松岡政則「伊達邵(イータオサー)」(「交野が原」68、2010年04月10日発行)
松岡政則「伊達邵」は台湾旅行の詩である。「ここらの草木は勢いあまってわれを忘れ、/いまにも動きだしてきそうだ。」という魅力的な行がある。あ、その草木を見に行きたい、と思わず思った。私は台湾の風景はホウシャオシェンの映画でしか知らない。彼の映画の草木は、日本の緑よりもおとなしく、遠近感の中におさまっている。それはきっと台湾に暮らしているからそう見えるのであって、日本人が見れば「勢いあまってわれを忘れて」というように見えると思うと、それだけでわくわくする。
以前私は松岡の詩について触れて「肉耳」だったか「肉喉」だったか、ようするに耳と発声器官(聴覚)の生々しさについて書いたことがあるが、松岡は目も強靱だ。それは、いまさっき書いた「草木」の描写にもあらわれているが、これから書くのは、それとは少し違った目の力。
「台湾は眼の休まるときがない。」と松岡は書いているが、これに圧倒された。松岡の眼は、まるで台湾の草木である。勢いあまって、われを忘れている--としか、私には思えない。
私は目が悪いので、すぐ、目を休めてしまう。そこにあるものも、あるけれど見ないものにしてしまう。けれど、松岡はそういうことはしない。むさぼるように読んでいる。いや、「読んでいる」というのは正確ではない。「読む」というとき、そこには「音」が侵入してくる。声に出さなくても、喉は動く。耳も動く。ところが、松岡は、その喉と耳は休ませて、ただ眼だけを働かせて、文字を網膜に焼き付けている。脳内に焼き付けている。
「字づらを歩きだけでどくどくする。」の「どくどくする」ものが何のか、松岡は書いていない。きっと「眼」がどくどくするのだ。目が鼓動を打つ。動悸を打つ。目が心臓になって、松岡の肉体全部を支配する。目以外は休んでいなさい、と目が命令しているのかもしれない。
これは、すごい。
で、そのはてに、(あげくに?)、
耳なんてどうでもいい、喉なんてどうでもいい、脳(頭)だってどうでもいい、わからないまま、「字」を直接つかんでしまう。そして、間違っていたって、それでかまわない、というのだ。「字」が松岡をたぶらかすなら、たぶらかされたままでいい。そのままにしておく。
そのままにしておいて、たぶらかされたことを利用して、松岡は、「字」の向こうにあるもの、「字」を超越して存在する「台湾」そのものをつかみ取るのだ。自分のものにするのだ。自分の「肉体」にする。
松岡は食べ物を食べるだけではなく、そのとき「字」も食べているのだ。「字」も「はらわた」のなかに入れている。そして、
この行のなかの「なりたかった」の「なる」--ということろまで行ってしまう。単に食べるのではない。はらわたに入れるのではない。入れることで、自分ではなくなり、伊達邵に「なる」。
そのために、「字」をそのまま、肉眼にしてしまう。
「ルビはふらない」。なぜか。ルビをふれば、耳も喉も「日本」の耳、日本の喉になってしまう。
私は詩を引用するときに「台湾」と簡略した漢字(日本の字)をつかったが、松岡はそんなことはしない。目はそのまま伊達邵に「なって」、そのままの「字」として網膜に焼き付けるのだ。
耳や喉は日本をひきずっているが、目は国境を超える。日本をひきずらずに、直接、伊達邵に触れる。そして、伊達邵に「なる」。強靱な目だ。ほんとうに「肉眼」だ。「肉眼」ということばは、すでに日本でも誰もがつかっているので、ほんとうは違ったことばで言い表せればいいのだろうけれど……。「肉=眼」とわざとイコールをいれてみるべきか、それとも「肉」の下に「眼」をくっつけて「一文字」の漢字をつくってしまうべきか……。
これは、すごいなあ、と思うのだ。
松岡の視力はすごいなあ、と思うのだ。
その視力の果てに、松岡は、次の世界まで突き進んでしまう。「字」をそのまま「肉=眼」に焼き付け、その眼が打ち出す動悸にしたがって動く松岡は、もういままでの(日本にいた)松岡ではなくなる。
松岡は、ここでも「来」を正字で書いている。伊達邵で流通している字で書いているのだが、その文字がワープロでは書けないので、私は「日本の目」で見た文字で書き写している。(申し訳ないが。)
トイレの使用料をはらうときは「日本人」かもしれないが、いったん、トイレから出てしまうと、もう「日本人としての松岡」ではなく、伊達邵の人間である。
「不来不来」には「プーライプーライ」とルビがふってあるが、それは「字」が「肉=眼」から入って体全体にまわり、いま、耳も喉も伊達邵になっているからである。「日本」の耳、喉ではないのだ。
この「共感力」のようなものが、とてもおもしろい。それが「頭」で積み上げた「共感力」、あるいは「感情(精神?)」を出発点にした「共感力」ではなく、「肉=眼」から出発した「共感力」であることろに、松岡の肉体の「正直」を感じた。
松岡政則「伊達邵」は台湾旅行の詩である。「ここらの草木は勢いあまってわれを忘れ、/いまにも動きだしてきそうだ。」という魅力的な行がある。あ、その草木を見に行きたい、と思わず思った。私は台湾の風景はホウシャオシェンの映画でしか知らない。彼の映画の草木は、日本の緑よりもおとなしく、遠近感の中におさまっている。それはきっと台湾に暮らしているからそう見えるのであって、日本人が見れば「勢いあまってわれを忘れて」というように見えると思うと、それだけでわくわくする。
