詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川朱実「字が書けそうだった」

2010-04-13 23:30:00 | 詩(雑誌・同人誌)
北川朱実「字が書けそうだった」(「庭園詞華集2010」2010年04月02日発行)

 書く、とは何か。北川朱実「字が書けそうだった」は、そのことを問うている。

道を歩いていると
とつぜん
家と家との間がさら地になっていて

そこに何があったか
どんな花が咲いていたのか
何一つ思い出せなかった

字をおぼえて
過ぎてきたことを忘れることが
できなくなった

書かなければ
今日あったことの大半を
明日には忘れられるのだという

 この「論理」に従えば、さら地に何があったか思い出せないのは、北川がそれを書いたことがないからである。だから、おぼえていない。もし書いていれば、それをおぼえていて、「思い出せなかった」ということばのかわりに、それを書いたであろう。
 「思い出せない」(おぼえていない)とき、ことばは、どんなふうに動くか。
 北川は、なぜ思い出せないのか、ということをことばで追いはじめたのである。何も思い出せないから、ことばを「思い出」のためにつかうのではなく、失われた「思い出」のための「論理」につかう。
 そして、その「論理」を補強(?)しはじめることろから、北川のことばは、突然北川らしい色を発揮する。

遠く ギニアの奥地で
一つの文字も持たずに
五千年を生きた部族のことを
私は考えている

彼らの前を通りすぎた人々の頭蓋は
洗われ
磨かれて

休館日の図書館のような
ひっそりした木のうろに
しまわれているというが

それなら 頭蓋の鮮やかな傷も
彼らにとって
きれいな水が流れる河の
蛇行ほどのものかもしれない

 「論理」を補強するとは、「考える」ことである。そして、「考える」とは、「いま」「ここ」から出発して、「いま」「ここ」ではないところへ行くことなのだ。
 北川は、このさら地に何があったか、それを思い出すために、たとえば隣の家の窓を見つめなおすとか、空き地の真ん中にたって空を見上げるとか、そういうことをしない。「肉体」をつかって、「いま」「ここ」を再呼吸してみるということをしない。
 北川の呼吸は、いっきに「いま」「ここ」を離れ、ことばはリセットされる。「ギニアの奥地」に。そこには文字を持たずに生きている人々がいる。文字が記憶をつなぎとめるものだとすると、文字を持たない人々にとって、記憶(思い出)とはなんだろうか、と。そしてそれは「きれいな水が流れる河の/蛇行」ほどのものであるかもしれない、と思う。
 このことばの動きに、私は、ふっと引き込まれ、不思議な体験をする。
 北川は、「いま」「ここ」を再び呼吸してみる、深呼吸して「いま」「ここ」を生き直してみるという具合にことばを動かすかわりに、「ギニアの奥地」の人々のことを書いているのだが、その瞬間、私には、北川が「ギニアの奥地」の人々になっているように感じる。北川が深呼吸しているのは、「ギニアの奥地」の人々の「肉体」である。北川は「ギニアの奥地」の人々になっている。そして、その肉体になって深呼吸してみると、ギニアのきれいな水が見える。河が見える。蛇行する形が見える。光が見え、空気が見える……。
 そして、それが、こんなふうにことばとして、文字として、書かれてしまうと、それは「ギニアの奥地」の人々の「記憶(思い出)」そのものになってしまう。文字にされることで、そこに河があったこと、水があったこと、河が蛇行したことが、「忘れることが/できなくな」るのである。

 書く、考える--ということは、「いま」「ここ」を離れ、そしてそうすることで「私」からさえも離れ、「他人(他者)」になってしまうことなのだ。「他人(他者)」になって、「他人(多種)」の記憶を、「いま」「ここ」に甦らせる。その瞬間、「いま」「ここ」が家々の間のさら地ではなくなってしまう。ことばは、「いま」「ここ」さえも作り替え、その「記憶」が、この「土地」の記憶になる。「私」も「いま」「ここ」も生まれ変わってしまうのである。
 書くということは、そして、その「他人(他者)」になってしまったことを、「いま」「ここ」そのものがまったく違ったものになってしまったことを、生まれ変わったことを、「忘れない」ためでもある。
 書く、と冒険である。
 書くとき、ひとはだれでも、自分にしがみついて書いているようだが、そうではなく、動いていくことばにしがみつているだけなのかもしれない。ことばが動いていく。動いて、「私」が「私」から離れていく。
 「私」に戻ってくるには、そのことばを読み返すしかない。読み返して、思い出すしかない。けれど、それは「私」に戻ってしまうためではない。きっと、さらに遠くまで「私」を突き放してしまうために、戻ってくるのである。
 より新しく生まれ変わるために、
 この往復運動のなかで、書いている本人は、あ、いったい何を書いているんだろうと、何一つ思い出せなくなる瞬間があるかもしれない。けれど、その瞬間にこそ、たぶん、読者は筆者の姿を見るのだ。



