詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(126 )

2010-04-11 23:27:14 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 西脇は、いつも「音」そのものに飢えている。それは、「第三の神話」のつづきを読めばわかる。

大亀の上にのつかつている石碑の
碑文を旅の学者が大きな笠を
かぶつて驢馬にのつて
あごで判読しているのを
白い服を着た少年が聴いて
いるのもよく見える
最後のツクツクボーシも鳴いている
ことがよくわかるような気がした
四十雀が松の中にとんでいるのも
こんな風景を女の家の朱色に塗つた
二階の窓から鳥を見る望遠鏡でみた

 「みた」。「見た」こと、視界が描かれているのだが、その「音」のない世界で、西脇は「音」を聴いている。
 「最後のツクツクボーシも鳴いている/ことがわかるような気がした」の「こと」がとても不思議だ。
 西脇にとって「音」とは「こと」なのだ。「素材」というより、そのなかで何かが動いていて、その動きが「こと」なのだ。ツクツクボーシが鳴いている。その鳴き声ではなく、鳴いている「こと」。なぜ、鳴いているのか。その「理由」のようなものが、「こと」。
 この「こと」は、見ることができない。見えない。どんな望遠鏡でも、「こと」は見えない。
 「こと」を引き受けるのは「気」である。「気がした」の「気」。
 それは、こころ、ということかもしれない。

 「音」は「こころ」と触れ合うのだ。こころ、の接触。そのとき、どこかで「音楽」が鳴るのだ。それを西脇はすばやくつかまえる。




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西脇 順三郎
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マーティン・スコセッシ監督「シャッターアイランド」(★)

2010-04-11 22:59:23 | 映画
監督 マーティン・スコセッシ 出演 レオナルド・ディカプリオ、マーク・ラファロ、ベン・キンズレー

 どう語っていいかわからないくらいひどい映画である。映画がはじまる前に、奇妙な解説が付く。もう、それだけで映画がわかってしまう。「結末をけっして語ってはならない」という忠告もついている。結末って、何? あまりのばかばかしさに、結末なんて語りたくなるはずがない。映画館を出るなり、観客が次々に「ひどい映画」と言っている。それがこの映画のほんとうの結末である。
 映像が、とてつもない手抜き。船で島へ行くシーン。いまどき、背景に映像を映して、その前で船のセットで映画を撮るのか? 遠くの雲がまったく動いていないぞ。セットで撮影するにしろ、ちゃんと背景の映像ぐらい撮って来い。
 だいたい船のシーンで、登場人物がふたりって、いくらなんでもないんじゃない?
 同じように、ディカプリオをのせて車が森の中を走るシーン。背景は映像。その前で車の「上半身」(タイヤは映さない)だけ、運転手とディカプリオだけの映像。処理がずさん。合成がひとめでわかる。私は眼を手術して、視力がとても悪いのだが、それでもわかるずさんさ。
 そして、ディカプリオが断崖から上がってくるときの岩の質感のなさ。まるで発泡スチロールの岩である。軽い。色がとても軽い。
 いったい、どこに金をかけたのかわからないが、こんなずさんな映像の映画はひさびさに見た。ディカプリオはスコセッシと組んでから、まったくさえない俳優になってしまった。
 精神病院を描いた映画では、ジェシカ・ラング主演の「女優フランシス」の方がはるかにこわい。強制的な入院と、ロボトミー手術までの過程は、いま思い出してもこわい。ジェシカ・ラングはこれとは別の映画『ブルー・スカイ』でアカデミー賞(主演女優賞)を取ったのだか、私はいつもジェシカ・ラング+アカデミー賞で「女優フランシス」を思い出してしまう。
 ついでにジェシカ・ラングの宣伝をしてしまうと、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』『トッツィー』を見ようね。

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リチャード・フライシャー監督「ミクロの決死圏」(★★★)