以前私は松岡の詩について触れて「肉耳」だったか「肉喉」だったか、ようするに耳と発声器官(聴覚)の生々しさについて書いたことがあるが、松岡は目も強靱だ。それは、いまさっき書いた「草木」の描写にもあらわれているが、これから書くのは、それとは少し違った目の力。
朝食つきの安宿をとり、
にぎやかな露天を覘いてまわる。
「山豬肉 三串一〇〇元」
「楊桃 七個五〇元」
「現● 樟脳油」
「田哥 檳榔」
台湾は眼の休まるときがない。
字づらを歩きだけでどくどくする。
(ルビはふらないでおこう。
(たぶらかされたままにしておこう。
(谷内注 現●の●は搾の手ヘンが木ヘン。台湾のわんは正字)
「台湾は眼の休まるときがない。」と松岡は書いているが、これに圧倒された。松岡の眼は、まるで台湾の草木である。勢いあまって、われを忘れている--としか、私には思えない。
私は目が悪いので、すぐ、目を休めてしまう。そこにあるものも、あるけれど見ないものにしてしまう。けれど、松岡はそういうことはしない。むさぼるように読んでいる。いや、「読んでいる」というのは正確ではない。「読む」というとき、そこには「音」が侵入してくる。声に出さなくても、喉は動く。耳も動く。ところが、松岡は、その喉と耳は休ませて、ただ眼だけを働かせて、文字を網膜に焼き付けている。脳内に焼き付けている。
「字づらを歩きだけでどくどくする。」の「どくどくする」ものが何のか、松岡は書いていない。きっと「眼」がどくどくするのだ。目が鼓動を打つ。動悸を打つ。目が心臓になって、松岡の肉体全部を支配する。目以外は休んでいなさい、と目が命令しているのかもしれない。
これは、すごい。
で、そのはてに、(あげくに?)、
(ルビはふらないでおこう。
(たぶらかされたままにしておこう。
耳なんてどうでもいい、喉なんてどうでもいい、脳(頭)だってどうでもいい、わからないまま、「字」を直接つかんでしまう。そして、間違っていたって、それでかまわない、というのだ。「字」が松岡をたぶらかすなら、たぶらかされたままでいい。そのままにしておく。
そのままにしておいて、たぶらかされたことを利用して、松岡は、「字」の向こうにあるもの、「字」を超越して存在する「台湾」そのものをつかみ取るのだ。自分のものにするのだ。自分の「肉体」にする。
臭豆腐の揚げたのをたべ、
生煎包(サンチイパオ)をたべ、
パイナップルの葉で包んだぶた肉入りの栗餅をたべた。
地景ごとくらって、くらって、
はらわたまで伊達邵になりたかった。
松岡は食べ物を食べるだけではなく、そのとき「字」も食べているのだ。「字」も「はらわた」のなかに入れている。そして、
はらわたまで伊達邵になりたかった。
この行のなかの「なりたかった」の「なる」--ということろまで行ってしまう。単に食べるのではない。はらわたに入れるのではない。入れることで、自分ではなくなり、伊達邵に「なる」。
そのために、「字」をそのまま、肉眼にしてしまう。
「ルビはふらない」。なぜか。ルビをふれば、耳も喉も「日本」の耳、日本の喉になってしまう。
私は詩を引用するときに「台湾」と簡略した漢字(日本の字)をつかったが、松岡はそんなことはしない。目はそのまま伊達邵に「なって」、そのままの「字」として網膜に焼き付けるのだ。
耳や喉は日本をひきずっているが、目は国境を超える。日本をひきずらずに、直接、伊達邵に触れる。そして、伊達邵に「なる」。強靱な目だ。ほんとうに「肉眼」だ。「肉眼」ということばは、すでに日本でも誰もがつかっているので、ほんとうは違ったことばで言い表せればいいのだろうけれど……。「肉=眼」とわざとイコールをいれてみるべきか、それとも「肉」の下に「眼」をくっつけて「一文字」の漢字をつくってしまうべきか……。
これは、すごいなあ、と思うのだ。
松岡の視力はすごいなあ、と思うのだ。
その視力の果てに、松岡は、次の世界まで突き進んでしまう。「字」をそのまま「肉=眼」に焼き付け、その眼が打ち出す動悸にしたがって動く松岡は、もういままでの(日本にいた)松岡ではなくなる。
「清潔料一〇元」をはらわされ、
小便をすませておもてに出たところにだ。
日本のおんなみたいのなが、
しんこくぶんた面倒くさそうなのが、
みずうみのほうからこっちに向かって来る。
(不来不来(プウライプウライ)。
(わたしにはいやなところがある。
松岡は、ここでも「来」を正字で書いている。伊達邵で流通している字で書いているのだが、その文字がワープロでは書けないので、私は「日本の目」で見た文字で書き写している。(申し訳ないが。)
トイレの使用料をはらうときは「日本人」かもしれないが、いったん、トイレから出てしまうと、もう「日本人としての松岡」ではなく、伊達邵の人間である。
「不来不来」には「プーライプーライ」とルビがふってあるが、それは「字」が「肉=眼」から入って体全体にまわり、いま、耳も喉も伊達邵になっているからである。「日本」の耳、喉ではないのだ。
この「共感力」のようなものが、とてもおもしろい。それが「頭」で積み上げた「共感力」、あるいは「感情(精神?)」を出発点にした「共感力」ではなく、「肉=眼」から出発した「共感力」であることろに、松岡の肉体の「正直」を感じた。
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