死んでなお生きる詩人
北川 朱実
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニール・ブロムカンプ監督「第9地区」(★★★★)

2010-04-13 22:10:05 | 映画
監督 ニール・ブロムカンプ 出演 シャルト・コプリー、デヴィッド・ジェームズ、ジェイソン・コーブ

 これは、ばかばかしいくらいおもしろい。「マーズ・アタック」以来のばかばかしさと、おもしろさである。いや、「マーズ・アタック」をしのいでいるかな?
 映画というものは、嘘である。嘘を承知で観客は(私は)映画を見るのだが、その嘘の世界で、これは嘘ではありません、本物なんです、ということほどばかばかしく、こっけいなことはない。それを真剣にやるのだから、これはたまりませんねえ。
 予告編には(ああ、この予告編には、何か賞をあげたいくらいだ)あったシーンがない。予告編ではエイリアンにインタビューしている。エイリアンの人権(?)に配慮して、顔にはモザイクなんかがかけてある。そのシーンがいつかいつかと待っているけれど、そんなシーンはない。この裏切りもいいなあ。傑作だなあ。
 で、エイリアンへのインタビューという嘘のかわりに、なんと、人間へのインタビューがある。主人公の周辺の人々へインタビューしている。それが、まことに手際がよくて、おもしろい。長々と語らない。わかったような、わからないような、つまり、観客が勝手に想像できるような断片だけを語る。真実の断片。うーん、こにくらしいねえ。矛盾が出てこないうちに、さっさと切り上げて、観客にまかせてしまう。
 この関係者へのインタビューという真実(という嘘)を接着剤にして、この映画は嘘のドキュメンタリーをつくっていくんですねえ。
 舞台が南アフリカ、ヨハネスバーグというのもいいなあ。そこでエイリアンは、第9地区ということろに隔離されている。掘っ建て小屋だね。その周囲には、あやしげな店がたくさんあって、エイリアンを食い物にしている。ぼろもうけをしている。差別と、それを利用した商売。映画のなかでは、なんにも言わないからこそ、それがアパルトヘイトと重なる。そ、そうか。アパルトヘイトの時代、こんなふうな差別と暴力が平然とおこなわれていたんだろうなあ。
 「シャッター・アイランド」では映画の最初に、人間は自分のつごうのいいように現実を曲解してとらえてしまう。--というノウガキが説明されるけれど、この映画は、そんなノウガキを言わない。言わないけど(言わないからこそ?)、観客は(私は)、この映画のエイリアンの状況を、かつての(そしていまでもたぶん残っている)アパルトヘイトの「現実」として見てしまう。
 映画はつくりもの、嘘。嘘だからこそ、その嘘を思いついたヒント(現実)がどこかにあって、それがアパルトヘイトなのだ、と思ってしまう。
 この錯覚を、ホンモノ(嘘)のインタビューが補強するんですねえ。ホンモノ(嘘)の肩書までつけた人間が登場してきて、「証言」する。
 そうすると、ホンモノという嘘とホンモノという嘘がぶつかりあって、ホンモノではないけれど、ホンモノよりもホンモノらしい何かが見えてくる。見えてくると感じてしまう。
 主人公は、その第9地区の住民を、別の地区へ移住(移転)させる責任者になる。その交渉も、奇妙でおかしい。きっと、ヨハネスバーグの中心部から貧民街をなくしてしまうときに、同じようなやりとりがあったんだろうなあ。きちんと書類をそろえ、ていねいに対処するふりをしながら、強引にひとを別の場所へ移転させてしまうという差別が。
 などということを、ちらちらちら、うーん、そうか、そうなんだ、うんうん、と考えていると、

