西脇のことばは、ある対象があって、それを語るというよりも、ことばがある対象を引き出してくる。いま、ここにない何かをここにひっぱりだすために動いている。
「第三の神話」の書き出し。
3行目までは現実に「見た」風景かもしれない。けれど、それ以後は「いま」「ここ」から見える風景ではない。「松」を見ることによって、そこにはないものがひっぱりだされてきているのだ。そして、それは一気に見えるのではない。ことばとともに、1行ずつ、見えてくるのだ。
それは「見えている」風景をことばで追いかけているのではなく、「見えない」風景をことばでひっぱりだしているのだから、リズムに乗るまでに、ちょっと時間がかかる。
この改行、空白の形が、私はとても好きだ。「も見える」まで動いてきて、いったん、ことばが止まってしまう。次にどんなふうに動いていくか、一呼吸がある。その一呼吸は「改行」の呼吸とは違う。改行して、それから、前の1行を無言で追いかけて、追い付いて、それから動きだすのだ。
いきなり「存在」をひっぱりだすのではなく、「ああ」という「声」を出して、ことばを誘っている。「ああ」は詠嘆ではなく、ことばを、音を誘うための「誘い水」のようなものだ。「それからまた」という「無意味」なのことばの、「音」。「音」があって、ことば生まれる。
つづく「の」の連続。西脇のことばに特徴的にみられる動き。
そして、「……の……の……の」の果に「のつかつて」の「の」の乱調がある。私は一瞬、
と読んでしまった。「上に乗つかつている」ではなく、「上の乗つかつている」である。たぶん「の」の方がリズムがいいと、私は思うのだけれど、ただし、「に」ではなく「の」だとすると、その次の「碑文を」「大きな笠を」の「を」の繰り返しへの「転調」がむずかしくなると思う。その行にも「……の……の」ということばがほしくなってしまう。「上の」ではなく「上に」という変化があって、「碑文を」「笠を」がとても読みやすくるなる。
こういう部分に、私は、西脇の「音楽」を感じる。
つづく「かぶつて」「のつて」のリズムも、「……を……を」のリズムを引き継いでいる。リズムを引き継ぎ、「音」を引き継ぎながら、西脇のことばは、存在をひっぱりだすのだ。
こういう「存在」は「見える」ということばが象徴的にあらわしているように、一瞬「視覚的」に感じられる。「見える」ものの変化だから「視覚的」であるという印象が生まれまる。西脇は「視覚的な詩人」だという印象が生まれる。
でも、私には、どうしても西脇は「視覚的詩人」であるよりも、「聴覚的詩人」である。
「判読」(読む)「聴いて」(聴く)。そのことばのなかに「音」がある。視覚的なもの、「見る」をかきつづけながら、西脇は、どうしても「音」をともなう「読む」「聴く」を書かずにはいられなかったのだと思う。
西脇は、いつでも「音」そのものに飢えている。
「第三の神話」の書き出し。
秋分の日は晴れた
久しぶりに遠くの山がはつきり見える
曲りくねつた松の木の間を
丁髷を結んだ主人の後から
琴と酒を袋に入れてかついでいる
少年の従者が歩いているのまで
も見える
ああそれからまた
魚の骨のようなトゲのある
古木のサイカチの木の下にある
大亀の上にのつかつている石碑の
碑文を旅の学者が大きな笠を
かぶつて驢馬にのつて
あごで判読しているのを
白い服を着た少年が聴いて
いるのもよく見える
3行目までは現実に「見た」風景かもしれない。けれど、それ以後は「いま」「ここ」から見える風景ではない。「松」を見ることによって、そこにはないものがひっぱりだされてきているのだ。そして、それは一気に見えるのではない。ことばとともに、1行ずつ、見えてくるのだ。
それは「見えている」風景をことばで追いかけているのではなく、「見えない」風景をことばでひっぱりだしているのだから、リズムに乗るまでに、ちょっと時間がかかる。
も見える
ああそれからまた
この改行、空白の形が、私はとても好きだ。「も見える」まで動いてきて、いったん、ことばが止まってしまう。次にどんなふうに動いていくか、一呼吸がある。その一呼吸は「改行」の呼吸とは違う。改行して、それから、前の1行を無言で追いかけて、追い付いて、それから動きだすのだ。
いきなり「存在」をひっぱりだすのではなく、「ああ」という「声」を出して、ことばを誘っている。「ああ」は詠嘆ではなく、ことばを、音を誘うための「誘い水」のようなものだ。「それからまた」という「無意味」なのことばの、「音」。「音」があって、ことば生まれる。
つづく「の」の連続。西脇のことばに特徴的にみられる動き。
そして、「……の……の……の」の果に「のつかつて」の「の」の乱調がある。私は一瞬、
大亀の上ののつかつている石碑の
と読んでしまった。「上に乗つかつている」ではなく、「上の乗つかつている」である。たぶん「の」の方がリズムがいいと、私は思うのだけれど、ただし、「に」ではなく「の」だとすると、その次の「碑文を」「大きな笠を」の「を」の繰り返しへの「転調」がむずかしくなると思う。その行にも「……の……の」ということばがほしくなってしまう。「上の」ではなく「上に」という変化があって、「碑文を」「笠を」がとても読みやすくるなる。
こういう部分に、私は、西脇の「音楽」を感じる。
つづく「かぶつて」「のつて」のリズムも、「……を……を」のリズムを引き継いでいる。リズムを引き継ぎ、「音」を引き継ぎながら、西脇のことばは、存在をひっぱりだすのだ。
こういう「存在」は「見える」ということばが象徴的にあらわしているように、一瞬「視覚的」に感じられる。「見える」ものの変化だから「視覚的」であるという印象が生まれまる。西脇は「視覚的な詩人」だという印象が生まれる。
でも、私には、どうしても西脇は「視覚的詩人」であるよりも、「聴覚的詩人」である。
あごで判読しているのを
白い服を着た少年が聴いて
いるのもよく見える
「判読」(読む)「聴いて」(聴く)。そのことばのなかに「音」がある。視覚的なもの、「見る」をかきつづけながら、西脇は、どうしても「音」をともなう「読む」「聴く」を書かずにはいられなかったのだと思う。
西脇は、いつでも「音」そのものに飢えている。
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