2010-04-11 09:17:00 | 午前十時の映画祭


監督 リチャード・フライシャー 出演 スティーブン・ボイド、ラクウェル・ウェルチ、エドモンド・オブライエン、ドナルド・プレゼンス

 「午前十時の映画祭」10本目。
 私はこの映画はスクリーンで見るのは初めてだ。そして、あ、モノクロじゃない、とびっくりした。学生時代、下宿の友人の部屋で少しだけ見た記憶があるが、そのときの記憶ではモノクロだった。なんのことはない。もっていたテレビがモノクロなので、モノクロ以外にありえなかったのだ。
 で、というのも変だけれど、その「モノクロ」につながるシーンに、ちょっとどきどきした。とてもとても、なつかしいなあ、これいいなあ、と感じたシーンがあったのだ。
 軍人たちがミクロになった医師たちをモニターしている。そのモニター画面。そこだけ、モノクロ。この映画ができた当時(1966年)は、科学室のモニターはまだモノクロだったのだ。うーん。うーん。うーん。そういう時代に、人間の体をまるごとミニチュアにして、体内に送り込むと発想するその想像力。
 いつでも、想像力は現実を超える。現実を超えるから、想像力か……。
 でも、まあ、いいかげんだよね。停止した心臓を通り抜けるのに、原子力潜水艦で1分。じゃあさあ、複雑な脳の内部から涙腺を探して、人間が泳いで、涙にたどりつくためにかかる時間は? おかしいよね。でも、こういう非科学的なところがSFの一番楽しい部分かもしれないねえ。
 このおもしろさ、わかるためには、たぶんモノクロテレビを知っているかどうかは、重要だろうなあ。なんて、思うのは、小さいとき(小学生のとき)、「あ、いま、テレビがカラーになった」なんて嘘を言った記憶があるからだろうか。「えっ、ほんとう?」姉がびっくりしてとんできたけれど、そういう嘘が通じたというのは科学の仕組みをだれも知らないからだねえ。66年よりも前に、カラーテレビのうわさはあった。もちろん、見たことはないのだが。
 高校生のとき、友人の家でカラーテレビをはじめてみた。そして、大人になったらカラーテレビを買えるだろうか、と思った。(私は当時はテレビが大好きだった。)そんな具合で、大学の下宿にもカラーテレビはあったが、友人の部屋にはなかった。モノクロテレビさえ、もっているひとは少なかった。そのテレビで、「ミクロの決死圏」をちらりと見た。
 あ、どんどん、映画そのものの感想から遠くなってしまう。
 でも、いいんだ。この映画は、私にとっては、そういうものなのだ。テレビの延長なのだ。映画である前に、テレビなのだ。初めて見たのがテレビだから、テレビを拡大して見ているという印象から逃げられないのだ。
 テレビ(ビデオ)で見た感動を大きなスクリーンで、というのが「午前十時の映画祭」のひとつのうたい文句のようでもあるようだけれど、そんなことは、ありえないなあ、と私は思う。テレビで見たものは、テレビの記憶がよみがえってくる。
 だからこそ。
 あのモニターのモノクロに大感激してしまった。科学も、まだまだモノクロの時代だった。コンピューターなんて、もちろんなくて、人体解剖図なんてものも、モノクロのプリントアウトしたもの。わあああっ。すっごくおもしろい。丸めた解剖図を棚(筒)にきちんと順番に並べて、必要に応じてそれを取り出すなんて、なんてアナログな世界。モノクロの案内図(?)にしたがって巡る体内は、カラー。赤い動脈の赤血球。青い静脈の赤血球。いいなあ、このギャップ。
 体内と外部の連絡だってモールス信号。なんだ、これは、だよね。
 傑作は、原子炉は縮小できないから、小さいんだ、といいながらも、その小さな原子炉自体、広辞苑くらいはあるからねえ。そんなもの、脳の中に入る? それ以前に、注射器の中に入る?
 嘘。うそ。嘘。うそ。でたらめ。
 でもね、そんなふうにして、嘘をつきたい、何かひとの考えていないことを考えてしまいたい、という気持ちそのものは、ほんもの。
 このほんものは、モノクロのモニターによって、とてもリアルになる。この映画の2年後の「2001年宇宙の旅」には、もうカラーのテレビ電話(宇宙と自宅を結ぶ)が想像され、映画になっているんだから、「ミクロの決死圏」のうそとほんものの落差は大きい。
 そこが、この映画の楽しいところだね。


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安利麻慎「アルネ 40 規矩(キグ)」

2010-04-11 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
安利麻慎「アルネ 40 規矩(キグ)」(「ヴェガ」3、2010年03月30日発行)

