北川朱実「字が書けそうだった」(「庭園詞華集2010」2010年04月02日発行)
書く、とは何か。北川朱実「字が書けそうだった」は、そのことを問うている。
この「論理」に従えば、さら地に何があったか思い出せないのは、北川がそれを書いたことがないからである。だから、おぼえていない。もし書いていれば、それをおぼえていて、「思い出せなかった」ということばのかわりに、それを書いたであろう。
「思い出せない」(おぼえていない)とき、ことばは、どんなふうに動くか。
北川は、なぜ思い出せないのか、ということをことばで追いはじめたのである。何も思い出せないから、ことばを「思い出」のためにつかうのではなく、失われた「思い出」のための「論理」につかう。
そして、その「論理」を補強(?)しはじめることろから、北川のことばは、突然北川らしい色を発揮する。
「論理」を補強するとは、「考える」ことである。そして、「考える」とは、「いま」「ここ」から出発して、「いま」「ここ」ではないところへ行くことなのだ。
北川は、このさら地に何があったか、それを思い出すために、たとえば隣の家の窓を見つめなおすとか、空き地の真ん中にたって空を見上げるとか、そういうことをしない。「肉体」をつかって、「いま」「ここ」を再呼吸してみるということをしない。
北川の呼吸は、いっきに「いま」「ここ」を離れ、ことばはリセットされる。「ギニアの奥地」に。そこには文字を持たずに生きている人々がいる。文字が記憶をつなぎとめるものだとすると、文字を持たない人々にとって、記憶(思い出)とはなんだろうか、と。そしてそれは「きれいな水が流れる河の/蛇行」ほどのものであるかもしれない、と思う。
このことばの動きに、私は、ふっと引き込まれ、不思議な体験をする。
北川は、「いま」「ここ」を再び呼吸してみる、深呼吸して「いま」「ここ」を生き直してみるという具合にことばを動かすかわりに、「ギニアの奥地」の人々のことを書いているのだが、その瞬間、私には、北川が「ギニアの奥地」の人々になっているように感じる。北川が深呼吸しているのは、「ギニアの奥地」の人々の「肉体」である。北川は「ギニアの奥地」の人々になっている。そして、その肉体になって深呼吸してみると、ギニアのきれいな水が見える。河が見える。蛇行する形が見える。光が見え、空気が見える……。
そして、それが、こんなふうにことばとして、文字として、書かれてしまうと、それは「ギニアの奥地」の人々の「記憶(思い出)」そのものになってしまう。文字にされることで、そこに河があったこと、水があったこと、河が蛇行したことが、「忘れることが/できなくな」るのである。
書く、考える--ということは、「いま」「ここ」を離れ、そしてそうすることで「私」からさえも離れ、「他人(他者)」になってしまうことなのだ。「他人(他者)」になって、「他人(多種)」の記憶を、「いま」「ここ」に甦らせる。その瞬間、「いま」「ここ」が家々の間のさら地ではなくなってしまう。ことばは、「いま」「ここ」さえも作り替え、その「記憶」が、この「土地」の記憶になる。「私」も「いま」「ここ」も生まれ変わってしまうのである。
書くということは、そして、その「他人(他者)」になってしまったことを、「いま」「ここ」そのものがまったく違ったものになってしまったことを、生まれ変わったことを、「忘れない」ためでもある。
書く、と冒険である。
書くとき、ひとはだれでも、自分にしがみついて書いているようだが、そうではなく、動いていくことばにしがみつているだけなのかもしれない。ことばが動いていく。動いて、「私」が「私」から離れていく。
「私」に戻ってくるには、そのことばを読み返すしかない。読み返して、思い出すしかない。けれど、それは「私」に戻ってしまうためではない。きっと、さらに遠くまで「私」を突き放してしまうために、戻ってくるのである。
より新しく生まれ変わるために、
この往復運動のなかで、書いている本人は、あ、いったい何を書いているんだろうと、何一つ思い出せなくなる瞬間があるかもしれない。けれど、その瞬間にこそ、たぶん、読者は筆者の姿を見るのだ。
書く、とは何か。北川朱実「字が書けそうだった」は、そのことを問うている。
道を歩いていると
とつぜん
家と家との間がさら地になっていて
そこに何があったか
どんな花が咲いていたのか
何一つ思い出せなかった
字をおぼえて
過ぎてきたことを忘れることが
できなくなった
書かなければ
今日あったことの大半を
