監督 シドニー・ルメット 出演 ヘンリー・フォンダ、リー・J・コッブ、エド・ベグリー、E・G・マーシャル、ジャック・ウォーデン
「午前十時の映画祭」11本目。
頭のなかで、私は何度かこの映画を繰り返したのだろうか。私の頭のなかにあって、この映画には実際には存在しないシーンが(映像)が三つもあった。
(1)殺人事件の現場近くを走る電車。そして、その電車の向こう、窓越しに一瞬浮かび上がる殺人事件の瞬間。
(2)老人がやっとドアにたどりつき、ドアを開けた瞬間、階段をおりてゆく殺人者の影。
(3)殺人事件を目撃した老婆が実は近眼だった。法廷で、「これが識別できるか」と質問されて、答えにつまる。
この三つのなかには、他の「法廷劇」のシーンが紛れ込んでいるのかもしれない。
「12人の怒れる男」は、陪審員が一室にとじこもり評議する「室内劇」だから、そういうシーンはありえないといえばありえないのだが、フラッシュバックの形で三つのシーンがあると思い込んでいた。
これは、この映画の脚本がとてもすばらしい、ということの証明になると思う。
「12人の怒れる男」は台詞劇である。舞台は評議する狭い一室にかぎられている。そこではことばだけで、事件が再現される。事件が検証される。
事件を検証していくことばが「正確」であるとき、観客である私たちは(私は)、そのことばが描写している「映像」をことばの向こうに見てしまう。そういう「映像」をくっきりと浮かび上がらせることばで、この脚本は書かれているのだ。そして、役者たちは、自分の存在よりも前に、その「ことば」をくっきりとスクリーンに定着させているのだ。「ことば」のために演技をしているのだ。そういう演技をひきだす脚本になっているのだ。
私が見たと思い込んだ三つのシーン。それは、その映像が含まれる映画を見たときに、無意識に「12人の怒れる男」を思い出していたということかもしれない。だから、そのそんなふうに、無意識に古い映画を思い起こさせるほど、ことばの骨格のがっしりした、強靱な映画なのだ。この「12人の怒れる男」は。(よくよく、三つのシーンを思い返すと、電車はなぜかカラーである。「12人の怒れる男」はモノクロだから、そこにカラーの電車が入り込むはずがないのだが、私は、そういうシーンがあると思い込んでいた。)
そして、思うのだが、裁判というのは、たしかに「ことば」でおこなうものなのだ。どんな物的証拠(この映画では特殊な形のナイフ)さえも、それが「ことば」として「事件」のなかに正確に定着しないかぎり「証拠」にはならない。
判決が常に膨大な「ことば」で事件を描写し、その背景を説明するのは、「ことば」こそが人間の考えと事実を結びつけるものだという思想によるものだろう。
これは逆の方向からみると、「ことば」はいつでも「偏見・先入観」に支配されていて、「偏見・先入観」が「事件」をでっちあげてしまうということかもしれない。この映画では「スラム街」に対する「偏見・先入観」が描かれている。「移民」に対する「偏見・先入観」も出てくる。また、「家族」に対する個人的な事情が「先入観」になってしまうこともある、と指摘されている。
だから、この映画は、「事件」を裁く、というよりも、12人の男たちが、自分自身のもっている「偏見・先入観」を少しずつ捨て去って、「ことば」を美しい形を発見する映画かもしれない。「ことば」は「事実」と結びついたとき「真実」にかわるのだ。「真実」はいつでも「ことば」のなかに存在するのだ。「ことば」のなかに存在できなければ、それは「真実」ではないのだ。
そのことに気がついた瞬間、ラストシーンがとても美しくなる。
少年に「無罪」の評決を下したあと、12人の男は街へと帰っていく。誰が誰であるか、互いに知らない--というのが陪審員の姿なのかもしれないが、この映画では、ヘンリー・フォンダと老人が名前を語り合う。告げあう。「名前」とは「個人」につけられた「ことば」である。名前を告げあう、というのは、そこにいる「個人」を「真実」の体現者として認め合うということなのだ。尊敬し合うということなのだ。
二人は、評議のなかで「ことば」をやりとりして、そして、互いの「ことば」が「真実」になるという瞬間を体験した。そのよろこびを共有する形で、互いに名乗りあうのだが、これはいいなあ。ほんとうに美しい。
この美しさはプラトンの対話篇そのものだ。