 突然、

 ストーリーが急展開していく。主人公が、エイリアンの発明した液体に触れて、エイリアンかしはじめる。それを地球人が狙う。エイリアンと地球人のハイブリッド。最高の武器だ。主人公は逃げ回りながらエイリアンに助けを求める。そのうち、エイリアンのこどもに気に入られちゃったりして、親しくもなる。はしょって書くと、協力して地球人と戦うようにもなる。
 ガンダム(使徒?)みたいなものが出てくるし、くずだらけのパソコンを繋ぎ合わせたスパコン、そしてスピルバーグが「マイノリティ・リポート」で登場させた、i-Phonの先走りのような、手で画面をぱっぱと動かすコンピューターなんかが出てくる。一方で、あいかわらずの銃もあるんだけれど。
 わあああ、むちゃくちゃじゃないか。
 書くのがめんどうなくらい、変なことだらけなのだ。それが次々に起きて、でたらめを「本物という嘘」のインタビューがごまかしていく。ニセモノなのに、みんなホンモノの肩書なんかもっていたりしてねえ。
 ごみからつくった造花なんて、ロマンチックまで登場させたり。

 傑作だねえ。映画はアイデアだねえ。
 この映画、主人公が人間に戻るために3年かかるそうだから、きっと続編があるな。3年後をめざしているんだな。
 というような「予告編」が折り込み済みの映画でもあります。
 3年といわず、3か月でもいい、早くつくってね。また見たいよ。

第9地区 - goo 映画
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一戸恵多『遠い瞳』

2010-04-13 00:00:00 | 詩集
一戸恵多『遠い瞳』(弘前詩塾、2010年04月01日発行)

 一戸恵多『遠い瞳』は、「現代詩」とは少し違うかもしれない。その違いを特徴的にあらわすことばが「アラン模様」という作品の中にある。アラン諸島の漁師たちの着るセーター。それについて書いた詩である。フリーマーケットで見かけた。

手に取ると
厚く太い毛糸の生地と模様の間から
無言の漁師たちの慟哭と
荒涼とした厳冬の漁港の様子が思い浮かぶ

ふつうなら考えたこともない
異国の殺伐とした風土の情景を
この一枚のセーターから会得しようとは思わないが
早く家に戻って
世界大百科事典の別巻として付いてきた
分厚い世界地図を広げてみたくなった

 「この一枚のセーターから会得しようとは思わないが」という行は「現代詩」にはない美しさである。「現代詩」はことばの力を借りて(ことばを動かすことで)、いま、ここにないものを現前化させようとする。けれども、一戸はそういうことを「しようとは思わない」。ことばに無理をさせないのだ。
 知らないことは、知らない。無理に想像力を動かしたりはしないのだ。そして、そこにあるもののなかで、世界を見つめなおすのだ。知っていることだけを、見つめなおすのだ。嘘をつかない(知らないことを、ことばでつくってしまわない)正直さが、一戸のことばを支えている。
 「秋海棠」の終わりの2連。

さて この参拝が終わった後は
どうしようかしらんなどと
母と言葉を交わしていると
秋海棠の花弁が
明り取りの小窓の光を受けて
天界へと昇っていくのが見える

数分の後
また来てあげるからね と
最後の別れを告げている母の
俯き加減の背中に立つと
いつも その秋海棠が
頷き返しているような気がする

 「天界」は一戸にとっては「位牌堂」と同じくらい具体的なものである。それは参拝をつづけることで「存在」が定着したものである。一戸ひとりが定着させた「存在」ではなく、一戸の暮らし(家族との生活)が積み重なって、そこに自然に形になったものだ。
 そうした嘘のないことばと、「現実」というものがあって、「秋海棠が/頷き返している」という「現実」がそのまま、「天界」という夢としっかり結びつく。そして、「天界」をもう一度、しっかりとした「見える」ものにするのだ。
 そうした「現実」を、気兼ねするように「気がする」と語るのも、一戸ならではの正直さだと思う。

 「声明」の1連目。

マッチを一本擦ると
静かな早朝の部屋の中に
くすんだ音が生まれる
ボォ

 この「くすんだ音が生まれる/ボォ」の耳のたしかさも、とても気持ちがいい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする