。俳句の美にも通じるものを感じる。
 そこで……。

管長の新しい説教をきいた

 この「主語」はなんだろう。「われわれ」だろうか。(引用部分にはないが、この詩には「われわれ」ということばがある。)西脇は、知人たちと奈良へ来ている。「薬師寺のお祭」に来ている。だから、「われわれ」が、管長の新しい説教をきいた。そう読むのが常識なのかもしれない。
 けれども、私は、瞬間的に「われわれ」ちは違う「主語」を思ってしまった。「こぶしの木」、畑のなかの一本のこぶしの木が、管長の新しい説教をきいた。そう思ってしまった。そして、あ、俳句だ、と思った。
 もちろん、こぶしを「きいた」の「主語」にするとき、そのこぶしには「私」が投影されている。「私」はこぶしになって、説教をきいている。そこには、実は、こぶしも、高僧も、私も、区別はない。それが俳句である。

 なぜ、そんなふうに感じたのか。
 西脇は「破壊」を美として書いているが、その破壊は単なる破壊ではない。それは破壊であると同時に、そこから新しい生成がはじまっている。破壊と生成は同じものである。矛盾したものが、あるものの、一瞬の形のなかに(運動のなかに)存在する。それは俳句の遠心・求心と同じ運動である。

 西脇は「西欧」と触れ合って詩を動かしたが、そこには東洋もどっしりと腰を降ろしている。



西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
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高橋次夫「少し羞じて」

2010-04-07 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
高橋次夫「少し羞じて」(「鮫」121 、2010年03月10日発行)

 高橋次夫「少し羞じて」は灯を消して、ろうそくの炎を見つめる。

暫くは
炎も わたしも 動けないでいる
時間が燃えているせいか 瞬きもできない

すると炎の尖(さき)が かすかに
身じろいだかに見えた
充分に溶けきって 炎も
そのこころを解(ほど)いたのだろうか わたしは
わたしの頬の強ばりを緩める

炎は その表情をすぐに静寂に戻して見詰めてくる
そしてまた ふとその尖を身じろがせるのだ
わたしに語りかけている
目を瞠ってわたしは 炎に応えようとするのだが
わたしのなかに ことばが生まれてこない

 「書きたい」という気持ちはとてもよくわかる。書こうとしていることも、とてもよくわかる。
 「わたしのなかに ことばが生まれてこない」という1行はとても美しい。
 この1行ゆえに、私は、この詩の感想を書きたいと思った。思ったのだけれど、どう書いていいか、とても困ってしまった。
 この1行をのぞくと、私は、この詩が嫌いなのだ。ぞっとする部分がある。「暫くは」とか「かすかに」とか、ことばが安直である。「流通言語」が、そのまま、生のことばででてきている。高橋の「肉体」で濾過されていない。
 詩を「流通する・意味」と定義していいなら、それでもいいけれど、そうすると「わたしのなかに ことばが生まれてこない」という1行のもっている美しさが「意味」におしつぶされてしまう。

 私が「誤読」していて、ほんとうは「わたしのなかに ことばが生まれてこない」には、「意味」があるのかもしれない。

 たぶん「意味」がある。そのまま「流通言語」なのだろう。それは、その連の「炎は その表情をすぐに静寂に戻して見詰めてくる」と同じように、描写に見えて、実は「意味」にすぎないのかもしれない。
 だから、ことばは、困るのだ。
 「流通言語」が突然、詩としてまぎれこんでくることがある。
 「わたしのなかに ことばが生まれてこない」には、とても美しい「美」(重複表現だね、学校教科書作文なら、直しなさい、と言われそう……)があるのだが、そのことに高橋は気がついていない。「意味」しか意識していない。
 次の連を読むと、そのことがよくわかる。

長いあいだ人工の光に漬かっていたためなのだろう
炎に繋がることばは抹殺されて
あの失語症の哀しみが甦る
それでも炎は わたしを宥めるように
ときおり その身じろぎを繰り返すのだった

 「あの失語症の哀しみ」。「ことばが生まれてこない」は「失語症」の状態である。それは「哀しい」。「わたし」が「哀し」んでいるから、炎はわたしを「宥め」ようとする。
 「意味」の連鎖が、ことばをしばりつけている。べったりとした「感情」が粘りついている。
 あ、違うのに、と思ってしまう。
 そういう「流通感情」を引き剥がして、無意味にしてしまってこそ、詩なのである。詩のことばは無意味でなければならないのだ。

わたしのなかに ことばが生まれてこない

 この1行は、「無意味」が「わたし」をつつんだ--という具合に動いていけば、きっと詩になる。「無意味」の輝きに祝福されていることに気がついて、それまでの意味を捨て、無意味として生まれ変わる、というベクトルをもって運動すれば、きっとおもしろい。その「起点」になれる1行である。
 けれど、高橋は、その1行から「流通言語」へもどってしまう。

部屋の周りには
淡い 柔らかな影を
微笑みのようにひろげている
わたしは今 なにを応えなくてもいい
ようやく 自分に囁いてみる

 失語症の哀しみを炎はやさしく宥めてくれる。わたしは何も応えなくてもいい。炎のやさしさをただ受け入れればいい--少し羞じらい抱きながら。
 うーん。「意味」だらけ。
 でもねえ。
 「わたしのなかに ことばが生まれてこない」といいながら、次々にことばが出ているでしょう? ほんとうは、そういうことろに詩の運動があるのだけれど、そのことに高橋は無自覚。だから、「なにを応えなくていい」と「自分に囁く」のだけけど、ほんとうは、逆でしょ?
 「ことばが生まれてこない」。つまり「流通言語」が有効性を失った。そのときから、高橋がことばを動かしているように、ほんとうは、ことばは動きはじめる。そしてそのことばは「流通言語」のタガを失っているから、どこまでも暴走する。「意味」を蹴散らし、暴走し、燃え尽きる。
 そこにしか、詩はないのではないだろうか。 



 こんなふうに詩になっていない作品を、わざわざ感想を書くという形で取り上げなくてもいいのかもしれない。たぶん、取り上げないというのがマナーなのだと思う。けれど、私は、きょうは体調が悪いのか、そういうマナー違反をして、だらーっとしていたい気分だ。
 まあ、「日記」なんだから、こんな日があってもいいかな、と自分に言い聞かせてみる。

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