詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(123 )

2010-04-08 23:42:13 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 西脇のことばは、どこで区切っていいかわからない。句読点がわからないときがある。「蘭」という作品。

矢車草をくわえた男が立つていた
永遠は時間の一点に
集まつてその一点に消える
永遠という女は思わず
身体を弓のようにまげる
永遠は悲しみとよろこびの間
をはてしなく行く
青みのかかつた茄子と
赤い唐辛のマネの絵
のついてピカソ焼きの
コップでコーヒーを飲んだ

 「永遠という女は思わず」は一般的(?)には「永遠という女は/思わず身体を弓のようにまげる」と書くところを、わざと行かえの位置をずらしたものなのか、あるいは、私は(あるいは男は)「永遠という女」のこと「は」「思わず」、自分の「身体を弓のようにまげる」のか。
 たぶん、前者なのだが、私は毎回毎回、後者のように読んでしまう。
 「永遠は時間の一点に/集まつてその一点に消える」という対になった2行が思念的というか、思考なので、それについて「思う」(肯定)一方、女のことは「思わず」(否定)と対にして読んでしまうのである。
 そして、その瞬間から、ことば(私のなかのことば)がぎくしゃくする。
 何か変なリズムになる。
 この変なリズムが、「をはてしなく」「のついた」という、「助詞」が冒頭に来る行のリズムで叩かれる。そして、叩かれて、永遠という女(のこと)は思わず、と読んでいた部分が、永遠という女は/思わず身体を弓のようにまげる、というふうにととのえられていく。
 これは不思議な体験である。
 ことばは、最初から「意味」(論理)をもって動いているのではなく、動いていく過程で、互いにことばを鍛え直しているという感じがする。そして、その「鍛え直し」のようなものこそ、詩だと感じるのだ。
 ある特別な思考(感覚)を表現するのではなく、ことばが動いて、ことば自身を鍛えることで、いままでとは違ったところまで動いていく--そういうことが詩なのだと感じるのだ。

太陽をよけるために
黄色い蘭を買つて
それで二人は口をかくして
永遠の微笑を見えなくした

 変だねえ。「太陽をよけるため」といいながら、口を隠すことが太陽をよけることになる? 何かが違う。何かが「流通言語」の「意味」とは違う。それがどう違うのか、つきつめるのはむずかしい。そして、そんなことをつきつめるよりも、蘭で口を隠し「永遠の微笑を見えなくした」ということばに、逆に、「永遠の微笑」、そしてその「口元」を見てしまう。感じてしまう。
 隠すことが見せること--というのは矛盾だけれど、そういう矛盾のなかで鍛えられ、育ってくるものを感じてしまう。
 そこに、やはり詩を感じるのだ。




西脇順三郎コレクション〈第4巻〉評論集1―超現実主義詩論 シュルレアリスム文学論 輪のある世界 純粋な鴬
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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相生葉留実『舟にのる』(1)

2010-04-08 00:00:00 | 詩集
相生葉留実『舟にのる』(1)(ワニ・プロダクション、2010年03月23日発行)

 相生葉留実の詩は不思議だ。登場人物(?)といえばいいのだろうか、そこに書かれているひとが動くと、そのひとが「そのひと」ではなくなる。「そのひと」を超えてといえばいいのか、いや逆に「そのひと」をさかのぼってといえばいいのか、「いのち」になってしまう。その「そのひと」を超える部分に、まったく無理がない。いつ、どうやって、超えたのか(さかのぼったのか)わからない。
 「受胎期」の全行。

夕暮れに
母は野良着のまま
裸馬にまたがると
馬を走らせた

田圃が途切れると
そこはもう海

松林の間に建つ丸木小屋の方へ歩いていく母
戸の前で馬を繋ぐと
母は小屋の中へ入っていった
藁が積まれてあって
匂いのいいベッドになっている

母が木の扉を後ろ手に閉めると
小屋の隅から
黒っぽい異様なものが動き出し
野良着の母を押したおした

丸太小屋へ
縞状に差し込む太陽が
野良で汚れた母の蹠と
異様なものの蹠を照らしだした

私は
そのとき
小屋の中で舞っている藁のほこりよりも
もっとこまかく光りながら
母の内部へと
桃色の洞窟の中を
海でうまれたばかりの
魚の形で泳いでいった
一滴の光りとなりながら

 これは、「私(相生)」が「いのち」になった瞬間を描いたものである。たぶん、母から聞いた話なのだろう。どんなふうにして相生が生まれたのか、どんなふうにして母は相生を産んだのか、それを母は語り、相生は聞いた。そして、その聞いたことを書き留めた。
 それだけなら(というと、変かもしれないが)、まあ、よく聞く話かもしれない。野良仕事を終えた女が待ち合わせの小屋へ駆けつける。男が待っている。セックスをする。そうやって、ふたりの子供が産まれる。特別、変わったことが書かれているわけではない。
 が、この詩は、とても変わっている。

