白井知子「ベンガルの少年の微笑みと」(「交野が原」68、2010年04月10日発行)
白井知子「ベンガルの少年の微笑みと」は見たものをていねいに描写していく。そうすると世界がいままでとは違った形であらわれてくる。白井もまた、きのう読んだ松岡と同じような強い「肉眼」をもっている。
「ふうわりと」。この、「ふうわり」をとらえる視力。この「ふうわり」のなかには「ゆれ」がある。そしてゆの「ゆれ」には力というか、「時間」がある。「花柄」は形ではあるのだけれど、形を超えてというのだろうか、最初から形ではなく、形に「なる」力がある。形に「なる」ために、形以前の何かを突き破る。そのとき、どうしても「ゆれ」てしまう。それが「ふうわり」である。
その「ふうわり」は、最初は「ふうわり」としかわからない。そのわからなさを、そのまま「ふうわり」と書いて、それから追いかけていく。
あ、その「花柄」は、シュンドルボンの泥に触れることで、英国製のカップの花から、シュンドルボンの土地に生えている花に変わったのだ。花柄ではなく、花になってしまったのだ。泥に磨かれたのはティーカップの「肌」ではなく、「肌」のなかに眠っている花の「いのち」である。
「不可思議な光沢」。それは花がシュンドルボンの「土地」そのものから生えてきて、花を開いたためにまとってしまう光であり、つややかさなのだ。
「舌には 土のかもす さりさりとした後味が滲みついて剥がれない」というとき、白井は、その花そのものになっている。シュンドルボンの土が、肉体のなかに入り込み、その土を突き破って花が生まれてきている。その花となって、開き、それから、シュンドルボンの湿地帯全体へ花そのものとして繁殖していく。
亜熱帯の光りと風が、花としての白井に押し寄せ、その光りの風のなかで、白井はさらに開いて行くのだ。
舌の上に残る後味、その土を突き破りながら。
この変化を、白井は、少年がティーカップを磨いているときに、すでに見てしまっているのだ。
その見てしまったものを、白井は、日本に帰ってきてから、見つめなおしている。
「ふうわり」は少年の微笑みでもあったのだ。それは、ガンジス河で生きている少年の微笑みである。少年は、花のように、生きている。厨房で働く少年。彼は、イギリスというティーカップに閉じ込められた「花柄」かもしれない。「花柄」かもしれないけれど、それは「花柄」でありつづけるのではなく、ティーカップを突き破って、ガンジスの泥と水で磨かれて、ほんものの、生きている花に「なる」。亜熱帯の光りと風につつまれて、いのちそのものになる。そこに、そんなふうにして生きている「いのち」を白井は見て、見ることをとおして彼女自身、その花に「なる」ということがどういうことかを実感したのだ。
そのときの、不思議な共感が、いま、また白井を包んでいる。「わたしに ください」とことばを動かせば、いつでも白井はその瞬間に帰ることができる。少年の微笑みと出会えるのだ。少年の微笑みと、いま、出会い、そしてまた白井は、「ふうわりと」彼女自身を花開かせている。
白井知子「ベンガルの少年の微笑みと」は見たものをていねいに描写していく。そうすると世界がいままでとは違った形であらわれてくる。白井もまた、きのう読んだ松岡と同じような強い「肉眼」をもっている。
船底へのまわり階段を下りていく
そこは厨房の端だった
褐色の肌をした少年が一人かがみこみ
ティーカップの内側に泥をこすりつけては 黙々と磨いていた
舳先から紐のついたバケツで水路の水を汲みあげると
別のバケツに移していき
まだ華奢な手で 一客ずつ すすいでいくのだった
英国製だろうか
カップから
花柄が ふうわりと浮かびあがる
「ふうわりと」。この、「ふうわり」をとらえる視力。この「ふうわり」のなかには「ゆれ」がある。そしてゆの「ゆれ」には力というか、「時間」がある。「花柄」は形ではあるのだけれど、形を超えてというのだろうか、最初から形ではなく、形に「なる」力がある。形に「なる」ために、形以前の何かを突き破る。そのとき、どうしても「ゆれ」てしまう。それが「ふうわり」である。
その「ふうわり」は、最初は「ふうわり」としかわからない。そのわからなさを、そのまま「ふうわり」と書いて、それから追いかけていく。
船はマングローブの森の奥へとすすむ
ニッパ椰子の葉が亜熱帯の光りをすかして風に吹かれていた
午後三時 船上でのティータイム
シュンドルボンの泥で磨かれたティーカップ
その不思議な光沢とともに
紅茶がふるまわれた
舌には 土のかもす さりさりとした後味が滲みついて剥がれない
シュンドルボン
インドとバングラディシュの南西部にひろがる湿地帯 広大なマングローブの森
あ、その「花柄」は、シュンドルボンの泥に触れることで、英国製のカップの花から、シュンドルボンの土地に生えている花に変わったのだ。花柄ではなく、花になってしまったのだ。泥に磨かれたのはティーカップの「肌」ではなく、「肌」のなかに眠っている花の「いのち」である。
「不可思議な光沢」。それは花がシュンドルボンの「土地」そのものから生えてきて、花を開いたためにまとってしまう光であり、つややかさなのだ。
「舌には 土のかもす さりさりとした後味が滲みついて剥がれない」というとき、白井は、その花そのものになっている。シュンドルボンの土が、肉体のなかに入り込み、その土を突き破って花が生まれてきている。その花となって、開き、それから、シュンドルボンの湿地帯全体へ花そのものとして繁殖していく。
亜熱帯の光りと風が、花としての白井に押し寄せ、その光りの風のなかで、白井はさらに開いて行くのだ。
舌の上に残る後味、その土を突き破りながら。
この変化を、白井は、少年がティーカップを磨いているときに、すでに見てしまっているのだ。
その見てしまったものを、白井は、日本に帰ってきてから、見つめなおしている。
*
日本の秋の陽をうけ
小壜の水はうっすらと濁っている
少年がカップと皿を磨いていた隙に
紐のついたバケツの底から 小壜に入れたガンジス河の水だ
わたしはヒンドゥー教徒ではないからこの水で唇をぬらすことはしない
障害の約束のように封はあけないまま
数千の水路や河筋を壜ごと揺らしてみるだけだ
わたしに ください ガンジス源郷からの湧き水を……
あのベンガルの少年の微笑みと一緒に
「ふうわり」は少年の微笑みでもあったのだ。それは、ガンジス河で生きている少年の微笑みである。少年は、花のように、生きている。厨房で働く少年。彼は、イギリスというティーカップに閉じ込められた「花柄」かもしれない。「花柄」かもしれないけれど、それは「花柄」でありつづけるのではなく、ティーカップを突き破って、ガンジスの泥と水で磨かれて、ほんものの、生きている花に「なる」。亜熱帯の光りと風につつまれて、いのちそのものになる。そこに、そんなふうにして生きている「いのち」を白井は見て、見ることをとおして彼女自身、その花に「なる」ということがどういうことかを実感したのだ。
そのときの、不思議な共感が、いま、また白井を包んでいる。「わたしに ください」とことばを動かせば、いつでも白井はその瞬間に帰ることができる。少年の微笑みと出会えるのだ。少年の微笑みと、いま、出会い、そしてまた白井は、「ふうわりと」彼女自身を花開かせている。
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