明日には忘れられるのだという
この「論理」に従えば、さら地に何があったか思い出せないのは、北川がそれを書いたことがないからである。だから、おぼえていない。もし書いていれば、それをおぼえていて、「思い出せなかった」ということばのかわりに、それを書いたであろう。
「思い出せない」(おぼえていない)とき、ことばは、どんなふうに動くか。
北川は、なぜ思い出せないのか、ということをことばで追いはじめたのである。何も思い出せないから、ことばを「思い出」のためにつかうのではなく、失われた「思い出」のための「論理」につかう。
そして、その「論理」を補強(?)しはじめることろから、北川のことばは、突然北川らしい色を発揮する。
遠く ギニアの奥地で
一つの文字も持たずに
五千年を生きた部族のことを
私は考えている
彼らの前を通りすぎた人々の頭蓋は
洗われ
磨かれて
休館日の図書館のような
ひっそりした木のうろに
しまわれているというが
それなら 頭蓋の鮮やかな傷も
彼らにとって
きれいな水が流れる河の
蛇行ほどのものかもしれない
「論理」を補強するとは、「考える」ことである。そして、「考える」とは、「いま」「ここ」から出発して、「いま」「ここ」ではないところへ行くことなのだ。
北川は、このさら地に何があったか、それを思い出すために、たとえば隣の家の窓を見つめなおすとか、空き地の真ん中にたって空を見上げるとか、そういうことをしない。「肉体」をつかって、「いま」「ここ」を再呼吸してみるということをしない。
北川の呼吸は、いっきに「いま」「ここ」を離れ、ことばはリセットされる。「ギニアの奥地」に。そこには文字を持たずに生きている人々がいる。文字が記憶をつなぎとめるものだとすると、文字を持たない人々にとって、記憶(思い出)とはなんだろうか、と。そしてそれは「きれいな水が流れる河の/蛇行」ほどのものであるかもしれない、と思う。
このことばの動きに、私は、ふっと引き込まれ、不思議な体験をする。
北川は、「いま」「ここ」を再び呼吸してみる、深呼吸して「いま」「ここ」を生き直してみるという具合にことばを動かすかわりに、「ギニアの奥地」の人々のことを書いているのだが、その瞬間、私には、北川が「ギニアの奥地」の人々になっているように感じる。北川が深呼吸しているのは、「ギニアの奥地」の人々の「肉体」である。北川は「ギニアの奥地」の人々になっている。そして、その肉体になって深呼吸してみると、ギニアのきれいな水が見える。河が見える。蛇行する形が見える。光が見え、空気が見える……。
そして、それが、こんなふうにことばとして、文字として、書かれてしまうと、それは「ギニアの奥地」の人々の「記憶(思い出)」そのものになってしまう。文字にされることで、そこに河があったこと、水があったこと、河が蛇行したことが、「忘れることが/できなくな」るのである。
書く、考える--ということは、「いま」「ここ」を離れ、そしてそうすることで「私」からさえも離れ、「他人(他者)」になってしまうことなのだ。「他人(他者)」になって、「他人(多種)」の記憶を、「いま」「ここ」に甦らせる。その瞬間、「いま」「ここ」が家々の間のさら地ではなくなってしまう。ことばは、「いま」「ここ」さえも作り替え、その「記憶」が、この「土地」の記憶になる。「私」も「いま」「ここ」も生まれ変わってしまうのである。
書くということは、そして、その「他人(他者)」になってしまったことを、「いま」「ここ」そのものがまったく違ったものになってしまったことを、生まれ変わったことを、「忘れない」ためでもある。
書く、と冒険である。
書くとき、ひとはだれでも、自分にしがみついて書いているようだが、そうではなく、動いていくことばにしがみつているだけなのかもしれない。ことばが動いていく。動いて、「私」が「私」から離れていく。
「私」に戻ってくるには、そのことばを読み返すしかない。読み返して、思い出すしかない。けれど、それは「私」に戻ってしまうためではない。きっと、さらに遠くまで「私」を突き放してしまうために、戻ってくるのである。
より新しく生まれ変わるために、
この往復運動のなかで、書いている本人は、あ、いったい何を書いているんだろうと、何一つ思い出せなくなる瞬間があるかもしれない。けれど、その瞬間にこそ、たぶん、読者は筆者の姿を見るのだ。
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