 最終連。「私」と書かれているのは「精子」である。「精子」が「私」と名乗って、こでは「精子」の運動を報告している。
 「精子」は、「男」の側の運動である。つまり、「母」の報告ではありえない。「母」の内部に存在するのは「卵子」であり、それは「精子」を待っているのであって、動いていったわけではない。「母」から聞いた話だけでは、こういうことばの運動はありえない。「母」から聞いた話だけで「物語」をつくろうとすれば、「私」は「卵子」であり、「母の内部」「桃色の洞窟の中」に隠れていたのに、「異様なもの」が乱入してきた、「異様なもの」に攻撃された、ということになるだろう。
 「母」から聞いた話が基本にあるのだが、この部分には、それ以上のものが加わっている。別の視点が加わっている。
 ふつう、こんなふうに別の視点が加わると、ことばのエネルギーに乱れが生まれ、とても奇妙な運動になってしまうのだが、相生のことばの運動には、そういう乱れはない。ゆるぎがない。
 これは、相生の「思想」が人間を「女」「男」という二分化のかたちではとらえていないからだろう。もちろん人間には「女」と「男」がいる。そして、そうだからこそセックスがあるのだが、セックスの瞬間においては「女」「男」は存在しない。その区別は仮のもの、形式にすぎない。「いのち」と「いのち」が出会っているだけなのだ。相生は「人間」を「いのち」にまで還元して(あるいは昇華して)、その次元でセックスをとらえている。
 「いのち」と「いのち」の出会いであるから、そこでは「私」は自在にどちらの側にでも立ちうる。というか、区別がない。「母」から聞いた話が基本にあったとしても、「私」は「卵子」である必要はない。「精子」であってもかまわない。なぜなら、「いのち」の誕生は、「卵子」と「精子」が出会うことが絶対条件であるからだ。そして、「卵子」と「精子」は出会わないかぎり「いのち」にはなりえないのだから、もし、出会わなかったら、それは「卵子」でも「精子」でもない。日々死んでいく人間の組織の「ひとつ」にすぎない。垢になってはなれていく皮膚かもしれない。抜け落ちる髪かもしれない。汗かもしれないし、尿かもしれない。糞かもしれない。
 「卵子」「精子」「いのち」は、いわば「三位一体」なのだ。それぞれは、別個には存在しない。「三位一体」であるからこそ、「私」は「卵子」にも「精子」にもなる。そうい「思想」なのかで、相生のことばは動いている。

 相生のことばは「三位一体」が基本である。いわゆる「私」というものは、そこには存在しない。単独で「私」が存在するのではない。「私」は常に誰かと出会い、その出会いの中で「私」ではなくなる。つまり、「私」を超越してしまう。(あるいは、「私」の根源に還ってしまう。)「他者」と一体となり、一体となることで「私」ではなく、世界そのものがかわる--そういう「場」で、相生のことばは動いている。

夕暮れに
母は野良着のまま
裸馬にまたがると
馬を走らせた

 このとき、「母」は「母」であるだけではなく、「馬」でもあるのだ。「馬を走らせた」と書いてはいるが、ほんとうは、「母」は「馬」になって走っている。脇目もふらず、懸命に走る馬になっている。「馬」を追い越して、「馬」よりも先に走っている。それを「馬」が追いかけている。「裸馬」にまたがったとき、母は「野良着」を着ていても、気持ちはもう「裸」である。「馬」よりももっと裸になっている。裸になってしまっているからこそ「野良着を着て」と書く。裸が先に行ってしまうので(ちょうど、馬よりも先に母が走ってしまうように)、あわてて「野良着」がそれを追いかけているのである。そういう、「こころ」と「もの(他者)」が混じり合って、「一体」となった状態で、ことばは動いている。
 すべてはそうなのだ。「母」は田圃であり、海であり、小屋であり、藁であり、匂いのいいベッドである。そのどれひとつが欠けても「母」は「母」ではありえない。「三位一体」どころか、相生のことばは「多位一体」なのである。
 そして、こういうことを可能にしているのは「出会い」の感覚なのだ。「出会い」というのは、「私」と「他者」がいて可能なことだ。相生は、その「出会い」を「いのち」のはじまり、「受胎」の瞬間にまでさかのぼって把握しているのだが、そういう「自己」の超え方が、とても「自然」だ。「流行思想用語(流通思想用語)」などとは無縁の、相生自身の「肉体」を動かすことで、「自己」を超える。そのために、それが「自然」のままの、美しさをもっているのだ。


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