山路豊子「天空の神社」(「ガニメデ」48、2010年04月01日発行)
山路豊子「天空の神社」のことばは、秋亜綺羅のことばとも野村喜和夫のことばとも違う。ひとが違えばことばが違うのはあたりまえだけれど、その違いを見ていくのは、私にはなかなか楽しい。
国道五一号を塩崎で二四五号へ北上
那珂川を渡って県道六号から市道を行くと
海開橋近くに天満宮がある
さほど大きい神社でもないが
木ぎに守られ 整頓され
低い木の周りは白い石で囲まれている
書いてあることは全部わかるが、私には山路のことばが、一瞬「外国語」に感じられた。
理由のひとつには、そこに書かれていること、国道五一号がどこで二四五号と合流しているかというようなことが、現実の地理としてはわからないという問題がある。登場する川や橋、神社もその姿を知らないという問題がある。つまり、そこに書かれている風景がコンスタンチンノーブルやヨハネスブルクの風景と同じように、私の「肉体」とは馴染みがない、ということがある。
しかし、こういうことなら、誰の書いたことばでも、やはり私には馴染みがないのだから「外国語」になってしまうが、そういう書かれている「対象」とは別の問題がもうひとつある。書かれている「対象」が未知のものであるから「外国語」なのではない。
山路のことばが「外国語」として響いてくるのは、そのことばが「頭」で整理し直されているからである。
秋亜綺羅のことばも、野村喜和夫のことばも、それは「頭」で整理される前に、勝手に動いている。その勝手な動きというのは、勝手そのものに目を向けると、一見「外国語」にみえる。どう動いていくか予測がつかない。動いたあとではじめてその動きがかろうじてわかるだけである。しかも、その「わかる」は確かめようもない「わかる」なのである。山路の書いている国道や川、神社などは、地図や写真で確かめることができるが、秋亜綺羅のことば、野村喜和夫のことばは、何によっても確かめようがなく、ほんとうは「わからない」ものなのに、ことばの動きそのもののなかにあるエネルギーのたしかさによって納得してしまう。納得させられてしまう。ことばの「肉体」に、抱き留められ、納得させられる。ことばはこんなふうに動いていける--その可能性に納得させられる。
山路のことばは違うのだ。勝手に動いていったりはしない。あくまで、「頭」できちんと整理し直した順序、たとえば、ここでは車で走る道順という順序にしたがって整理されて動いていく。「整頓」ということばが出てくるが、山路のことばは、「頭」できちんと整頓されている。
別な言い方をしよう。
山路のことばは車の動きにあわせて動いていっている。「天満宮がある」「囲まれている」ということばをみるとわかるが、それは、いわゆる「現在形」である。「天満宮があった」「囲まれていた」というふうに「体験」を過去形として書いているのではなく、体験の時間の進行にあわせていっしょに動いていっている。
そうなのだけれど、これは「過去形」である。
山路は車を走らせながらことばを書いているわけではない。車を走らせ、走ったあと、その体験を「現在形」の形で反復している。それはみせかけの「現在形」であり、もし、ほんとうに「現在」というものがそこにあるとしたら、反復する「頭」が現在なのである。山路は「体験」した「過去」を整理・整頓し、必要なことがらだけを取り出して書いている。
そのため、そのことばは、とても理路整然としている。無駄がない。
一方、秋亜綺羅や野村喜和夫はそういう書き方をしない。「体験」したことを「頭」で整理し直して、ことばにするのではない。
ことばそのもので「体験」していくのだ。ことばが現実を体験するのだ。そのことばの現実を、秋亜綺羅、野村喜和夫は追いかけていく。ことばが「肉体」をもって動いていくのにまかせ、それにただついていく。秋亜綺羅も野村喜和夫も「頭」を動かしてはいないのだ。「頭」でことばを制御していない。
だから無軌道である。行き当たりばったりである。
行き当たりばったりと書くと否定的な意味合いが強くなるかもしれないけれど、よく考えると行き当たりばったりほどすごいことはない。まあ、行き当たりばったりに自分でどこかへ歩いていくことを想像してみるといい。目的がないと、ひとはそんなに長い間歩けない。歩くのが面倒になって、あ、もう帰ってしまおう、と思ってしまう。でも、秋亜綺羅や野村喜和夫は、ことばを動かすことに対して「面倒」という気持ちが起きないのだ。どこまでもどこまでも、読者が面倒くさくてついていくのをやめるその先の先までもどんどん動いていくのだ。ことばのエネルギーだけを利用して。そこには「結論」は永遠にないのだ。そこにあるのは「永遠」の運動だけである。行き当たりばったりは、そういうすごさをもっている。