 きのう、杉本徹「ガランスの扉」を、不思議な重書きの詩として読んだ。時間の重書き。「数年と数年前」ということばを信じれば過去と現実(ほんとうは近い過去、だけれど)の重書き。けれど、それはそれ以上のものを含んでいる。重書きすることで、重ねる(隠す)のではなく、重ならないものを暴いてゆくことなのだ。
 あらゆることばの運動は、重ねるふりをして暴くことなのかもしれない。
 どんな詩でも、一方に現実があり、他方にことばがある。現実にことばを重ねる。つまり、ことばで現実を描写する。そのとき、ことばは現実という存在の上に覆いかぶさり、重なるのだが、その重なりは現実を切り開き、その内部を見せるためのものである。ぴったりと重なればなるほど、つまり、リアルに見えれば見えるほど、そのことばの運動は、いままでリアルには感じられなかった存在を暴いているのである。
 現実に何が隠れているのか。それをさがすこと(暴くこと)は、ことばの運動のなかに、そのエネルギーのなかに、何が蓄えられているか、それは何をすることができるかを暴くことでもある。



 安利麻慎「アルネ 40 規矩(キグ)」は方言で書かれている。(東北弁だと思う。)安利麻にそういう意識があるかどうかはわからないのだが、私は安利麻のことばを現実に重書きされたことばであると同時に、標準語(学校教科書のことば)に重書きされたものとして読んだ。というか、私は、安利麻のことばをそのままではつかみとることができないので、安利麻のことばに私の知っている学校教科書のことばを重ね合わせるようにして読んだ。このとき、私が体験しているのは、単純な「重書き」ではない。「重書き」というのは、一種の「誤読」のようなものだけれど、その「誤読」に、安利麻が書いている東北弁(ということにしておく)を私が知らないという事情が重なるので、私の感想は「誤読」の「誤読」というか、ちょっと入り組んだ「重書き」への印象ということになる。
 なぜ、こんな面倒なことをわざわざ書いたかというと……。
 安利麻の東北弁は、単に、その土地のことばで現実を描写しているというだけではないからだ。方言というと、何か、その土地に根付いた「純粋」なことばという印象がある。「重書き」ではなく、「土地」そのものが直接ことばになっているような、「純粋」な印象をもってしまう。けれど、ことばであるかぎりは、そういう「純粋」などありえない。ことばは、現実を把握し、暴き、動かすための「重書き」をしてしまうものである。その運動、働きに、方言と学校教科書ことばの違いはない。同じように動いてしまうものである。
 その運動を、安利麻は、学校教科書のことばを東北弁に「重書き」することで増幅している。それが、とても強烈である。

訊(キ)グナ 訊(キ)グナ ワ ナニモワガネ
ワゴトワガネ ワ ナニワガネ ワ ワガネ
漂(タダヨ)テルダオン 危惧ネグ
空コ 空々シク カラコ漂(タダヨ)テルダオン

 私は何も知らない。だから何も訊くな。その「訊くな」に「危惧」が重なる。「危惧」は東北弁でも「きぐ」なのだろう。というか、東北弁には、「危惧」などということばはなかった。それは、どこかよそからやってきた学校教科書のことばだ。そして、「訊グナ」に「危惧」が「重書き」されるとき、「訊グナ」のなかにあるものが、爆発したように輝く。訊問し、何かを、ことばにさせてしまう。そのとき漂っているだけの「危惧」が、危惧そのものとして現前化してくる。
 訊いてはいけないことがある。それは言ってはいけないことがある、ことばにしてはいけないことがある、ことばにはならないものがある、ということでもある。
 「ことばにするな」と安利麻は、ことばで「重書き」をする。
 訊いてはいけないこと、ことばにしてはいけないこと、それを安利麻はことばにして書き表す。それは矛盾した行為だが、この矛盾のなかに、矛盾しているからこそ、「思想」がある。

訊(キ)グゴドネ 規矩(キグ)ゴドマネグマテマタオン
訊(キ)ガレデ ワガネノネグマテマタオン
ピカノピカピカ 一念(イチネン)ノ生(セ)
コノ効(キ)ガネナグナタ生(セ) 広(フロ)グフログフロガツテ
トメドネグトドマネ 広(フロ)ガルダケダ
誰(ダ)ノ手コ神(カ)ノ手コドガネ トメラレネオン
人(フト) コワシデ 人(フト) フトバナレ等(フト)シグネオン
不図も不如意(フニョイ)モ不届(フトド)キモ人(フト)ノヤルゴト
アネデネグ不透明(フトメイ) 規格(キカ)ネ
コトバコ人(フト)コノコトバダベ ネオン ナモナニトテネ

 「訊(キ)グ」は「危惧」へつながり「規矩(キグ)」へとつながる。「訊く」のは、そのひとの「物差し、思想」を問いただすことである。何を基準にして行動しているのか、それを訊問する。それに対して応えることは、とても危険である。「物差し」なんて、いらない。ただ、生きて「ひとり」でいればいい。「ひとり」で、というのは、誰にも頼らずに、ということである。自分「ひとり」のいのちをただ押し広げ、たくましくふとっていけばいいだけである。
 「広く」(広げる、広がる)は、「ふとる」ということであり、「ふとる」のなかになは「等しい(ふとし)」が含まれ、そんなふうに「ふとった」人間が「ひと(ふと)」と呼ばれるのである。
 人間の行動は不透明であり、その行動に「規格」はない。この「規格」は「規矩」とおなじく「物差し」(判断基準)である。そんなものを拒絶し、ただ「いのち」であれ、と安利麻は書いているのだと思う。
 人間のことばは無意味である。ことばなどに頼るな。ことばを訊きだすな。ことばであるまえに「いち」であれ、ただ広がるいのち、すべてをのみこむ「いのち」であれ、と安利麻は書いているのだと思う。
 私は安利麻のことばに私のことばを「重書き」しながら、そんなふうに読んだ。そして、その読みの過程で、「訊く」「危惧」「規矩」「規格」が重なり合うのを感じた。そのことばをつないでいる「思想」が暴かれるのを感じた。またことばを拒絶したいのち(ことばの効果のなくなった、「効ガネクナタ生」と安利麻は書いているのだが)、その「ことば」をはねのけた生きかたが、「広(フロ)ク」が「等(フト)シ」につながり、「人(フト)」をつくりあげると、安利麻が書こうとしているだと感じた。

ソラ 見(ミ) ソラミ 空行(イ)グ空身ノ空ダ
恐(オソ)ロシネ空見(ソラミ)ノ空身(ソラミ) 恐ロシゲダゴドニ人(フト)ノシタゴド
ナゴドナデネグ ワゴドワデナク ネグネグシテマテ
人(フト)タダシ人(フト)タダシト説(ト)キ師 規矩(キク)ラゴツケノゴツチラ虚仮(コゲ)デ
人(フト)クウモ式式恐(オソ)ロゲモネ クイ位置(イヂ)ダ

 人間の行為、他人の行為も、私自身の行為も、区別をなくして、人に人に何かを説く、ことばを語る。規矩(規格)をあてはめる。そのことに対する拒絶。その強い意思を感じた。
 引用の最後の「クイ位置(イヂ)ダ」は、私のことばのなかでは「食い意地だ」と重なり、ふと、そこに人間の「いのち」の原点が書かれているようにも感じた。

訊(キ)グナ 訊(キ)グナ 訊(キ)ガネデ呉(ケ)ロ オ前ノコドバ聞ガセシナガ
モウ身届(ミトド)ゲラレネシ身遂(ミド)ゲラレネ

 あ、と私は声を出してしまう。
 ことばを語る(問われて語る、聞かれて語るを含む)ということは、自分の身体(肉体)を相手に届けることなのだ。そしてことばを相手に届ける、身体を届けるということは、身体を遂行する、いのちを果たすということ、相手にいのちを預けるということなのだ。それはある意味では、自分のいのちを「見とどける=終わりまで見きわめる」ということなのだ。
 安利麻は、そんなふうに、ことばを「いのち・肉体」と感じている。だから、聞かれたからといって、簡単には答えない。答えられないことがある。そういうときは「聞くな」というしかないのだ。

 ことばを語ること(書くこと)が自分のいのちを見とどける、臨終に立ち会うということだからこそ、安利麻は、最初に彼自身が身につけたことば(東北弁)にこだわり、ことばを動かしているだ、と感じた。

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