安利麻慎「アルネ 40 規矩(キグ)」(「ヴェガ」3、2010年03月30日発行)
きのう、杉本徹「ガランスの扉」を、不思議な重書きの詩として読んだ。時間の重書き。「数年と数年前」ということばを信じれば過去と現実(ほんとうは近い過去、だけれど)の重書き。けれど、それはそれ以上のものを含んでいる。重書きすることで、重ねる(隠す)のではなく、重ならないものを暴いてゆくことなのだ。
あらゆることばの運動は、重ねるふりをして暴くことなのかもしれない。
どんな詩でも、一方に現実があり、他方にことばがある。現実にことばを重ねる。つまり、ことばで現実を描写する。そのとき、ことばは現実という存在の上に覆いかぶさり、重なるのだが、その重なりは現実を切り開き、その内部を見せるためのものである。ぴったりと重なればなるほど、つまり、リアルに見えれば見えるほど、そのことばの運動は、いままでリアルには感じられなかった存在を暴いているのである。
現実に何が隠れているのか。それをさがすこと(暴くこと)は、ことばの運動のなかに、そのエネルギーのなかに、何が蓄えられているか、それは何をすることができるかを暴くことでもある。
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安利麻慎「アルネ 40 規矩(キグ)」は方言で書かれている。(東北弁だと思う。)安利麻にそういう意識があるかどうかはわからないのだが、私は安利麻のことばを現実に重書きされたことばであると同時に、標準語(学校教科書のことば)に重書きされたものとして読んだ。というか、私は、安利麻のことばをそのままではつかみとることができないので、安利麻のことばに私の知っている学校教科書のことばを重ね合わせるようにして読んだ。このとき、私が体験しているのは、単純な「重書き」ではない。「重書き」というのは、一種の「誤読」のようなものだけれど、その「誤読」に、安利麻が書いている東北弁(ということにしておく)を私が知らないという事情が重なるので、私の感想は「誤読」の「誤読」というか、ちょっと入り組んだ「重書き」への印象ということになる。
なぜ、こんな面倒なことをわざわざ書いたかというと……。
安利麻の東北弁は、単に、その土地のことばで現実を描写しているというだけではないからだ。方言というと、何か、その土地に根付いた「純粋」なことばという印象がある。「重書き」ではなく、「土地」そのものが直接ことばになっているような、「純粋」な印象をもってしまう。けれど、ことばであるかぎりは、そういう「純粋」などありえない。ことばは、現実を把握し、暴き、動かすための「重書き」をしてしまうものである。その運動、働きに、方言と学校教科書ことばの違いはない。同じように動いてしまうものである。
その運動を、安利麻は、学校教科書のことばを東北弁に「重書き」することで増幅している。それが、とても強烈である。
訊(キ)グナ 訊(キ)グナ ワ ナニモワガネ
ワゴトワガネ ワ ナニワガネ ワ ワガネ
漂(タダヨ)テルダオン 危惧ネグ
空コ 空々シク カラコ漂(タダヨ)テルダオン
私は何も知らない。だから何も訊くな。その「訊くな」に「危惧」が重なる。「危惧」は東北弁でも「きぐ」なのだろう。というか、東北弁には、「危惧」などということばはなかった。それは、どこかよそからやってきた学校教科書のことばだ。そして、「訊グナ」に「危惧」が「重書き」されるとき、「訊グナ」のなかにあるものが、爆発したように輝く。訊問し、何かを、ことばにさせてしまう。そのとき漂っているだけの「危惧」が、危惧そのものとして現前化してくる。
訊いてはいけないことがある。それは言ってはいけないことがある、ことばにしてはいけないことがある、ことばにはならないものがある、ということでもある。
「ことばにするな」と安利麻は、ことばで「重書き」をする。
訊いてはいけないこと、ことばにしてはいけないこと、それを安利麻はことばにして書き表す。それは矛盾した行為だが、この矛盾のなかに、矛盾しているからこそ、「思想」がある。