では、「頭」で整理・整頓された山路のことばは、つまらないか。
あ、「頭」で整理・整頓されたままではつまらない、と私は思う。
でもね、人間というのは不思議なもので、どうしても「頭」で整理・整頓したままの状態でいつづけることはできないのだ。どこかで息抜き(?)というか、寄り道というか、ほんとうの道(目的地へ一直線につづく最短距離の道)をそれてしまう。そういうことをしないと生きていけない。
その瞬間に、ふっと、「そのひと」があらわれる。そういうことが起きるのでおもしろい。
山路は天満宮で「うろうろ」し(ほら、ここで「頭」が少しタガをゆるめているね)、神主に出会い、狛犬を見せてもらう。
そこから山路のことばはちょっと違った動きをする。
瞬間 私は絶滅した恐竜を思った
軌道が地球に近い小惑星は六千個あり
恐竜を絶滅させたのは直径十キロ級
一億年に一度と高橋典嗣氏
(日本スペースガード協会の理事長)は言う
絶滅した恐竜たちの骨格の欠片は
掘り起こされて話題を振り撒いているが
衝突瞬間時のものもあろう
粉ごなになった恐竜たちは
天空を彷徨しているか消えたか
無限の宇宙に神社仏閣教会があって
誰か光や星や祈りを捧げているか
恐竜を私の脳裏に招いた狛犬一対は
再び古布に包まれてそっと木箱に
次に風に或いは人と目を合わせるのはいつか
狛犬という現実から恐竜への飛躍。その思いがけないさ、「頭」で抑制できない飛躍のなかに山路があらわれる。(その飛躍だけをもっと追いかけていけば、「現代詩」になる。だれそれの、とは書かないけれど……。)
まあ、そのときも、山路のことばは、地図のようにきちんと整理されたことばを手がかりに動いていく。高橋典嗣の学説(?)にしたがって、という意味では、ここでもまだまだ「頭」はことばを制御している。そこに書かれていることばは「頭」で整理・整頓されたことばである。
この高橋のことば(学説)の引用が象徴的なのだが、山路はいつでも確立されたことばを引用しているとも言えるのだ。「頭」で書くというのは、多くの人によって共有された「事実」を書くということなのだ。国道五一号、二四五号、那珂川、天満宮--それらは「他者」によって共有された「ことば」である。「流通言語」である。
そして、そういう「流通言語」にも、実は「空想」というか、現実の肉体では確かめられないものがある。たとえば高橋の説はあくまで仮説であって、それを実際に見たひとはいない。
そういうものに山路の「頭」が触れ、そのときに山路の「頭」もふっきれたように解放される。
ここから、ほんとうにおもしろくなる。
山路は、恐竜の粉々の骨、宇宙に飛び散る骨を夢見る。地球の重力があるから、粉々の骨は宇宙には飛び散らない--などと、意地悪を言っても、まあ、何もはじまらない。というか、そういう意地悪をいいたくなるほど、おもしろくなる。ことばが「頭」を離れて自分自身で動いていくのがわかる。
そして、最後の3行、いや最後の1行がある。
次に風に或いは人と目を合わせるのはいつか
ここでは「頭」は働いていない。「頭」は完全にどこかへ後退してしまっている。
--と、ここまで書いて、やっと、私は私が書きたいことがわかった。
山路は「頭」で整理・整頓されたことばを書きつづけるが、それは、そのことばを完全にどこかへ後退させるためなのだ。
秋亜綺羅は「うそ」という「過去」を書く。野村喜和夫は「虚構」という「過去」を書く。山路は「事実(真実)」という「過去」を書く。「事実(真実)」であるから、それは「過去」であっても「現在形」で書いてかまわない。(これは日本語にも、英語にも言えるね。)「天満宮はあった」ではなく「天満宮はある」。それは「過去」も「いま」も「将来」もかわらない。
そういう「事実」としての「過去」を完全に確立して、それが読者に共有されるのを待って、最後に一回、山路は「うそ」をつく。ことばが「事実」を離れて、勝手に動いていくのを認める。
この瞬間の、解放感、一種のよろこび、エクスタシーのために、山路はそれまで延々と(?)、正しい「過去」を「頭」で整理・整頓しつづけるのである。
このエクスタシーの瞬間、山路のことばは「外国語」ではなくなる。ほら、エクスタシーの瞬間、それが「何語」であるかわからず、相手がぶっとんでしまったことがわからない人間っていないでしょ? エクスタシーには「外国語」はない。そこにあるのは「頭」ではなく、「肉体」だからである。「肉体」に「外国からだ」というものはないからねえ。