「午前十時の映画祭」11本目。
頭のなかで、私は何度かこの映画を繰り返したのだろうか。私の頭のなかにあって、この映画には実際には存在しないシーンが(映像)が三つもあった。
(1)殺人事件の現場近くを走る電車。そして、その電車の向こう、窓越しに一瞬浮かび上がる殺人事件の瞬間。
(2)老人がやっとドアにたどりつき、ドアを開けた瞬間、階段をおりてゆく殺人者の影。
(3)殺人事件を目撃した老婆が実は近眼だった。法廷で、「これが識別できるか」と質問されて、答えにつまる。
この三つのなかには、他の「法廷劇」のシーンが紛れ込んでいるのかもしれない。
「12人の怒れる男」は、陪審員が一室にとじこもり評議する「室内劇」だから、そういうシーンはありえないといえばありえないのだが、フラッシュバックの形で三つのシーンがあると思い込んでいた。
これは、この映画の脚本がとてもすばらしい、ということの証明になると思う。
「12人の怒れる男」は台詞劇である。舞台は評議する狭い一室にかぎられている。そこではことばだけで、事件が再現される。事件が検証される。
事件を検証していくことばが「正確」であるとき、観客である私たちは(私は)、そのことばが描写している「映像」をことばの向こうに見てしまう。そういう「映像」をくっきりと浮かび上がらせることばで、この脚本は書かれているのだ。そして、役者たちは、自分の存在よりも前に、その「ことば」をくっきりとスクリーンに定着させているのだ。「ことば」のために演技をしているのだ。そういう演技をひきだす脚本になっているのだ。
私が見たと思い込んだ三つのシーン。それは、その映像が含まれる映画を見たときに、無意識に「12人の怒れる男」を思い出していたということかもしれない。だから、そのそんなふうに、無意識に古い映画を思い起こさせるほど、ことばの骨格のがっしりした、強靱な映画なのだ。この「12人の怒れる男」は。(よくよく、三つのシーンを思い返すと、電車はなぜかカラーである。「12人の怒れる男」はモノクロだから、そこにカラーの電車が入り込むはずがないのだが、私は、そういうシーンがあると思い込んでいた。)
そして、思うのだが、裁判というのは、たしかに「ことば」でおこなうものなのだ。どんな物的証拠(この映画では特殊な形のナイフ)さえも、それが「ことば」として「事件」のなかに正確に定着しないかぎり「証拠」にはならない。
判決が常に膨大な「ことば」で事件を描写し、その背景を説明するのは、「ことば」こそが人間の考えと事実を結びつけるものだという思想によるものだろう。
これは逆の方向からみると、「ことば」はいつでも「偏見・先入観」に支配されていて、「偏見・先入観」が「事件」をでっちあげてしまうということかもしれない。この映画では「スラム街」に対する「偏見・先入観」が描かれている。「移民」に対する「偏見・先入観」も出てくる。また、「家族」に対する個人的な事情が「先入観」になってしまうこともある、と指摘されている。
だから、この映画は、「事件」を裁く、というよりも、12人の男たちが、自分自身のもっている「偏見・先入観」を少しずつ捨て去って、「ことば」を美しい形を発見する映画かもしれない。「ことば」は「事実」と結びついたとき「真実」にかわるのだ。「真実」はいつでも「ことば」のなかに存在するのだ。「ことば」のなかに存在できなければ、それは「真実」ではないのだ。
そのことに気がついた瞬間、ラストシーンがとても美しくなる。
少年に「無罪」の評決を下したあと、12人の男は街へと帰っていく。誰が誰であるか、互いに知らない--というのが陪審員の姿なのかもしれないが、この映画では、ヘンリー・フォンダと老人が名前を語り合う。告げあう。「名前」とは「個人」につけられた「ことば」である。名前を告げあう、というのは、そこにいる「個人」を「真実」の体現者として認め合うということなのだ。尊敬し合うということなのだ。
二人は、評議のなかで「ことば」をやりとりして、そして、互いの「ことば」が「真実」になるという瞬間を体験した。そのよろこびを共有する形で、互いに名乗りあうのだが、これはいいなあ。ほんとうに美しい。
この美しさはプラトンの対話篇そのものだ。
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