訊(キ)グゴドネ 規矩(キグ)ゴドマネグマテマタオン
訊(キ)ガレデ ワガネノネグマテマタオン
ピカノピカピカ 一念(イチネン)ノ生(セ)
コノ効(キ)ガネナグナタ生(セ) 広(フロ)グフログフロガツテ
トメドネグトドマネ 広(フロ)ガルダケダ
誰(ダ)ノ手コ神(カ)ノ手コドガネ トメラレネオン
人(フト) コワシデ 人(フト) フトバナレ等(フト)シグネオン
不図も不如意(フニョイ)モ不届(フトド)キモ人(フト)ノヤルゴト
アネデネグ不透明(フトメイ) 規格(キカ)ネ
コトバコ人(フト)コノコトバダベ ネオン ナモナニトテネ
「訊(キ)グ」は「危惧」へつながり「規矩(キグ)」へとつながる。「訊く」のは、そのひとの「物差し、思想」を問いただすことである。何を基準にして行動しているのか、それを訊問する。それに対して応えることは、とても危険である。「物差し」なんて、いらない。ただ、生きて「ひとり」でいればいい。「ひとり」で、というのは、誰にも頼らずに、ということである。自分「ひとり」のいのちをただ押し広げ、たくましくふとっていけばいいだけである。
「広く」(広げる、広がる)は、「ふとる」ということであり、「ふとる」のなかになは「等しい(ふとし)」が含まれ、そんなふうに「ふとった」人間が「ひと(ふと)」と呼ばれるのである。
人間の行動は不透明であり、その行動に「規格」はない。この「規格」は「規矩」とおなじく「物差し」(判断基準)である。そんなものを拒絶し、ただ「いのち」であれ、と安利麻は書いているのだと思う。
人間のことばは無意味である。ことばなどに頼るな。ことばを訊きだすな。ことばであるまえに「いち」であれ、ただ広がるいのち、すべてをのみこむ「いのち」であれ、と安利麻は書いているのだと思う。
私は安利麻のことばに私のことばを「重書き」しながら、そんなふうに読んだ。そして、その読みの過程で、「訊く」「危惧」「規矩」「規格」が重なり合うのを感じた。そのことばをつないでいる「思想」が暴かれるのを感じた。またことばを拒絶したいのち(ことばの効果のなくなった、「効ガネクナタ生」と安利麻は書いているのだが)、その「ことば」をはねのけた生きかたが、「広(フロ)ク」が「等(フト)シ」につながり、「人(フト)」をつくりあげると、安利麻が書こうとしているだと感じた。
ソラ 見(ミ) ソラミ 空行(イ)グ空身ノ空ダ
恐(オソ)ロシネ空見(ソラミ)ノ空身(ソラミ) 恐ロシゲダゴドニ人(フト)ノシタゴド
ナゴドナデネグ ワゴドワデナク ネグネグシテマテ
人(フト)タダシ人(フト)タダシト説(ト)キ師 規矩(キク)ラゴツケノゴツチラ虚仮(コゲ)デ
人(フト)クウモ式式恐(オソ)ロゲモネ クイ位置(イヂ)ダ
人間の行為、他人の行為も、私自身の行為も、区別をなくして、人に人に何かを説く、ことばを語る。規矩(規格)をあてはめる。そのことに対する拒絶。その強い意思を感じた。
引用の最後の「クイ位置(イヂ)ダ」は、私のことばのなかでは「食い意地だ」と重なり、ふと、そこに人間の「いのち」の原点が書かれているようにも感じた。
訊(キ)グナ 訊(キ)グナ 訊(キ)ガネデ呉(ケ)ロ オ前ノコドバ聞ガセシナガ
モウ身届(ミトド)ゲラレネシ身遂(ミド)ゲラレネ
あ、と私は声を出してしまう。
ことばを語る(問われて語る、聞かれて語るを含む)ということは、自分の身体(肉体)を相手に届けることなのだ。そしてことばを相手に届ける、身体を届けるということは、身体を遂行する、いのちを果たすということ、相手にいのちを預けるということなのだ。それはある意味では、自分のいのちを「見とどける=終わりまで見きわめる」ということなのだ。
安利麻は、そんなふうに、ことばを「いのち・肉体」と感じている。だから、聞かれたからといって、簡単には答えない。答えられないことがある。そういうときは「聞くな」というしかないのだ。
ことばを語ること(書くこと)が自分のいのちを見とどける、臨終に立ち会うということだからこそ、安利麻は、最初に彼自身が身につけたことば(東北弁)にこだわり、ことばを動かしているだ、と感じた。